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あなたがこの世界に生まれていなかったとして、この世界は存在していたと思いますか?
表題の通りですが、 「もしもあなたがこの世界に生まれていなかったとして、そのときこの世界は存在していたと思いますか?」 ふと自分に問いかけたのですが、いろんな方のご意見を頂きたくて書き込み致しました。 どうぞよろしくお願い致します。
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- arayata333
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godzilla2004さんが、どういう方が知りませんが、 松井選手のような人なのか、その逆の不健康な人なのかも、 まったく解かりませんが(ネット短文の限界)、 この問いかけをふとご自分に問いかけられたきっかきとかよすがとなるような体験とか思いとか考え方とかがありましたら、 すこしだけでもお聞かせいただけませんか? まず逆質問となってしまいますが、「もし、この世界があなたが生まれる前に存在しなかったら、あたたは生まれていたと思いますか?」 そういう設問ならば、「その時この世界は存在していたと思いますか?」という疑問は起こらないと思います。 この世界が存在してたからあなたという人間も生まれて来たに決まっているということを、アルツハイマーとか考えすぎてあたまがこんがらがった状態の人でない限り、解かるはずだからです。(そのような頭を持って生まれてきたのが私たち人間ですからね。) でもです。 この何億光年の時空の広がりの中、そのはてまでもし旅をすることが出来たとしても、おそらくすべてが乾ききった大地とただの火と燃えカスだけ、 なのに、 なのに、 ここに水のある星が、在って、 ガゆえに、青い空があり、がゆえに そこにそよ揺れる風もそれを通した太陽の光のきらめきもそこにゆれる木々の葉の音が遠く海の潮鳴りを心に運んでくるあのささやきも、やがて空に映る一番星も、その前後をつつみゆく夕焼けの美しさも、その後の静寂につつまれた夜のしじまも、 こんなふうに、ここに書ける 言葉も、文も 詩も、 そして なにより、こうして心通わせあえる「友」のいる大地が 在る。 私たちは、生まれてきてそこに「意味」の世界を知ります。「価値」の世界を知ります。 だから反価値の世界も知りそこの絶望せへ顔をのぞかせますが、 さて その価値は、この星にてさへも、人間が つまり私たちが存在しなかったら 存在しないんですよね。 「意味」も、そして、こういう「問いかけ」の存在しないんですよね。 ただの燃えカスの一部が ひろいひろい広すぎるこの宇宙の一部にあるだけのこととなってしまいますし、いや それ以前に「ひろい」という存在すらそこには無いのかもしれません。 で、 こうして、生きてるからであっても私たちの「存在」への哲学は始まってきました。 私の中では、こんなふうです。 私は子供の頃、 何度も何度も重い肺炎で死の床をはいずりました。 右の肺胞が全部つぶれて左の肺胞もほんのわずかしか無い中で、私は医者が「もって後3日の命です。」と宣告するのを聞き取ってしまっていたことを憶えています。 もうとうにどんな方法でも苦しみを耐えるすべすらなくなった後の息の中でです。 それでも、その苦しみよりも辛かったのは なんだと思います。 ちょうど 物心付いたばかり、つまり「この世界に生まれていた」ことに実感としていろいろ心づいたばかりの年頃にて、 死にたくない、という想いとともに、そこにあったのは、ただの 「自転車」です。 自転車に乗れない悔しさです。 自転車で世界中を走ってみたかったというそれだけです。 そんなたあいのないことが命ほどの重みをその時もってたんです。 わたしにとって 生きるということは、生きてるこのの「意味」は、ついでにいいますが、リスペクトを忘れないことです。 どんなだれのどんな考えも想いも大切にすることです。友の存在、これが意味のすべてみたいなものです。 すごい世界の私たちは、いつしか気がついたら生まれてきていたんですよね。 生物学的な生まれ方をしていても、そこにも深い連鎖の意味合いを感じても、それ以上に、 でも、わたしという存在は存在しなかった可能性を考えることが出来るのですから、(このこと言ってる意味わかりますでしょうか?)「あなた」や「わたし」が ここ、この星、この大地に存在しているというこの不思議な事実にたいする疑問というのは、 おそらく人生で最高の謎と関わる疑問なんです。 無意識的にも意識的にも、このふとした疑問があるからこそ、私たちは他の動物と違って、ただの生きるための仲間(動物の場合は「仲間」と自覚しているというよりそれも本能にまきこまれた必然でしかないわけですが)という価値を越えて、 そこで始めて「人間と人間」として「友」として出会えるのだと私は思ってます。 ごめんなさい、こんなにつっこんで書いてしまって嫌われてしまったでしょうか? 私はもう、ついこの間9月26日に60歳となってしまった人間です。 あなたは、いつ ここに生まれてきた友達なんですか? そして今、ふと、なぜ、この問いかけをしてみたくなったのですか? そのきっかけは、 よすがは、 なんですか? ふと問いかけてみたくなったのですが。 ご迷惑でなかったら お願いします。
- no009
- ベストアンサー率40% (109/269)
#13です。 補足します。 私が記述したのは一般解でなく、デカルトさんの哲学上の解です。 (補足するまでもないことですが、補足しなければ、記録抹消の刑に処せられれしまう?) 本題です。#15さん、#16さんお待たせしました。 #15さんの回答について 言いたいことは#16さんが述べた通りですが、一言。 >「もしもあなたがこの世界に生まれていなかったとして、そのときこの世界は存在していたと思いますか?」ふと自分に問いかけたのですが、 問いかけた人は存在しています。その存在する人がもしいないとしたらと考えること自体を間違いだ、ありえないことだ、と#15さんは考えているのかな。論点が分かりません。考え方についていけませんので、とりあえず「無視」しておきます。 #16さんへ すばやい弁護?ありがとうございます。 「風が吹けば、桶屋が儲かる」調のかなり前も中間も端折った記述でしたが、すばやいご理解、重ねてありがとうございます。 論証としては、かなかなかな、と自画自賛していました。かなりの謙遜を含んだ可の表現でしたが、やはり「可」だったのですね。(笑)
お礼
お返事が遅くてすみません。 お話を進めていただいて恐縮です。 ありがとうございました。
- adaypajimy
- ベストアンサー率20% (201/964)
独我論に満足する人間ならば世界は無いのでしょうが、 主体と客体を視認する限りこの世界の存在は成立します。 世界たりえなかった可能性のある人物に、 一体あなたはなにを訪ねているのですか?
お礼
お返事が遅くなりすみません。 >世界たりえなかった可能性のある人物に、 一体あなたはなにを訪ねているのですか? お考えの深さを推察します。おっしゃらんとすることがなんとなくわかる気がします。 ありがとうございました。
- mogurayama
- ベストアンサー率33% (31/93)
こんばんは。 あなたが生まれてこなかったら、 あなたの「この世界」はないでしょう。 でも 私は生まれているので 私の「この世界」はあります。 そして、あなたが生まれてこなかったら 私の「この世界」にはあなたはないです。 あなたが生まれてきたので、こうして 私の「この世界」にあなたはいます。 はじめまして!!よろしくね。
お礼
お返事が遅くてすみません。 とてもシンプルなお話だと思います。 「あなた」とは何かがよく表されている気がしました。 ありがとうございました。
反事実的条件文ですか。 通常の真理函数として命題論理の中では扱えません。
お礼
お返事が遅くてすみません。 論理学の言葉に疎くてすみません つまり「これはありえない変な文だ」、ということでしょうか。 ただ、想定だけしてみて、そこに何か新しい発見があったりしないか、といった思索をしてみたりする、といった具合です。 ありがとうございました。
はじめの条件がおかしいと思います。 《あなたがこの世界に生まれていなかったとして》と仮定するということは 次の二つの場合のどちらかを意味すると思ってしまいます。 (1)なにかとても大きな不幸に遭って 生まれて来なければよかったと思っているか それとも (2)なにか不幸が起こったのは 同じだが その中味は かねてから敵対していた人の不幸だったので ざまあ見ろと思っているか です。 すなわち この存在 この生に対して 極度に絶望しているか おれは運がよいのだと極度に自慢しているか どちらかの状態を思い浮かべてしまいます。 ひとりの極度のへそまがりからでした。
お礼
お返事が遅くてすみません。 ご心配をかけているようですみません。 多分、心の深いところでそうしたようなことがうごめいている、そのせいでこんな質問に心を奪われるのかもしれませんが、幸いにして今は現実にそうしたことに直面してはいないと思います。 ただなんとなく、原点に立ち返って考えたくなっている気はしたりします…。 ありがとうございました。
- ausubahha
- ベストアンサー率25% (1/4)
結論は「存在していない」です。少し質問にけちをつけると、「自分が生まれなかったとして」じゃないんです。「生まれない」じゃなくて「この世界自体がない」です。「存在していない思う」ではなく「存在していない」んです。事実です。真実です。 私がいるからこの世界があるんです。あなた方の意見なんて関係ありません。全ては私が居ることによって成り立っていますから。世界の中心は私です。どうだ参ったか。 ならば私が死んだら世界は崩壊する?皆さん亡くなってしまいますか?そんなことはありません。私が死んだらそこには何も無い、というより何かが存在したことにすらならないわけです。いいですか、「あなた方の世界」ではなく「私の世界」なのです。私の意識しないものは存在していないに等しい、いや、存在していないのです。夢の世界と同じですよ。世界は実際には存在しないのです。しかし私が居る限りこの世界は疑いようも無く確かに存在しているのです。いいですか、存在しているのです。分かりますか?分からないでしょう。 といった感じで如何でしょうか。ご質問内容とずれていたらすみません。少々適当で荒っぽい書き方になってしまいました。本来ならばこの文も付け足さない方がより自分の考えに忠実なのですが、流石に失礼かと思いましたので。以上。
お礼
お返事が遅くてすみません。 自分がいないと世界はない、というのがはっきりとよくわかります。 でも、なぜそうなのか、と聞かれると、私はどうもうまく言えないきがします。 ありがとうございました。
私は客観的な洞察によって、他者の心を認めます。 生物学的に言っても、自分に心があるなら、他者にもあるでしょう。 「我思うゆえに我あり」と自分が思う時、他者も、「我思うゆえに我あり」と思うことが出来るでしょう。 自分が産まれて無かったとしても、誰かが「我思うゆえに我あり」と思うでしょう。 自分の意識が世界に無かったとしても、誰かの意識があるでしょう。 その誰かが、世界を認識するでしょう。
お礼
お返事が遅くてすみません。 自分と同じようにほかの人がこの世界を見ている。 自分がいないときを想像するとき、ほかの人の視点を自分の視点として考えているということでしょうか。 「視点」が全くない世界ならどうなのでしょうか。 ありがとうございました。
的外れな答えかもしれませんがご容赦ください。 この質問を投げかけられたら、何人であっても 「存在すると思う」と答えなければ嘘になると考えています。 「無の世界」とは何か。 光も匂いも空間すらない世界を、五感で物事を捉える人間は、 厳密には想像できません。 真っ暗な世界でもなく、真っ白な世界でもない。透明でもない。 そんな世界は、頭に思い描けません。 言葉で「無の世界」と言ったところで、それは言葉に過ぎません。 つまり、 論理で、思考で、科学で、いくら「無の世界」と説いたところで、 「無の世界」を心の底から信じることができる人間はいません。 誰しも、そこには単なる真っ暗闇であれ何であれ、 何かが存在すると心の奥では思ってます。 ですので、生まれる前もそうですし、死んだ後も、 「世界は全く無いと思う」とは正直な人なら言えないのです。
貴方が生まれてこなかったらという注釈付きの命題に対しての回答なので、 我思うという我は無くて、また我の思うことによって認識するその世界も無いで矛盾はないのではないでしょうか? 余談ですが >日本人の御霊は死後のわれわれの周りにいてわれわれを見ているそうです。それはちょうど簾から外を見るように、御霊からは見えるのですが、われわれには中を見ることが出来ないのだそうです。篤胤は死後ばかりでなく、前世の記憶を鮮明に覚えている勝五郎についても克明に論じております。 そういう思想も我というこの世に生まれたこの身が有ってはじめて刷り込みも可能なわけで、 そういう考えにふれなければふれないで その人の世界観は形成されていくものなのではないですか? そういったことが人や社会にどう影響するか そういうことのほうが大切なのではないでしょうか。 御霊とかいって面白半分の覗き見主義者屋さん的興味でもって人を惹き付け信者を増やそうとするカルト新興宗教であれば困ったものなんですけれどもね。 よって no009さんの回答は本人の思惑通り”可”であっていいのではないですか? 赤の他人で余計なお世話ですが、弁護を。本当は質問者さんのすべきことなのでしょうが、忙しいのか一向に反応がないので老婆心ながら。
お礼
お返事が遅くてすみません。 話を進めていただいて恐縮です。 考えている私を考えている私、どの私がいなくなると仮定すべき私? みたいな話でしょうか。 ありがとうございました。
お礼
お返事が遅くてすみません。 ご自身の経験からの回答をいただきまして恐縮するとともに大変うれしく思います。 なぜこの問いかけをしたくなったのか。 いわゆるインスピレーションといったように、この質問がふっと頭に浮かび、その瞬間、これがなにか本質的なことを解き明かしてくれる問いのような気がしました。ただそれがどういうことかわからずにいました。そこでここで問うてみよう、きっと多くの人が関心を持ってくれる問いに違いない、と思いました。 そして、ありがたくも多くの皆様の意見を得て、その意味が少し見えてきた気がしました。 この質問は「あなた」と問い掛けています。「私」ではなくて。 「自己の存在」についての問いを、「私」ではなくて、「あなた」に対して問い掛けているわけです。 arayata333様が「あなた」という言葉を特殊に使っておられるのも偶然ではないと思っています。 どうも私は、「私」「私をとりまく世界=私と対を成すもの」について考えてばかりいて、「あなた」について考えることがおろそかになっていたのだと思いました。 だから、私は、「あなた」に「自己存在(私)」についての問いを投げかけ、答えを聞きたくなったんだと思います。 ~「あなた」と「私」はどこまで同じなんだろうか。もし本質的に何かつながっているなら、「私」がいなくなることは実はそう大きな意味ではないんじゃないか、「あなた」の中に「私」はいて、世界はそこにありつづけるんじゃないか、逆の場合ももまたそうなんじゃないか。もともとひとつなんじゃないか~、そんなことを思ったりしました。 私は人生の中でやっと目がさめた気がしています。 「あなた」という存在の不思議こそ、私に欠けていた視点なのだと気づきました。やっとモノクロな世界観からの脱却ができる可能性をそこに見出した、そんな気がするのです。 arayata333様が書かれたことは、とてもよくわかる気がします(いや、深く共感した気になっていますがおそらくは私の理解が足りていないでしょう)。 ありがとうございました。