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ドイツの開戦理由
第一次第二次それぞれありましたが、両方とも共通するところに、植民地獲得の遅れというものがあります。つまり、国力(産業力、人口など)にふさわしい市場経済圏を持っていなかった、しかも、そのような出遅れた国の中では、ずば抜けて国力があった、イギリスフランスよりもあったのに持っていない!ということが、開戦の大きな要因なのでしょうか?例えヒトラーがいなかったとしても、似たようなことをやったのではないでしょうか?
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第二次大戦は国力のはけ口(消費者)がないというより、第一次大戦の結果の多額の賠償金(軽減されたといえ)と不景気、っそして国家を分断された屈辱と痛み、そういったものが爆発した形ですので植民地の有無とは必ずしも関係ないと思います。 第一次大戦は敵性国家が敵意むき出しで向かい合ってたのだから、ちょっと火花が散ったら簡単に爆発、そんな感じです。起きるべきして起きてきた戦争でしょう。当時のヨーロッパはどこも強大なドイツにおびえていたのです。そしてドイツもドイツにおびえた国のドイツ包囲網におびえていたのです。シュリーフェン・プランについて調べてみると面白いですよ。 あと総力戦を知らなかった当時は、負けることにばかりおびえ、総力戦という戦争そのものの恐怖を知らなかったというのも、簡単に大戦争に発展した理由なんでしょう。
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- komes
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第1次大戦、第2次大戦とも植民地の獲得とは無縁です。 国土や勢力圏の拡大を植民地獲得と呼ぶなら別ですが第1次大戦は仮想敵が本当の敵として出現したものです。 お互いに国家連合を構成していたので世界を巻き込むことになったのです。 ドイツ、オーストリア・ハンガリーは同盟状態で一方の国に対する攻撃は自国への攻撃と見なす事になっていました。 一方のロシアは伝統的な南進政策で国土の拡大を図ろうとしバルカン半島では衛星国の拡大、オスマン帝国領土への進出を計画していました。 オスマントルコはそれに対抗してドイツに接近していました。 そのような緊張状態の所に、オーストリア・ハンガリーがバルカン半島のボスニア・ヘルツエゴビアを併合したのです。 ロシアはこれに抗議しあわや戦争になる所をドイツがロシアを牽制して戦争にいたりませんでした。 このような状態の所にオーストリア・ハンガリーの皇太子夫妻がセルビアで暗殺されたのです。 激怒したオーストリア・ハンガリーはセルビアに宣戦布告し戦争となりましたがロシアは同じスラブ人のセルビアを援助する為、参戦しました。 今回はドイツの干渉も間に合わず、ドイツもロシアとの戦争にまきこまれ、これをみたイギリスがドイツに宣戦布告しました。 お互いの疑心暗鬼が募って爆発したのが第1次大戦です。 フランスは伝統的にドイツを恐れていましたからイギリス側にたち、ドイツはシュリーフェン計画に従いベルギーを経由してスランスに進攻しましたからベルギーも英仏側になりました。 当時のヨーロッパで大規模な植民地を所有していたのは英仏、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガルでしたがドイツはオランダとは戦争せず植民地の争奪とは一見矛盾します。 第2次大戦は支配地域の拡大という見地からみてはかなり事情が異なります。 どちらかといえば戦争遂行の為の布石というべきでしょう。 フランスを占領してもアフリカの植民地を奪うことまでしませんでした。オランダ、ベルギーについても同様で純粋にヨーロッパの席巻を考えていたのです。
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第一次大戦の開戦理由については、盛んな議論がされているようです。それだけ、規定するのが難しいというものでしょう。しかし、発火点が近づいていたということは事実でしょう。第二次はあまりそういう文脈ではないようで復讐戦的みたいですか。
- tanuki4u
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不思議なデータを見つけた。 第二次大戦初期のドイツ戦争経済とイタリア人労働者 阿部 正昭 法政大学経済学部教授 1938年にイタリアの農業労働者をドイツに受け入れる云々という研究。 農業労働者を受け入れる余地が、ドイツにはあったということ。 ヒトラーの東方戦略は、キャッチフレーズとしては「東方にドイツの生存圏」平たく言うと、ドイツ農民に農地をということ。 ところが、イタリア農民を受け入れようとしている、1938年の段階で。 これは何を意味しているかというと、経済的な意味では農地(東方生存圏)は不要であったという意味です。 日本における満州のような、過剰農村人口を減らすという、植民地獲得の意味はなかったようです。
お礼
第二次はより復讐戦的なものなんでしょうかね。なかなか開戦理由を規定するのは難しいし、本当に合理的な理由があったのかもわからないですね。東方へは純軍事的な進攻と捕らえていいのかもしれません。
お礼
第二次はより植民地からは自由な開戦だったのかもしれません。第一次は問題ですね。総力戦を予期していなかったけどやればできたお言うのはまたすごい。