義経と熊野別当湛増の子の武蔵坊弁慶が、同時期に居た事はほぼ確かですが、二人の接点は定かではありません。
正史「吾妻鑑」に義経が頼朝に追われ、京よりの逃避行の際弁慶が同行したとの伝承があるとの記載があるのみで、確かな歴史資料がないので、義経の物語に出てくるような弁慶は、実在しなかったとする学者もいます。
しかし伝承とは云え正史に書かれたのは、この伝承が無視出来ない事を示すもので、あったと見る方が自然でしょう。
弁慶が義経の家来になった時期は、義経が源氏の軍の将として京に上がった時か、義経の逃避行が始まった時が考えられますが、平氏滅亡の戦で弁慶が手柄を立てたとの話は、一部の物語を除き伝わっていないので、吾妻鑑の通り逃避行の始めでしょう。
北陸路を使う平泉への逃避行に僧(弁慶ではない)が同行し、手助けした事は知られています。 この際武力を使う必要もあり、僧兵の弁慶が活躍したこともあったでしょうが、記録に残るはずはありません。 平泉へ行ったことはほぼ確かです。
結局弁慶の実像については人柄さえもよく判らんと言うのが実態です。
熊野で武蔵坊弁慶の名のある資料が見つかり、別当湛増の子で乱暴者で僧に怪我を負わせ、修行の為延暦寺に追いやられた事が判ったとの記事を読んだ記憶があります。
義経について書かれた多くの本の中の、弁慶に関する部分を見るしかありません。
中で 岩波文書 五味文治著「源義経」が物語にも触れた歴史書でよいでしょう。
弁慶については一言もふれない義経の本も結構あります。
最近出た 林順治著「武蔵坊弁慶」彩流社 は面白いようです。
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