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ふとした瞬間全てが分かる体験(だけどすぐに忘れる)
私の人生で10年に1回ほどありますが、 日々考え事して過ごしていると唐突に、 まるで濃い霧がかかって自分の周り1メートルぐらいしかいつもは見えないのに、 その瞬間、全ての霧がはれ遠くの山々のその向こうまで見通せてるような 感覚になることがあります。 その時、悩んでた答えも、今まで悩んでたことも、全てあぁなんだそうだったのか・・・ と全てがわかった気になるのですが(実際にわかったかどうかは問題ではありません)、 次の瞬間には今思ってたことも気づいたことも全て忘れてしまいます。 皆さんこんな経験されたことありますか? 私は2回ほど経験してますが、あれって誰でも経験することなのでしょうか?
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私も似たような感覚をこれまでに5、6回経験しています。 そこは全く別世界で、時間、空間、エネルギー、精神というか感情、感覚のレベルが全然違います。物質(特に固体)は、あまりに遠くにある感じがして認識できません。表現のしようが無いのですが、極端に澄みきって、艶やかで、物質が無いのに輪郭がはっきりしている感じ・・・そして、滑りやすく(摩擦係数0)、表と裏を同時に見る(理解する)感覚です。(わけわからんな~~) 私の場合、その6回は、それぞれが繋がっていて、例えば、3回目の体験の終わり(時間的終わりでなく何とも表現できない終わり)が4回目の始まりに繋がっていますね。 戻ってくると、その体験のイメージはボンヤリと覚えているにすぎないのですが、あちらの方が圧倒的にリアルなのです。そして、たぶん、7回目を体験するとき6回目以前を完全に思い出すはずです。 また、こちらにとってあちらは十分な体験なのですが、あちらがからみるとこちらは1個の細胞のような極く微細な一部にすぎないという感じでしょうか。 でも、よく分かりません。頭がおかしいのか、金縛りみたいなもののような気もします。
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12年前に大きなのがありました ふとした瞬間というわけではないですが 小さなものなら数え切れないです。 人との対話においても とても深いところで通ずるものを感ずることができたときなどは うれしいもので そういう時は おおくの言葉を交わさなくても 心をつらぬきます 何かの縁あってなのか ただ時を共有できたことに感謝するのです
- ganesha_me
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#1です。 本当の哲学とは全てのことに対し真理を求めることにあります。 そして、真理とは言葉に置き換えることのできないほど、 本質を持っている直観だと思います。 単に価値観を共有したいのであれば、 哲学というテーマとはカテゴリ違いだと思います。 その感じた「何か」とは、 それが全てであり、 手に入れた(手を出した)と思っても、 いずれそれは色褪せるものです。 人はいずれ死を迎えます。 死から逃れられない以上越えられない壁があり、 心が移ろうようにいつも自分を保つということはないものです。 また人から学ぼうとする心得も大事です。 あなたは今、哲学という入り口に立ったに過ぎなく、 それがあなたに見せるものは周りの人と過ごす時間の中で、 時と共に確かなものになってゆきます。 一つ気に入らないのは、 その程度で汚れると軽く言葉にされるのは、 ごう慢だと思います。 人は日々様々な欲望と闘って生きています。 皆がみな必ずといっていいほど弱みや苦しみに対して、 負けまいと強い気持ちで立ち向かっています。 meisou999さんが汚れたなどとは思ってはいけないし、 自分だけが知っていると自惚れることもないように願います。
お礼
正直一回目読んだときは反論しようかとも思いました、 ですが時を置いて読んでみると、確かにそのとおりだと思います。 価値観を共有したかったわけではないのですが、 ただ疑問だったんです、私が感じた物と同じものをみなが感じたことがあるのかそして生きているのかと。 他の所で書きましたが私の悩みなど所詮人類が何度も何度も数え切れないほど悩んできた問いと同じ事、ですから私が気づいた事など私と言う人間の年齢ぶんの気づきでしかありません。知っている気になってたわけでもないのですが、何か根本的な部分で勘違いしていたのかもしれません。 人に言われた事を理解しているつもりになる、それこそが傲慢だったのかも(それこそが傲慢なのか)。 反論しないなどと言っておきながらまるで反論してるように見えますが、これはただの言い訳です。 ですが一つだけ、確かに汚れたなどと思ってはいけないのかもしれない、 それでも私はきっと一生、世界で一番嫌いなのは自分自身だと思い続けるでしょう。どんなに人を憎んでも、そんな憎む自分が嫌い、どんなに人を殺したいと思っても、そんな殺したいと思う自分が嫌い、どんなに命を軽いものだと思っても、命を軽く扱う自分が嫌い。そしてそんな風に変わってしまった自分が嫌い。これは・・・きっと変わりません。 御教授ありがとうございました。
- cezanne
- ベストアンサー率40% (8/20)
私も似たような感覚になったことがあります。 卒論について考え事をしている時でした。 論文の展開だけじゃなく、これで世の中の全てのことに説明がつくぞ!というような感覚でした。 そして次の瞬間すぐ忘れてしまいました。(ガッカリです。) ある方が言っていたことなのですが、人がもやもや悩んだり答えを探している時、本当は既に求めている答えを知っているのだそうです。もしかしたら私が味わった感覚は、一瞬その答えの姿を見たということなのかなと思います。 もしこのとき、一瞬見えた獲物(答え)を釣り上げるだけの知識や経験や+α(あと運やタイミングも)が私にあったら、答えを手に入れていたかもしれません。姿の見える悩み事には答えの捕獲のための道具も用意できます。だから、小さな悩み事はああしてこうして解決します。でも漠然としていたり大きすぎたり深すぎたりもやもやしている姿の見えないものに対しては、適切な道具が用意できません。だから手に入れられない。 時々誰も思いつかないような大発見や大発明をする人がいますが、そういう人は「あ、分かった!」の瞬間を釣り上げられる道具を持っていて適切な使い方を知っている人なのかなと思います。誰でもみんな宇宙の真理を知っているけど、それをすくい上げる道具を持っていなかったり、使い方が分からないのではないかと思います。 もしかしたら質問者様も、宇宙の真理(たとえば、ですが。)に一瞬焦点が合ったけれども、それを釣り上げるための諸々がその時は揃っていなかった、ということなのではないでしょうか。私自身のことに関しては、そういうことだったのかなと思っています。だから勉強したり経験したりする(道具を増やす)ことは大事だなと思います。 これも微妙に違いますでしょうか?そうでしたら、すみません。
お礼
ドンピシャ! きましたねーーーそれですよそれ 世の中の全てのことが説明つくぞ!とは思いませんでしたが、似たような事です、むしろ気づいたことで満足してましたが、それですよ、気づいた瞬間だけ気づいてて次の瞬間思い出そうとしても、あれ?今気づいたのに確かに気づいたのに?あぁーーもぉーーって気分です。 個人的にはあれは知識や経験を増やしたからといって釣り上げられそうには思えません。何だかもっと別次元・・・繋がるか繋がらないか?の二択ぐらいかな?それにあんなの手に入れちゃったら今までと同じには生きていけなくなりますよ。きっとあれは人間が求めてるような答えではなく、全ての真実みたいなそんな物な気がします。 もっとも未だにあれは所詮人間の脳が作り出した錯覚でしかなく、気づけた気分になれるだけなんじゃって思ったりもするんですけどね。何しろ実際には何一つ分かってないんですから。 また経験してみたいものですが、結構汚れましたからね私も、 初めて経験したのが小学生の頃でしたし、純粋に生死について悩み続けてましたから・・・。 うん、だけど本当の個人的体験じゃなかったみたいで嬉しいです、回答ありがとうございました。 だけどせっかく哲学ってカテゴリに分かれてるんだからもっと回答があってもいいような・・・。それともここ利用してる人予想以上に少ないのかな?
補足
回答を頂いて何か浮かれていたようです。 お礼の度に新しい回答をがっつくように望んでばかり、非常にやな印象を自分で受けました。反省します。 それとcezanneさんが言われた「これも微妙に違いますでしょうか?」の一文を見て自分はせっかく回答を頂いてるのにやたらと微妙、微妙と相手に失礼な思いをさせてたかも知れないと感じました。 もちろんそんな気持ちはありませんでしたが、その様にも受け止められますよね。頂いた回答一つ一つに感謝していますし、やはり同じ感覚かどうかをきちんと説明したかったのでやたらと微妙と言い続けてしまいました。これも反省します。ごめんなさいです(変な日本語ですけど・・・)。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
心塵脱落 (しんじんとつらく)という感じですね。 誰しもには起きません。中国禅の悟りですね。曇りレンズ(心)が一瞬透明になって遥か遠くが見渡せるという感じですね。 更に道元禅では、一歩進んで 身心脱落(しんじんとつらく)があります。#2の方の感じでしょうか。心が肉体から抜け落ちている状態ですね。 仏教的小悟はどこにでもあるということですね。野には可能性のある人がたくさんいますね。 参考に
お礼
いやーほめられてる気がしてなんだか照れくさいです。 全く知らない言葉ばかりで道教とかそれ系なのかな? 知識が全く無いので返答に困りますが下の方とはやはり同様の感覚みたいですね これから心塵脱落について色々調べてみますけど、禅の世界では修行すればあんな体験が出来るんですか、やってみようかな・・・ だけど個人的には考え事してれば誰でも到達しそうに感じるんですけどねー
- ganesha_me
- ベストアンサー率24% (27/109)
何度かありますね。 悩めば悩むほどあるのではないでしょうか。 大学時代にすべてが啓けて変わった日が3、4回あります。 そのひとつは映画のマトリックスに影響され、 自分は何でもできると思えたりとか・・ゴホン。 また、路上に咲く雑草の花がとても愛おしく思えて、 全ての存在が色鮮やかに輝いて見えたりとか。 恥ずかしいことかも知れませんが、 どれもとても幸せな瞬間だったと思います。 そういう時は、知らず知らずの内に それまで苦しんでいたのでしょうね。 自分が足りなかったことを補えたというか・・。 そういう自分を誉めてあげられると良いですね。 最近はそこまでは無いかも知れません。 が、それでも時折出遭えた感動は 大事に取っておくようにしています。
お礼
回答ありがとうございます だけど微妙~~~~~に違うんですよね 気づきのベクトルが・・・(うーーん言葉に詰まる) 脈絡無く襲ってくる真実みたいな・・・(意味不明) まあ感覚を人と共有することなんて非常に難しですしね。 けどそんな感覚もありますね、 こっちもやはり何年かもしくは何ヶ月かに一遍訪れますね、 そんな時はやっぱし笑顔になってます。 何だろう、うん、何だろ、幸せに気づくのかな?違うか?
お礼
さっぱりわからない! なんて失礼な言葉は本当に失礼ですよね。 こちらも微妙~~な違いと言いますか私の体験より奥が深いみたい、それともそもそも別口な感覚なのか・・・ けど似てます、「物質が無いのに輪郭がはっきりしてる」これは感じが違いますが、私の感覚では物質と言うか建物や人などの質量や体積がその瞬間だけ無くなり、空間も質量が無くなり、人と空間が一まとめになってる感じ・・・かな? 物体としては存在するけど質量が無いから重みが無い、空間その物の感覚がスッと変わる(あぁこれが「裏と表を同時に見る」なのかな?)だけどこにあるのはいつも見えてる光景、だけど違う・・・言葉にするとうそ臭くなる。 まるで真っ暗な部屋をさまよってて(悩み)電灯の紐に触れて その瞬間世界全体が明るくなったけどブレーカーが落ちてまた真っ暗みたいな(けど普段は真っ暗ではなくやっぱし自分の周りだけはぼんやり分かる感じかな?)。 考え事と言っても瞑想してるわけではなく、普通に日々の行き帰りの最中に考えてたら襲ってきた感覚です。 ちなみにその所要時間は多分1秒に満たないです、 私の場合は本当に一瞬だけ訪れて全てが去っていきます。 その瞬間には悩みからも開放されるのですけどね、答えが全てわかるからむしろ悩む意味さえない。 うーーーん言葉にすればするほど訳がわからない。 私は2回だけですけど、繋がりはありませんでした、 だけど2回目は、あ・・・あの時と同じ感覚だと思えただけで内容忘れちゃってるんですよね。向こうの方がリアルだとか、一個の細胞うんぬんはさっぱり感覚がつかめません(ごめんなさい)。だけど細胞はもしかしたらわかるかも・・・。 果たして同じ感覚なのかどうか・・・けど似たような感じみたいですね。 回答ありがとうございました。(もっと来ないかな・・・)