- ベストアンサー
伴天連追放令
1・豊臣秀吉が伴天連追放令を出すきっかけは何だったのでしょうか?確か博多で出したとのことですが、何故なのでしょう。 2・土佐でのサン=フェリペ号事件でイスパニア人乗組員が「イスパニアの領土拡大のために布教をしていた」と「暴露」し、禁教令が厳しくなったとのことですが、自国にとって不利益となることを何故、この乗組員は口に出したのでしょう?何か意図があってのことでしょうか? 3・1と2のことは何か関係があったのでしょうか
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
No.4.7です。 お礼のところに書かれているあらすじについて、どこかのサイトに粗筋が書かれていたと記憶しており、探したんですが、今回ヒットしませんでした。 >九州征伐後の博多で(?)フスタ船が砲撃を見せたのか(軍事示威行動?)、撃って見せよとの命があったのか、その威力を見て危機感を感じたものの 秀吉はコエリヨにフスタ船をくれと依頼したようです。 ところが、 http://toron.pepper.jp/jp/middle/wakou/shiwaku.html (私が前読んだのは、これとは違い、推測が書かれておらず、実際にあったことが、書かれていたのですが。。今回見つからなかったので) <1578年の6月、当時九州征伐で博多に滞在していた秀吉は、イエズス会の日本の準管区長コエリヨを引見した。 この2年前の1585年にも秀吉は大坂城でコエリヨに会い、大型船2隻を船員付きで売却して欲しいと頼んでいた。 (年代の記述 おかしいですね。1578年の2年前は、1576年なので) しかし、コエリヨは秀吉の依頼に従う振りをして、実は外洋航海には役立たないフスタ船に重装備を施して、 その軍艦の威力を誇示するかのようにして、博多に滞在中の秀吉の前に現れた。 これはコエリヨの愚行でなければ常軌を逸した振る舞いであって、高山右近や小西行長らはキリスト教会全体に災難が降りかかるのを恐れて、そのフスタ船を秀吉に与えてしまうようにコエリヨに薦めた。 しかし、彼はその説得に応じなかったと、ヴァリニャーノは書いている。 実際、秀吉はコエリヨの行動に激怒した。 それは、この事件直後にキリシタン禁止令を出している、のでよく解る> 上にリンクしたサイトを見ると、秀吉は朝鮮出兵を計画しており、それで外洋船を欲しがったと書かれている。 しかし、昔は九州からだと、天気がいいときには、朝鮮半島が見えたそうなので(対馬からだったかな?)、アメリカまで征服にいくなら外洋船は欲しいでしょうが、隣の国なので、理由は別にあると思うんですね。 私が考えるあらすじはこうです。 日本はあっちこっちで勢力を持った豪族がおり、騒乱の時代だった。 ザビエルが来たころも、もう内乱でボロボロ。 これでは、外から隣国から何度も攻め込まれてたとしても、一人の指揮官により日本が一体となり、外敵を撃退する ということができず、日本は何度かあわや崩壊という危機にあっていたという歴史を持つ。 その過去を見た信長は、天下を一つにしようと考えた。 (秀吉の場合、それを思想で統一しようとし、その柱である神社・仏閣を壊されるということは、日本が統一して一点にまとめられるのではなく、骨抜きにされてしまうと危惧し、それでそれを望んだ宣教師たちを追放しようとしたんじゃないかと) 今でも国によっては核兵器を持つことで、攻め込まれないように威嚇して、国の安全を保とうとしていますよね。 天下が一致団結すれば、威力が大きくなり、隣国が今までのように攻め込まれることはやりにくくなる。 ペリーが黒船でやってきて日本がびっくて、要求通りにしないと危険と判断したように、秀吉はやはり外洋船により、「俺達はすごいぞぉ」っと見せつけ権勢をしたかったのか・・・。 うーん。 一つ聞いた情報だと、秀吉は朝鮮が日本に攻め込もうとしているのかどうなのか、調べていたようです。 宣教師のバックであるイスパニアは、アジアを支配しようとしてマカオに基地を持っていたが、目的は大国中国で、東側にも基地を持ちたかったと思えるんですね。 それでまず日本を取ろうとして、宣教師を送り込み、思想を塗りこみ、スペイン王の意のままに日本を操作し、中国を西と東で挟み込もうとした。 それは秀吉にとっては、イスパニアが日本を領土にしてしまうことだと思い、秀吉の追放令に書いてあるとおり、日本という国は独特の信仰があり、神社仏閣は国体であり、それを否定する=日本人を否定する=日本を滅ぼす ということになってしまい、それはイスパニアによっては神の善であるが、滅ぼされる日本にとっては悪であるとなったのではないかと。 例えば、人間が「私の血となり肉となり取り込まれるために食われなさい」と動物に言って、動物は「はい あなたと同化するため、あなたに食われ死にます」と言うかというと、必死に抵抗しますよね。 で、秀吉は何故外洋船を欲しがったのか。 想像ですが、自国で独自に貿易をやりたかったのかなぁ・・・と思います。 フグは食いたし、毒は怖し。 家康もフグは食べたかったようです。 結局 毒の弱いフグであるオランダと交易するようになったそうです。 何故ならオランダはプロテスタントの国ですが、布教をしないという条件で、純粋に貿易のみやると言ってきたので、受け入れたらしいです。 サン=フェリペ号事件ですが、これは秀吉が事実と異なるいいがかりをつけたのではなく、宣教師側が何があったのか記録していることから、この失言は事実だったと思えます。 恐らく通訳がいて、そこに宣教師もいてその場に立ち会ったので、宣教師はパイロットがそう言ったということを知り、報告書に書いたのだと思います。 で、ただちに「そんなことは考えていない」とその場で言えばよかったのに。 言ったのかもしれませんが、南米を同じ手口で征服していたので、言っても無駄だったのかもしれません。
その他の回答 (7)
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
No.4です。 どこで知ったか思い出しました。 <逆説の日本史>でした。 1596年10月、土佐の浦和沖にサン・フェリーペ号が漂着した。 この乗組員たちは秀吉に謁見し船の修理を願い出たが、どういう経緯があったのか、秀吉はこの船の莫大な積荷を全部没収してしまった。 恐らくそのことに憤りを持っていたのだろうが、サン・フェリーペ号の水先案内人が取調べにあった五奉行の一人、増田長盛に対して言った言葉。 <水先案内人は、長盛に世界地図を見せて、イスパニアの領土の広大なことを自慢した。そして、どうしてそのように領土を拡大したのかと尋ねられると、わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相当の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやすく目ざす国土を征服すると答えた。 これが長盛から秀吉に報じられたとイエズス会の宣教師ルイス・デ・セルセラが伝えている> (「日本の歴史(14) 鎖国」岩生成一著 中央公論新社刊) といういきさつがあったようです。 3.についてですが、 http://www.seibonokishi-sha.or.jp/kishis/kis0204/ki08.htm 『京・大坂のフランシスコ会士やキリシタンを捕まえたが彼等を長崎で処刑するよう強力に推し進めたのは五奉行の一人増田長盛であった。』 ということから、パイロットの失言により、イスパニアが日本を征服しようとしているという疑いというか、確信を持ち、キリスト教禁止の命令を出したようです。 1.ですが、 伴天連追放令は1587年6月。 サン・フェリペ号事件は1596年10月。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6 『既にバテレン追放令は発布されていたが、南蛮貿易の利益を重要視した秀吉による弾圧は限定的な物で、日本全国には多くのキリシタンが未だに信仰を維持していた。』 秀吉が1587年に追放令を出した理由は http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4 『翌年九州を平定して博多に滞在していた6月18日の覚書でキリシタン規制を表明した。 具体的には神国である日本でキリスト教を布教することはふさわしくないということ、領民などを集団で信徒にすることや神社仏閣などの打ちこわしの禁止』 これらを伴天連はやっていたので禁止命令を出したのですが、 『禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却させてはいるが、命令どおり宣教師たちを国外に強制退去させたり、信徒を実際に迫害することはなかった。』 ということで、サン・フェリペ号事件があるまで、実際は宣教師たちは日本に滞在し続けていたようです。 サン・フェリペ号事件で、神社・仏閣どころか、日本を破壊する予定だとわかり、黙認していたらとんでもない事になるとして、命令を出しても無視されたので、実力行使に出たわけですね。 イスパニアにとっては、どうしても欲しかった植民地だったようです。 それでも守りきれないとわかると、鎖国に踏み切ったわけです。 何から日本を守ろうとしたのか。 キリスト教からだったようです。 これはカトリック側なのですが、鎖国していた日本を起こしたのがプロテスタント側。 日本の位置が災いしていますね。
お礼
私が一番知りたかった3についても、詳しい記述を紹介していただきまして感謝しております。 9年の歳月を経て「ゆるゆる禁教令」が「厳禁教令」に変わったいきさつが見えてきました。以下ストーリー想像。 九州征伐後の博多で(?)フスタ船が砲撃を見せたのか(軍事示威行動?)、撃って見せよとの命があったのか、その威力を見て危機感を感じたものの、貿易の利潤を思うと踏み切れず、とりあえずの禁教令をだす。以後、日本に寄航しないようにと。キリシタン大名統制への配慮もあった。 ところが台風により「やむなく」土佐に難破(土佐というところが信憑性が高い、堺や別府なら言い訳無用)、これは運が悪いとしかいいようがないが、増田長盛は許さず「約定を破った」と積荷を没収。その際、積荷を返して欲しさに船長が「そんなことをすると後々本国イスパニアの強力艦隊が押し寄せるぞ、積荷返せ!」、秀吉激怒「帰れ、二度と来るな。伴天連も追放じゃ」。前々からの伴天連無礼講についに秀吉キレる。軍艦を貰う約束も反古にされたし、「日ノ本をなめるなよ」。 とこんな感じなのでしょうか?間違いありましたら訂正お願いします。回答ありがとうございました。 また皆様の回答のおかげで概容がつかめてきました。改めて博識の皆様にお礼申し上げます。
- hakusyon1
- ベストアンサー率43% (55/126)
またまたですが、ANo.1のものです。 可能性としてですが 九州のキリスト教の普及の早さに驚いた可能性はありますよね。 ご存知だと思いますが 九州にはキリシタン系統の大名が多いし ザビエルが最初に上陸したこともあり 民間への布教も都などと比べるとかなり進んでいたのではないでしょうか。 真偽はともかくとして かの大友宗麟は豊後にキリスト教の王国を建設しようとしていた節があるなんていう説を唱えている方もいます。 ただともかく この時点では 5月6日に九州制圧を完了して、6月9日のバテレン追放令まで時間が経っておらず 表立ってかなりの弾圧をかけると 国内外で波風が立つことを予想はしていたと思います。 また頭の中に朝鮮出兵へのビジョンがもしもあったのなら あまり波風を立てずに統治したいと思っていたのではないでしょうか。 そういった意味での配下のキリシタン大名への配慮は多少なりともあったかもしれませんが 高山右近だけは この令と同日の6月19日に領地を没収されています。 そう考えると遠慮も何もなかったのかもしれませんし、 見せしめだったのかもしれません。 なぜ博多かについては興味深い話があり 6月11日に 博多を貿易港として再興させ直轄領とするために石田三成・小西行長等に町割奉行を任せ再建に着手しています。 その際に 秀吉は南蛮船フスタにのり 外国人宣教師二名と紙屋宗湛も同乗しています。 ここで何があったかは私は知りませんが かなり怪しいとは思います。 町割について勝手な意見⇒教会を建てろだのなんだのやら 何かしらの失言⇒船員のようなことを言った可能性もあるやもしれませんが、私の推測です。 小西行長もキリシタンでこれを重用していたのも謎は謎なんですが…。 博多で何を見たにせよ 秀吉としてはキリスト教に長期的なビジョンはあったと思います。 その中でユルユルな法律で徹底されなかったことなどから 何かしらの背景への配慮があったんだと思います。 紙屋宗湛もへの配慮だったかもしれませんし 先に述べた理由などから、キリスト教徒・外国への配慮もあったでしょう。
お礼
大友宗麟は日向侵攻に当たって当地に「無鹿」なる地名を与えてここを宗教国の基点にしようと思っていた。「無鹿」は「musica」(宗教音楽)のことと、ものの本で見た記憶があります。現在もその地名はあるそうですが。(脱線) ザビエルの件は私もかねがね不思議に思って調べて見ましたが、堺では好評だったようですが、博多に関してはそれほどでも無く、不人気だとの話もあります。この差は何なのでしょう?温度差があります。 博多の商人の中にはキリシタン嫌いがいて讒言したのか、回答の中の紙屋宗湛の失言があったとして、そのことも関連しているのかも知れませんね。 前の方のお礼にも書いたように、九州の現状を見てこれはいかんと感じたのでしょうか。なるほど九州征伐からさほどの日数があるわけでもないところを見ると九州キリシタン大名たちへの対応をどうしようかとの迷いが見られます。 フスタ船のことも前出していますが、宣教師の欺瞞を秀吉が感じ、博多で現状を見聞きし確証を得た(決断した)と考えるのが自然のような気がします。 回答ありがとうございます。
- nene-k
- ベストアンサー率42% (118/279)
1、天正十五年の6月18日の1回目の禁止令と1、9日の2回の禁止令との合間に秀吉は、イエズス会の宣教師・コエリヨと会見しているそうです。 何か関係があるかも知れませんね。 http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/06/post_1be3.html
お礼
やはり秀吉自信、明国を制するには強力な艦隊(軍船と船乗り)が必要であると考えていたようですね。しかし「ごまかし」をされた、と推測されるので、キツイしっぺ返しをしたのが禁教令(後の方の)だったのですね。九州は確かに大友宗麟、有馬氏、松浦氏など多くのキリシタン大名がいます。初めて目にする異郷の宗教の氾濫に秀吉は驚いたことでしょう。 コエリヨ(ついコヨリエと言ってしまいそうになります)は抜け目ない人物だったのでしょうね。 回答ありがとうございました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>2・土佐でのサン=フェリペ号事件でイスパニア人乗組員が「イスパニアの領土拡大のために布教をしていた」と 私が聞いたのは、「何故スペインはこれほど強大になれたのか」と質問された船員は、「そりゃあ まず尖兵として宣教師を送り込み、その後軍隊を送り込むからです。」と正直に答えてしまった というもの。 船員はそれを聞いた相手が、「スペインは宣教師が日本に入り込んでいる=スペインは日本を侵略して征服しようとしている」と推測することになるなんて思いもしなかったと思います。 単に素直に答えただけ。 >1・豊臣秀吉が伴天連追放令を出すきっかけは何だったのでしょうか? 秀吉も信長と同様にキリスト教保護の立場をとっていたんです。 キリスト教を善の団体だと考え、友として歓迎していたと思えます。 ところが、トロイの木馬だったと思えるようになった。 例えばポルトガル人が日本人を海外に奴隷として売り飛ばしていることを知り、コエリヨに「これは許しがたいことである。ただちに日本人を連れ戻せ」と命令している。 どうしてかというと、商人の船の入港は全て宣教師たちが独占でし切っていたから。 どの船がどこに入港するなど、宣教師が決めていたんです。 だから秀吉はコエリヨに言ったわけです。 また秀吉は宗教の選択は自由だという方針だったのですが、「何故伴天連は地方を巡回して人々を扇動し、強制的に改宗させるのか。」と本人の意思を無視して強制的に信者にしようとする伴天連の暴力行為をやめさせようとした。 そして「何故伴天連たちは日本の神社・仏閣を破壊し、信官・僧侶たちを迫害するも、融和しようとしないのか」と彼らが言う平和と愛・許しとは裏腹の実体を指摘した。 それに対してコエリヨの反応は傲慢で狡猾でたかをくくったもので、やあり船員の言ったことは本当で、彼らはトロイの木馬のように、騙して内部に侵入し、内部から破壊し乗っ取る尖兵だと判断せざるをえなかった。 友だと思っていたが、とんでもない悪人たちだと判断し、このままでは彼ら悪魔に乗っ取られると判断し、彼らを日本から追放したわけです。 コエリヨが真摯な態度をし、海外に売り飛ばした日本女性達を返してくれたり、ポルトガル商人を悪役にしたてあげ、監督不行き届きでした。彼らがまさか日本女性を海外に売り飛ばして金を稼いでいるとは知りませんでした。 私は一切マージはもらっておりません。 金品を多量にマカオに持っていったというのはデマです。 私がそんなことするわけないじゃないですか。 神のご加護があり、彼女達は無事にかえってきたし、彼らが儲けた金を彼女たちに全部与えさせるつもりです。 本当です どうか信じてください 神に誓って嘘はつきません べーーーだ」と心の中であっかんべーと演技しなかったのが災いした。 秀吉を見下していたからでしょう。 とるにたらない自分達の犬だと。 ポチがまさか主人にかみつくなど予想もしなかったでしょうが、ポチは主人であったコエリヨに噛み付き日本から追い払いました。 でも その頃はもうコエリヨはたんまり儲けていたので、痛くも痒くもなかったと思います。 しいて言えば中国侵略の足がかりとなる日本を征服できず、イエスさまに貢献できなかったことが悔やまれたでしょう。
お礼
コヨリエなる宣教師に対しての秀吉の質問「何故イスパニアはそこまで強大になれたのか?その秘訣とは?」は秀吉が海外征服の秘訣を聞いたのでしょうか(これは発想の飛躍か?)。 しかしコヨリエが秀吉、しいては日本と言う国をなめてかかっていたし、もうたんまり儲けたので(私的には)このへんが潮時かと判断したのか。結論はやはり失言だったと私は思うのですが・・・ 傲慢で高圧的、しかもお間抜け発言をしてしまったのです。 トロイの木馬の話はよく分かります。神仏破却も確かに矛盾の塊ですね。 回答ありがとうございました。
補足
お礼文中、コヨリエはコエリヨの読み間違いでした。訂正します。ああややこしい。(ジョン・ボンジョビの読み間違いが多いのに類似)
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
2・土佐でのサン=フェリペ号事件でイスパニア人乗組員が「イスパニアの領土拡大のために布教をしていた」と「暴露」し、禁教令が厳しくなったとのことですが、自国にとって不利益となることを何故、この乗組員は口に出したのでしょう?何か意図があってのことでしょうか? ==================== どうせすぐに、日本もスペイン領になるんだから、スペインの俺の言うことを聞いておけ! という意図で話したそうです。
お礼
うわー、随分高圧的態度ですね。世界を席巻したスペインのおごりが見えますね。サン=フェリペ号についてはもう少し詳しく調べていくつもりです。 回答ありがとうございました。
- hakusyon1
- ベストアンサー率43% (55/126)
ANo.1のものです。 すいません。補足です。 「サン・フェリペ号の事件が、26聖人殉教事件の遠因となった」と、手元の辞書にはありますので、サン・フェリペ号事件が秀吉のなかでキリスト教の印象を損ねるものであったことは間違いないようです。 続けてになりますが、先ほど記したとおりのことから、決して「暴露」ではないと思います。
お礼
26聖人殉教事件の方の遠因となっていたのですね。調べてみます。 どちらにしても先の回答してくださったように、脅しが失敗したのでしょうね。 再度の回答ありがとうございました。
- hakusyon1
- ベストアンサー率43% (55/126)
バテレン追放令がサン・フェリペ号の事件よりも、ずっと以前の話で恐らく関係はありません。バテレン追放令は、ゆるゆるの法律でバテレンを追放することに決めたものの、民間レベルでの信仰は黙認しており、さらに貿易船の来航は奨励しています。結局うやむやな法律なんです。 博多で突然出した理由は、何かしらのものがキリスト教の悪評を告口した可能性もあるような気がしますが、それが直接の原因であるとしても、以前からキリスト教への対応を考えていたのではないでしょうか。 がしかし、この時点では南蛮貿易での利益の方が優先事項であったから黙認されたのだと思います。 なぜに船員はそのようなことを口にしたのか。。。推測ですが、イスパニア国王の名前を出せば、没収された積荷と所持金が戻ってくるとおもったのでしょう。たとえば、あなたがどこか外国で捕まったときに、言葉も通じないような人たちに対して自国の利益など考えますか?まずは自分の荷物が没収されたのならそれを取り返そうと最善の努力をつくすはずです。事実、乗組員達はマニラに戻ってからイスパニア政庁をとおして、秀吉に積荷の返還を交渉しています。ちなみに、返還はされなかったようですが。。。
お礼
1と2の因果関係はなかったのですか。 1・前々から考えていたことを実行に移した。しかし何故博多なのでしょうか?この時点では貿易を重視したので規制も緩かったのですね。 キリシタン大名も多かったので、秀吉としてはいろいろ尽くしてくれた高山右近、中川清秀、黒田如水らに遠慮もあったのではないかとも思っていますがどうなのでしょう。 2・一種の脅しと考えて良いのでしょうか。ついポロリでは無く、荷物返せ、返さないと属国にするぞ・・・しかし結果逆襲された、とのことでよいでしょうか。この件よく分かりました。 回答ありがとうございます。
お礼
kigurumi様が探してくださった「フスタ船についての事実」の記述を見ることが出来たらスッキリ解決のような気がしますね。コエリヨはそれほどの実力者ではなかったのでしょう。 明国制圧についてはイスパニアとの同盟を築こうとしたが、秀吉とイスパニアの思惑には相当のズレがあった。しかもその前後、イギリスとの交戦状態であったため実際には東洋に軍を派遣する余力も無かった(無敵艦隊が敗れたから)。秀吉は大型軍船に頼らずとも対馬朝鮮ルートで明に攻め入ればことたることに気付いた。フスタ船ではごまかしきれなかったのか。かえって博多でのこの一件で秀吉の怒りを買って禁教。 一方でオランダのように純粋に貿易をやり、国力を上げるのも西洋風の考えです。それにも大型船が必要ですので、回答者様推測の貿易論もありうるかと思えます(そのとき直ぐに欲しいと言ったのは、外国の脅威に対抗するためだったのか、はたまた明を支配経営するほうが貿易をするより手っ取り早い利益を上げる方法だと思いついたのか?) サン=フェリペ号事件については通訳が下手だったとは考えられませんか?意図が正確に伝わっていないために結果失言のようになったとか・・・ 回答ありがとうございました。