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セポイについて
現在英語で読んでいる資料に次のような記述があり、少々混乱しています。 「英領インドは、主に、セポイとして知られるインド人部隊によって勝ち取られ、維持された。」 「セポイ」といえばセポイの反乱。そして、東インド会社が解散して、インドは「英領インド」となる・・・ ざっと世界史をなぞると、そんなふうに書いてあります。 ですから、セポイが英領インドを勝ち取ったというのは、まったく逆なのでは?と思いました。 質問です。 セポイの反乱(インド大反乱)を収めるため、イギリスは本国軍を投入し・・・とよく説明がありますが、そうは言っても、セポイの乱を収めるために、やはりほかのセポイも活躍したのでしょうか。 また、英領インドが成立してから(つまり、「セポイの反乱」の後)、その維持に貢献したのでしょうか? よろしくお願いします。
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反乱の起こるような雇い兵制度を廃止して、インド人を直接イギリス軍に組み入れましたので、「(セポイによって)維持された」の部分は、インド大反乱以降については当てはまりません。 なお、インド大反乱についてもう少し説明すると、シパーヒーや旧支配層の他、農民や商工業者などが参加した広範な反英運動でしたが、指揮系統も相互の連絡も欠いておりましたので、軍事力の中心だったシパーヒーが各個にイギリス軍に敗北すると、一方的に掃討されました。
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- komes
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セボイは東インド会社の傭兵でしたから東インド会社の解体と同時に解散されています。 セボイの反乱は東インド会社が銃の薬包を豚脂と牛脂で固める事を秘密裏に実施したからです。 セボイの多数はヒンズー教徒とイスラム教徒であったので、装填するには口で薬包をかみ切る必要があり、それぞれ豚脂と牛脂は宗教上禁じられていたので怒って反乱を起こしたものです。 反乱は偶発的におこったのでセボイ以外には広がらず、セボイ中でも宗教上の制約を受けないグルカ兵などの共感が得られず参加しなかったし鎮圧側になった為、各個に鎮圧されたのです。 反乱の際に一部の藩王が参加したので英国本土は東インド会社による間接統治を止め直接統治に切り替え英領インドとしました。 従ってセボイの反乱は英領インドの誕生の引き金ではありますが勝ち取り維持に貢献したとはいえません。 グルカ兵は英領インドとなってもその勇敢さ、忠実さを評価され英軍に編入され英印軍に留まり第2次大戦で日本軍と戦っています。
お礼
ご回答どうもありがとうございました。 大変参考になりました。
- a-koshino
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インド大反乱の時点で、インド人シパーヒーは74個連隊(約23万人)いましたが、反乱に参加したのはインド北部から中部の45個連隊のみで、西部や南部には広がりませんでした。また、各地で暴徒化した一般民衆との連携も存在しませんでした。 反乱鎮圧には、ヒンドゥー教徒とムスリムは参加させず、シク教徒とグルカ族(ネパール)がイギリスに協力したようです。 イギリス軍は数で劣っていましたが練度に優り、事実上、烏合の衆であった反乱軍を破りました。 なお、反乱後の東インド会社解体に伴い、雇い兵制度はなくなりましたが、インド人師団は太平洋戦争終了まで活躍しました。
補足
ご回答どうもありがとうございます。 >なお、反乱後の東インド会社解体に伴い、雇い兵制度はなくなりましたが、インド人師団は太平洋戦争終了まで活躍しました。 シパーヒー(セポイ)とは、「雇い兵」のことと考えていいでしょうか?「インド人師団」の兵は、もはや「シパーヒー」ではない、と?(植民地とはいえ、大英帝国の一部になったのなら、いちおう「自国兵士」になるから?) 質問欄に書いた資料の記述(「英領インドは・・・維持された」)は、ちょっと間違っている、と考えていいでしょうか。 たびたび申し訳ありませんが、もう一度ご回答いただけたら幸いです。
お礼
再度、ご回答いただき、ありがとうございます。 大変勉強になりました。