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皆さんが例えいばらの道と分かっていても哲学の道を探求するのは何故ですか?

こちらの続き…とうより一度思考を整理し、質問内容を改めたいので改めて質問させて頂きます。 http://okwave.jp/qa3513527.html 現実は、【「正解」を知っていたとしても、「解決」するのとはまた別問題】、ということがあります。 例えばの話、人生に絶望し価値観が崩壊している者に、「現実に目を向けろ、超人になれ」と薦めても、恐らく無理でしょう。 仮に、それが正解だったとしても、「良薬口に苦し」。正解がその者にとって耐え難い苦難の道であったとするならば、自らすすんでいばらの道を進める者はそうはいません…。 逆に、どこぞの怪しい宗教が「あなたは神に選ばれた存在で、この世はかりそめの物で、我々の教団に入れば貴方は天国に行ける」と言ったとしましょう。 その者にとってそれが心地よければ、善い悪いに関係なく入信するかもしれません。 まさに麻薬です。 途中で気づいて、甘い汁より苦い薬を選ぶ人も居るかも知れませんが、実際には「最早問題の解決などどうでもよく、放棄して安楽こそが至上である」、と錯覚してしまう人が意外と多いように感じられます。 それもある意味、「現実」なのかもしれませんが、「幸せになれるなら麻薬を使用しても良い」、とはならないと感じております(まぁ、実際には合法ドラックとか、煙草も含め多数ありますが、あまりに依存性の高いものは危険です)。 そこで、では苦難の道と分かっていながら、それでも歩もうとするのは何故でしょう? それを何と言うのでしょうか? 探究心・希望・信条・興味…etc みなさんの考えをお聞かせ下さい。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.8

知と行を一致させることは大切だと思います。 仏教なら、ブッダの境地=涅槃=輪廻的生存の滅、が目的であって、 そのために、まずその実現方法を知り、後にそれを行じます。 八万四千の仏の教えは全てこのためにあります。 今我々のいる輪廻が苦しみでしかないこと、(一切皆苦) 涅槃が幸せであること、(涅槃寂静) を知り、涅槃を求めます。 だから、いやいやながらではなく、喜んで修行するべきです。 例えば、海賊が宝島のありかを知って喜んで行くように。 涅槃を求めることは苦しい道を歩くこととはいえません。 確かに、求道によって苦が増えることがありますが、 今生の楽と苦にとらわれない態度をもつべきと説かれます。 今生の楽と苦は無常なもので、一時的なものに過ぎません。 例えば、何か欲しいものを得ても、死ぬ時には全て失います。 必然的に得れば失うこととなり、同一の事柄の異なる側面といえます。 自分も対象も無常です。 得て喜び、失って悲しむのは、無明の闇に犯された愚かな行為です。 今生の楽と苦にとらわれず、もっと有意義な実践を目指します。

cat_v
質問者

お礼

う~む…; 今までの質問とやや被るのですが、確かに「認識を変える(変わる)」というのは、ある意味効果的な方法です。 しかし、問題なのはそれが「苦難である事に気づいているのか?」、それとも「苦難であると気づいているが、決して自分は苦しくない」のか?、はたまた「麻薬(現世の否定)を使用して認識できないのか?」という点です。 「苦難が苦難でない」というのは、「もはやそれは苦難ではない」と同じ事だと思うのです。 >今生の楽と苦は無常なもので、一時的なものに過ぎません。 >例えば、何か欲しいものを得ても、死ぬ時には全て失います。 >必然的に得れば失うこととなり、同一の事柄の異なる側面といえます。 >自分も対象も無常です。 >得て喜び、失って悲しむのは、無明の闇に犯された愚かな行為です。 >今生の楽と苦にとらわれず、もっと有意義な実践を目指します。 なるほど。 全体を見据えた大局的な見方ですね。 「苦難という認識を変える」という事になるかと思いますが、しかし確かに「広い視野」で物事を見た時、もはやそれは苦難でも何でもなくなるのかも知れませんね。 ありがとう御座います。 とても参考になりました。

その他の回答 (14)

回答No.4

まず最初に私はこの世は全て一義的でないと思っています。見る視点を変えれば解釈も変わってきます。 貴方にとって正解でも私にとって正解とは限りません。逆もまた然りです。 もし本物の正解、つまり真理めいたものがあるなら法律は世界で1つでいいし、道徳や宗教も1つでよい。もちろん哲学も1つでよい事になる。 そんな正解の無い世の中で私達はいったい何を基準にして生きていけば良いのでしょうか? 右に行くべきか左に行くべきか人生の岐路に立った時、何を基準に(見せかけの)正解を導き出せばいいのでしょうか? 人は悩み苦しみ自分なりの正解を探そうとしているのだと思います。 それが哲学なのではないでしょうか?何も大好きで悩み苦しんでいる訳ではないと思います。 >「幸せになれるなら麻薬を使用しても良い」、とはならないと感じております(まぁ、実際には合法ドラックとか、煙草も含め多数ありますが、あまりに依存性の高いものは危険です)。 そんな事はありません。現実の世界は結構なんでもありです。ある種のドラッグが合法の国もありますし、 日本でもガンの末期患者には痛み止めとしてモルヒネを使いますのでこれは視点を変えればある種の「幸せになれるなら麻薬を使用しても良い」だと思います。 合法かどうかはある人たちが決めた事でそれが正解かどうかは別問題です。(先に述べたようにどの点で正解かは解釈次第です。) 医療従事者の私としましては視点を変えればドラッグも高カロリー高脂肪食品の大量摂取(現在の日本では当たり前の食事)も大差はありません。 この世にここから善でここから悪という、又はここから正解でここから間違いという真理をついた明確な境界線はありません。 「20歳未満は体に悪いからタバコは禁止です。」って、私からすればタバコが体に悪いのは年齢で境界線を引けないと思います。 大人だけ合法なのは正解ではなく大人のエゴだと思います。誰が吸っても身体に影響はありますから。 ちょっと脱線しましたが私なりの結論は「苦難の道と分かっていながら、それでも歩もうとする」のではなく 「真理をついた正解がないのに正解めいたモノを探さないと生きていく指標がないから苦しみ悩んでいる。」 この様が「苦難の道と分かっていながら、それでも歩もうとする」に見えるのではないでしょうか?

cat_v
質問者

補足

話の論点がかなりずれてると思います。

  • dulatour
  • ベストアンサー率20% (327/1580)
回答No.3

哲学とは、問題意識を持つことです。 問題意識のないところから、進歩はないから、敢えて問題点を凝視するのではないでしょうか・・・・・な。

cat_v
質問者

お礼

>哲学とは、問題意識を持つことです なるほど…たしかにそうかもしれません。 >問題意識のないところから、進歩はないから、敢えて問題点を凝視するのではないでしょうか・・・・・な 仰るとおりですね…。 問題だと気づかなければ始まりませんものね。 しかし、問題と気づき、正解まで用意されていても、なお解決へとは至れないとは…。 難しい…。 ありがとう御座います。 とても参考になりました。

  • code1134
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回答No.2

"心頭滅却すれば火もまた涼し"と時として言いますが、(質問者さんを含む!?)第三者の視点からは"茨の道"であっても、当事者には苦に感じぬ、からではないでしょうか? 或いは"狭き門より入れ!"云々との新約聖書(マタイ福音書)の文言に当て嵌めるなら、(狭さを掻い潜って)門を通過した心理的充足感の為せる技かも知れません。

cat_v
質問者

お礼

>"心頭滅却すれば火もまた涼し" う~む…;なるほど…; つまり、探求者にとって茨は茨ではないと…。 確かにそうなのかもしれませんね。哲学者も宗教家も、ある意味「おお!我が祝福の道よ」といって進んでる事が少なからずあります。 しかし、ニーチェさんの面白いところは、「何言ってんだい?苦しい道は苦しいに決まってるだろ?」と、現実を肯定した上で、さらに「それでも俺は進む」と言ってる所なんですよね。 でも、これってある意味、彼が超人(に近い?)から出来る事であって、一般人に薦めるにはやや荷が思いかと…。 では、一般人的視点に立った時、もしくは茨の道と認識していながら、それでもなお進もうとする猛者の心理とは如何に? と、いうのが私の命題で御座います。 でも、ある意味、「認識を変える」というのは、実は意外と使える手なのかもしれません。 ありがとう御座います。 とても参考になりました。

cat_v
質問者

補足

>門を通過した心理的充足感の為せる技 つまり、「達成感(もしくは、幸福?満足?)」ということでしょうか? ただ、これに至れぬうちはどうなのかと…。 いえ、ひょっとすると、「茨の道を歩む事そのものが幸福である」という事でしょうか? う~む…;

noname#45642
noname#45642
回答No.1

自分の思っている目的に到達したいという願望。 あまり深く考えて、苦難の道を歩む人は少ないでしょう。(保身行為が働きますので)

cat_v
質問者

お礼

>あまり深く考えて、苦難の道を歩む人は少ないでしょう。(保身行為が働きますので) なるほど…; 言われてみれば、たしかにそうかもしれませんね…; しかし、それだと途中で気づいてしまった場合、やはり投げ出してしまうのでしょうか? ありがとう御座います。 参考になりました。