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時代劇に登場する大嘘を教えて下さい
時代劇が好きでよく見るのですが、中には素人が考えても 「こんな時代に、それはないだろう」 と感じるシーンも多いです。 まず 「暴れん坊将軍」 のタイトルシーンに江戸城の天守閣が背景として映りますが、吉宗の時代には天守閣は大火で焼失していたはずなので、これは嘘だと思います。 それとか既婚女性のお歯黒ですね。 本当は真っ黒だったはずです。 遠山の金さんなんて、町奉行が桜吹雪の刺青をして遊び人として町に入っていたなんて、実際にはとても思えませんね。 ま、これはフィクションですから大嘘と言うのはかわいそうかも知れませんが ・・ あと、このカテでも西部劇で主人公が馬に乗って荒原を旅するシーンがありますが、実際には馬1頭で旅する事なんてあり得ず、予備の馬を必ず連れて行ったはずと聞きました。 時代や洋の東西を問わないで結構ですので、時代劇の登場する大嘘について教えて頂けないでしょうか?
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また失礼します。m(__)m。鉄漿(おはぐろ:お歯黒)一考。 元々、お歯黒は虫歯対策でした。 今は歯医者でエアートームという「うぃ~ん」って音がする忌み嫌われてる機械の出現で虫歯で死ぬ人はいませんが、あの機械が出現するまで、虫歯は命に関わる病気でした。 虫歯を放置すると歯の根元で化膿し、そこから虫歯菌が血液に進入、全身の血液が化膿してしまう敗血症という恐ろしい病気で死亡します。 今でも敗血症は起こってしまえば即命に関わる恐ろしい病気です。 虫歯になったら、麻酔やエアトームのなかった頃はまだ歯がペンチなどで掴める状態の時に力づくで引き抜く以外に治療法が無かったのです。 このために、虫歯を予防する方法として、お歯黒が開発されました。 女性は妊娠により赤ちゃんにカルシウムを取られて虫歯になりやすいので既婚女性に真っ先に普及したわけです。 また優雅な生活をしていた公家なども、甘いものを一杯食べられるので虫歯になりやすく、お歯黒が普及し、それぞれ既婚女性の、あるいは公家のステータスシンボルみたくなりました。 これが映画で見られなくなったのは、戦後、テレビで時代劇が放映され始めた初期です。 歯磨きが普及し、お歯黒を知らない世代が増えた影響でしょうか「歯が黒いと気持ち悪い」という抗議が殺到したのだそうです。 それで「明らかに間違えなのだけど」お歯黒を入れるのを止めたそうです。
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- cyototu
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#21です。#27さんに刺激されて、私も一言。 今でも日本の祭りは一日(月立ち)七日八日十五日二十三日など、妙に日にちにこだわっている理由が月の形にあることを最近知りました。昔は太陰暦だったのでこれが当たり前だったのですね。 古代の日本では正月が月立ちではなくて冬至後の最初の十五夜だったことのなごりが、いまでも東北地方の小正月を1月15日に祝うことに残っているとか。 太陽暦は外国との関係で便利かも知れませんが、父母たちが造り上げて来た自然を見る心を失わせてしまうと言う、悲しい側面もあるのですね。 質問者さんの趣旨からずれてしまいますが、質問の良さに免じてご容赦下さい。
お礼
有難うございました。 暦と月の形が連動しているというのは、考えてみれば随分風流ですよね。 その意味では、太陰暦の方が自然と調和した暦なんだなと感じました。
「大衆時代劇のウソ・本当、を考えてもほとんど意味はありません。」ですとお? この質問や多くの回答に意味が無い? こんな回答はこのサイトの規則で禁止されています。↓ 【回答ではない】 ・[批判目的]質問に対する回答を示さず、質問者や他の回答に対する指摘・批判を目的としているもの 某さんがおっしゃるようなことは、質問者さんも他の回答者さんも百も承知です。その上での質問であり多数の回答だと思いますよ。みなさん楽しんでやってます。 質問が気に入らなければ回答しなさんな。
お礼
有難うございます。 歴史の事実は事実、創作は創作とキチンを理解した上で時代劇を楽しみたいなあと思って質問させて頂きました。 もし、まだ「時代劇にはこんな嘘が混じっているよ」と思われる事があれば、教えて頂けるでしょうか。 とても勉強になります。
- googahaku
- ベストアンサー率17% (43/242)
質問への直接の回答にはなりませんが、昔は、歴史と文学の間に明確な区別はなく、歴史上の人物や出来事からヒントを得た創作文学(大衆)がすべてといっても過言ではありません。 古事記、日本書紀、源氏物語 も然りです。 大衆娯楽の時代劇では、その現代人の感覚に受け容れられやすくするため、現代流にアレンジされていたりもします。水戸黄門も、遠山の金さんもシエクスピアや近代の事件を取り入れているものがあります。 したがって、大衆時代劇のウソ・本当、を考えてもほとんど意味はありません。作者の意図に従い、単なる娯楽番組とし、割り切って楽しめばよいと思います。
お礼
ご指摘、有難うございます。 古文書の世界はたしかに創作と事実の区別がつかなくて、後世の学者たちを悩ませているようですね。 でも、だからこそ、歴史の真実を理解した上で時代劇を楽しみたいと思って質問をさせて頂いたわけです。 皆様のお答えのお陰で、随分と映画のシーンなどで歴史を誤解しているんだなあと感じたしだいです。
- myeyesonly
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またまたすいません。m(__)m お礼についてです。 >何も騎士を相手にしなくても、歩兵が槍で馬のお尻なんかをブスッとやったら、騎士が一発で引っくり返るような気がしていた その通りで、戦国時代の戦では、既に騎馬軍団による突破に対する防衛陣として「長柄の足軽」という部隊がありました。 通常よりはるかに長い槍を立てるか地面に伏せて一列に並べ、敵の騎馬隊が突撃してくると、指揮官の合図で穂先を相手に向けてあげ、石突を地面に突き刺して足で踏んで固めます。 そこに騎馬隊が突撃してきたら・・・みんな串刺しになります。 なので、騎馬軍団による突破は戦国時代には非常に特殊な作戦で、相手が長柄の足軽を用意してないとか、横からの不意打ちとか、特殊な機動に限られました。 正面切って行くと串刺しになるので、当然その前で馬から下りて槍を払いながら徒歩で突撃します。 もしくは騎馬隊に先行して長柄の足軽部隊を進めて相手の槍を叩き落してから騎馬隊が進みます。 では騎馬上での戦いは無かったのか、というと、源平の頃にはありました。 最初に敵味方の両方から腕に覚えのある騎馬武者が一人づつ進み出て名乗りをあげて渡り合います。 どっちかが倒れる度に次の武者が・・・という具合で数回やってるうちに騎馬隊が突撃して乱戦になる、という状態でした。 しかし、足軽が発達し、長柄の足軽などという特殊分業部隊が出るに及んで、騎馬突撃は非常に危険な行為となり、先に述べた特殊戦法に様変わりします。 普通の徒歩の兵隊が動いてる馬を突くのは非常に難しいですけど、一旦止まってしまうと巨大な馬は簡単に突けますので、おっしゃるような話になります。 従ってよほど突破力に優れた騎馬隊じゃなければ、最後まで騎馬で戦うのは無理で、やる時には通常は、一気に相手の陣地を駆け抜けて、相手の軍団を分断するというような使い方でした。 従って、騎馬同士が徒歩の兵隊の中で斬り結ぶ、などというシーンは存在し得ないわけです。 あるとすれば負け戦になって逃げる時くらいでしょうか。
お礼
騎馬戦の本当の姿を解説して頂いて、有難うございました。 映画のシーンなんかとは、全然違いますよね。 よく乗馬したまま、刀を片手で振り回すシーンがありますが、刀って結構重かったように聞いていますし、そもそも停止しているのですが、馬のお尻をプスッとやるのが一番効果的なように感じていました。 でも騎馬の集団が土埃を上げながら全速力で敵陣に突撃して行くシーンって、たしかに映像的に迫力あるので、嘘と分かっていても、いつの間にか今のようになってしまっているんだろうなと思いました。
- myeyesonly
- ベストアンサー率36% (3818/10368)
また失礼します。 本当は日本の歴史の方が好きなのですが、ちょっと毛色を変えて、西部開拓史の映画各種について。 必ずインディアンが悪者になって、それを白人ガンマンがカッコよく射殺してます。 しかし、初めてのアメリカ大陸移住者は、スペイン(だったと思う)の船の遭難者でした。 現地のアメリカインディアンの社会は、全くの外部からの侵入者であるにも関わらず、遭難者なので、救助し、手厚くもてなし、生活に必要な食料や住居を与えたり・・・至れり尽せりの大歓迎をしました。 ところがこの遭難者は銃で命の恩人たちを撃ち殺したり追い払ったりして土地を奪ってしまいます。 この成功談がヨーロッパに聞こえて次々に白人移民が大挙してくる事になります。 どうです?これを知ると西部開拓史を見る目が変わると思いますよ。 「フロンティアスピリット=虐待者魂」だと、私の高校の歴史の先生がのたまってました。
お礼
何度もお答え頂き、本当に有難うございます。 お蔭様で本当の歴史の姿が見えてきたような気がします。 アメリカインディアンも本来はそんなに攻撃的でも排他的でも無かったんですね。 白人=正義のイメージなんて、どうでしょうか、多分、ジョン・ウェイン辺りから出来たんでしょうかね。少数民族を悪者扱いにしても、誰もクレームしなかった時代でしょうからね。
- frisk_blue_love
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月。 昔は太陰暦を使っていたから、3日の出来事なら三日月が見えなくてはおかしい・・・しかし、舞台効果を狙ってか満月の中で本能寺の変とか(本能寺の変は六月二日なので、細い月でなくてはいけない)の映像があったりします。 大名行列。 「下に~ぃ下に~ぃ」は原則として御三家のみ。他の大名家は「よけろ~」という掛け声だったそうです。でも時代劇では、全ての大名行列が「下に~ぃ」ですね。
お礼
有難うございました。 大名行列なんですが、これは初耳です。 他の大名家は「よけろ~」という掛け声だったんですね。 でも今の映画で本当にこの掛け声をやったら、観客たちはずっこけるでしょうね。 映画のイメージって強いですからね。
- terekakushi
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どの時代劇と特定するわけではありませんが、「はい」という言葉。 英語の「Yes」にあたる言葉ですが、これは明治時代に広東語から輸入された言葉で、江戸時代にはありませんでした。(輸入したのは福沢諭吉です) 「然り」とか「左様」と言っていたんでしょうね。
お礼
有難うございました。 えーっ、「はい」という言葉は無かったんですか。 これは驚きました。 でも「然り」とか「左様」って、何となく武士が使う言葉のようなイメージがある(映画のせいでしょうね)のですが、これは町民とか農民なんかも使っていたんでしょうか?
- funoe
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表札はなかったと聞いたことがあります。 先に「南町奉行所」表札への指摘がありましたが、さらに、一般の武家の屋敷や、大名の上下屋敷などにも表札は出ていなかったそうです。 なので、テレビに出てくる「尾張藩上屋敷」などという表札は、 ・一般には「藩」という呼称は使っていなかった。 ・そもそも表札を掲げる習慣がなかった。 の2点で「変」ですね。 また、諱と呼び名の指摘もありましたが、手元にある江戸中期から後期の書類を見ると、幕府の上司に提出する正式な書類などでも「呼び名(字)」の方を署名(花押と呼び名)しているところから、諱は滅多に使わなかったものと思われます。
お礼
有難うございました。 表札を掲げるという事は実際には無かったんですか ・・ ムムッ、よく映画なんかで誰かを尾行していくと、○○藩上屋敷と表札のある大きな門をくぐっていくシーンとかありますが、これも実際には × なんですね。 歴史の勉強になりました。
NO.7です。 >最後のお話なんですが、男性も女性も家の中では下着姿だったんですか ・・ 何だかエロイ感じもしますね。 でも当時の人は当たり前の事として何にも感じなかったんでしょうね。 ・・・そうです。昭和前半までの田舎では、男性がランニングシャツとステテコであれば、外出着としては立派なものでした。私はこの姿で自転車に乗ってタバコを買いに行きました。 江戸時代は混浴だったらしいですし(昭和も前半のころまでは温泉の混浴は多かったです)、庶民は家の中では裸同然で暮らしていたと思います。女性は下半身は腰巻、上半身はオチチブラブラでしょう。 大体着るものは物凄く高かったと思います。昭和に入っても、中国製が輸入されるまではそこそこの値段がしました。江戸時代は手動の機織り機でカタン、カタンですから、なかなかハカがいきません。そんなことも裸くらしに影響しているでしょう。 >蚊に食われるお話、不思議ですね。 蚊に分かったのでしょかね。・・・私の実体験で本当です。しかし科学的な証明はできておりません。蚊に刺されつづけると抗体のようなものが体にできて、それを蚊蚊が察知する(?)。 「藩」という呼称について、NO.18さん、NO.21さんのどっちも合ってると思います。ずるいかな(笑)。 ウィキペディアによれば、「藩と云う呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』に散見)。明治時代に公称となり、一般に広く使用されるようになった。」とあります。 また、「江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無く、「何某家中」のような呼称が行われていた。」ということだそうです。 ウィキペディアでは以上の通りですが、たしか司馬遼太郎のエッセイで、「中村半次郎(後の桐野利明)は教養がなかったので、他藩の志士に向かって『尊藩』と言うべきところを、『弊藩々々』としきりに言ったので、相手は面食らった。」という意味のことを書いていました。 司馬は、こんなところはウソを書かないと思いますので、幕末には新しい物好きの勤皇の志士達の間で、流行りかけていたのかも知れません。
お礼
有難うございました。 「藩」という呼び方にはそのような経緯があるんですね。 初めて知りました。 今では当然のように 「我が藩では ・・」 というシーンがありますが、実際には特殊な場合にしか使われてなかったんですね。
- taishi1
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大河ドラマ等で、家臣たちが面と向かって「信長様」などと呼びかけていること。 現代の感覚で言えば社員が社長に向かって「てめえ」「きさま」「おい!」などと呼びかけるに等しいんじゃないでしょうか。 織田信長でいえば尾張時代なら「上総介様」とか「殿」(守護職ならお屋形様)、右大臣となった晩年なら「右府様」というように官職名などで呼ばねばならないはずです。信長殿、などと名を呼ぶ資格があるのはせいぜい親くらいで、その親でさえも憚られるほどのことだったそうです。 ましてや家来が「信長様」などと呼ぶなど想像を絶する非礼で、その場で斬り捨てられればまだラッキー、ヘタすりゃ鋸引きか火あぶりだったんじゃないでしょうか。 主君が家臣に対するときも同様で(相手の身分がよほど低ければともかく)、たとえ家来でも名を呼ぶのはあまりに失礼という感覚だったみたいですね。あの信長でさえ秀吉の身分が上がればもはや猿とは呼ばず、ちゃんと「筑前」と敬意を払ってますから。 この日本古来よりある『相手の名を呼ぶのは失礼』という、考えてみれば奇妙な風習は現代でもしっかり残ってますよね。 社長や上司に向かって役職名で呼ばず鈴木さん、田中さん、などと言えばまず相手は不愉快になるし、下の名で呼んだら激怒でしょう。 逆に上司が部下を呼ぶときも役職名や名字で呼ぶのが普通で、もし下の名で呼んだらいくら上司でもちょっとヒドイよね、って感覚はありますから。 この風習、『相手の名を呼ぶと相手が死ぬ』的なタブーがあったポリネシア等の南方から太古の日本に流れ着いたもの…という話を何かで読んだことがありますけど、本当なのかな…?
お礼
有難うございました。 へー、相手の呼び方が全然違っていたんですねえ。 たしかに時代劇では、○○様とか名前で呼ぶシーンがあるように思います。 偉くなった秀吉に対しても、猿といったり ・・ あり得ない話なんですね。 おっしゃるように、この習慣は今でも残っていますね。 勉強になりました。
お礼
有難うございました。 とても、とても勉強になりました。 お歯黒って単なる風習のように考えていたのですが、実はそんな医学的な裏付けがあったんですねえ。 虫歯で死ぬ人もいた ・・ 歯くらいでと、つい思ってしまいますが、当時はそんなに怖かった時代なんですね。 考えると西洋にお歯黒なんて無かったでしょうから、彼らは虫歯対策にどんな事をしていたんでしょうね。 もしかして日本が世界で最新の虫歯対策をしていたと言えるかも知れませんね。