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隋の大運河
大運河を開削し始めたのは隋の煬帝だと思っていたのですが、文帝(楊堅)も大運河開削に関わっていたのでしょうか?
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- koon1600
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運河建設については、楊堅はほとんどかかわっていないとしてもよいと考えられます。たしかに淮河と長江を結んだのは彼の代ですが、距離的にもそれほど大きなものではありませんでした。国家に与えた影響もほとんどなく、問題ない工事といえたでしょう。そもそも目的は、陳(といってもこのころすでに、領地も首都の回り程度しかなく、ほとんど喪失していたのですが)を滅ぼすためですし。 なお、隋初期の治世はどちらかというと黄老的な感じがあり、「できないことはやらない。できることでも無理はしない」という感じです。だいたい中国の歴代王朝において、多くの王朝の初期はこんな感じで、財政的な蓄えを作っていますね。もっとも、隋の場合、これが次の代で一気に使い果たされるわけですが・・・ 煬帝の運河建設は、父のおこなった工事とは比べ物にならないほど大規模なものです。 父の治世中に隋はかなりの蓄えを作っていました。 食料についていえば、その後起こった反乱の中で李密などという人物は、興洛倉という食糧貯蔵庫を占拠しただけで、そこを拠点として反乱を継続し続けられたほどです(なお、李密は一時期ではありますが反乱の筆頭に立ったこともありました。それだけこの貯蔵庫には大量の兵糧があったのです)。金銭的にも同様の蓄えがありました。 しかし、煬帝の振る舞いはそれらの貯蓄を一気に食いつぶしていき、国家財政を破綻させます。さらにはその建設において大量に使役した人民は疲弊し、反乱をおこすようになったのはご存知のとおりです。 ただ、この大運河について、計画自体は楊堅のころからあった可能性が指摘されています。つまり、煬帝が一からプランをすべて作ったのではなく、父のころからすでに青写真はあったのではないかという話です。ただ、父の代では前述したとおり無理をしないのを第一としていましたから、着工しませんでした。そして、子の代で着工した結果が、隋王朝の崩壊だったわけです。
- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%8B%E6%B2%B3 完成が煬帝ということのようです。