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monadology

このmonadologyについて質問があります。monadologyはライプニッツに関係した専門用語だと言うことらしいですが、Deleuzeもこの専門用語を使っていたと、うる覚えですが記憶しています。ライプニッツの言うmonadologyとDeleuzeのmonadologyとは全く違う物なのでしょうか?よく聞くのが、Deleuzeはよく色々な専門用語を他の作家、哲学者から引用して自分自信の新しい意味をつけ加えていると聞いたことがあります(the body without organs etc)Deleuzeはライプニッツの影響を受けている哲学者なのでしょうか? 

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回答No.1

こんにちは。 こちらは暑いので、あんまりこむずかしいことは考えたくないのですが。 とりあえず大ざっぱなことを言っておいて、そこから少しずつ、問題意識のあるところを深めていくことにしましょう。とはいえ、わたしはライプニッツに関しては一次文献読んでるわけではないので、あんまりむずかしいことは聞かないでね。以下の回答は哲学史の本のいくつか、おもにシュヴェーグラーの『西洋哲学史』あたりを参考にしています。 まず、英語にしたらありがたみもなんにもない "thing" 、哲学の文脈では「実体」という日本語があてられますが、これは西洋哲学の根幹に関わる概念です。 デカルトはこれを「存在するために他のいかなるものも必要とせずに存在するもの」(『哲学原理』I-51)と規定し、「神」と、神に創造された実体としての「精神」と「物質」のふたつを認めます。 そこからスピノザは、実体とはその概念がほかのものの概念を必要としないで構成されるもの、と定義し直します。さらに、実体がこうしたものなら、実体といわれるべきものは神のみである、と導いていく。無限なる神のみが唯一の実体である、としたわけです。 ところが無限なる神から、どうして有限的事物が生じたか。 有限的事物を説明するためには、やはり有限的事物のうちに実体があると考えたほうが妥当なのではないか。 ライプニッツの「モナド」は、そういうところからでてきた。 さて、ここから丁寧に見ていっていると「差異」まで行かないから、筋道だけを駆け足で。 ライプニッツによると「モナド」とは ・単純で空間的規定を超えた「非物体的な実体」である(それゆえに不可分・永遠的)。 ←どれだけ小さくても空間的なものであるアトム(原子)とは厳密に区別しなければならない。 ・その本質は「作用する力」である。 →あらゆる有限的事物の根底にあって、みずから働くもの。 ・モナドは非空間的であるから、外部から影響を受けない、そのため独立的であり、相互の間に因果関係が存在しない。 →「モナドは窓を持たない」 そうして、あらゆるものはこのモナドから成り立っている、とします。 このモナドの本質である「作用する力」というのは何ものか。 ライプニッツはそれを「表象」と考えます。 モナド自身は相互に独立であって「窓を持たない」ものであるから、モナドの表象はほかのモナドのはたらきによって生じたものではない。つまり、この表象とは、おのおののモナドの自己自身の表出である。 さて、例のやっかいな「表象」がでてきました。 以前も答えたように「表象」というのは、つねに「何ものか」の表象です。「何ものか」があって、表象する主体がいて、表象があるんですね。 デカルトだと、コギトが自己についての表象です。 カントだと、現象とは人間が表象する「物自体」の像です。 この「表象する」ということをハイデガーは批判していくのだけれど、それはまた別の話。 ここでは、モナドが自己自身を表出するその「像」というのは一体何なのかを見てみます。 ライプニッツはそれを「宇宙全体」である、と考える。 おのおののモナドはそれぞれの立場から、それぞれのやりかたで宇宙を表現する。 ちょっとこれ、わかりにくいかもしれない。 たとえばね、サッカーの試合を見るとする。 見る位置によって、見え方が全然ちがってきます。高いところから俯瞰的に見る人、ゴール裏から見る人、グラウンドのレベルで見る人、バックスタンドの真ん中あたりで見る人、きっとその見え方はものすごくちがうだろう。場所的なもので、すでにそれだけちがうんです。それに加えて、その人のサッカーの知識、サッカーの経験、ボールを追いかけて見る人とか、ディフェンダーに注目してる人とか、スペースを見てる人とか、あるいはその人の体調とか気分とか、そういうものもある。 そこで、それぞれの人が、全員「自分の見たサッカー」を語るところを想像してみてください。 このたとえがあんまりよくないのはね、人は影響されちゃうでしょ。サッカーが詳しいとかいう人がいたら、それに引きずられる。TVだと、もう作り手の編集にそのままひきずられてしまう。ほんとだと、それぞれに語られるはずの「自分の見たサッカー」は、その見え方すら、誰かの影響を受けてしまっています。あるいはまた、言葉の問題もある。言葉は本来、模倣しかできないものですし、その言葉を用いて思考する人間は、そもそも「その人だけの思考」というものは存在しない。そんなふうに、「その人だけの見方」というのは、人間だと現実にはむずかしいかもしれない。 ところがモナドは「窓がない」ですから、相互にまったく独立的であり、それぞれの内部の力によって表象を持つのです。 ここがすごく大切。 ひとつひとつのモナドは、それぞれに宇宙を映し出す鏡であり、同時に小宇宙でもある。 では、このように、相互に因果関係ももたない、互いに独立であるモナドが、いまある世界に見られるように、どうして調和を保っていられるのか。それは、神があらかじめ、おのおののモナドに、それぞれの立場から宇宙を反映するように定めていたからだ。これがいわゆるライプニッツの「予定調和」です。 この「予定調和」は、精神と肉体の二元論にも適用できる。精神と身体は、相互に独立でありながら、まるでふたつの精巧な時計が、同じ進み方をするように、まったく調和し一致するのだ、と。 ずいぶん荒っぽい説明ですが。 さて、この「モナドロジー」は、カントを含めてさまざまな人に影響を与えていくのですが、いまから見れば荒唐無稽にも思えるモナドロジーからドゥルーズが取りだしてみせるのは、「差異」という点です。 さっきのサッカーの喩え話をちょっと思いだしてください。 その人がどこで見ていたか、という差異だけでも、個人差がある。 つまり、個体が個体として存在しているだけでも、すでにそこには「差異」が含まれている。ドゥルーズが着目したのは、ライプニッツが示そうとした、「さまざまな存在者の差異が個別性の根拠である」という点だったわけです。 ただ、ライプニッツは同一の葉が存在しないことを、色や葉脈を観察して示そうとしたのですが、ドゥルーズはそれを批判します。 「絶対的に同一な二個の塵はない。同じ曲がり具合を示す筆跡はない。同じ印字を打ち出す機械はない。同じ線条痕をつける拳銃はない。しかしこれだけだと、問題が適切にたてられていないと感じるのだ。どうしてだろうか。そんなやり方だと固体化の原理を事実の中に探しているだけになるからである」(『差異と反復』) 同一性をそもそもの前提としていれば、いってみれば差異の発見は意味があることなのかもしれない。けれども、この同一性というのは、西洋哲学の道徳的な前提にすぎないのではないか。 自然界には差異が限りなくある。その差異はどこで生産されていくのか。 そこからドゥルーズは、微少な差異を切り分けるものとしての「微分」(differentiel)という概念を導入していく。 ここらへんを説明しようと思ったら、ベルクソンの「生の哲学」にも関連してきて、ものすごく大変なので、ここではこんな感じ、ぐらいに思っておいてください。 > Deleuzeはライプニッツの影響を受けている哲学者なのでしょうか? 「影響を受けている」という言葉は、何かを言っていそうで、実は何も言っていないに等しい言葉じゃないかとわたしは常々思ってるんですが(笑)、ともかく、「モナド」や「微分」を転用し、自分の思想に生かしていった、と言えると思います。

ken-deleuz
質問者

お礼

お久しぶりですghostbusterさん。丁寧な回答ありがとうございました。日本は今、相当暑いらしいですね。今、日本はちょうど盆の季節ですよね。猛暑の夏、いかがお過ごしですか。 僕はこのライプニッツに関しては名前ぐらいで、今回、ghostbusterさんの回答で、なるほど、と思うだけで質問ができるような知識がありません(笑)。最近、大学のレクチャーも難しくなってきていて、違う質問でもしましたが、啓蒙とmodernity、self, subjectivity, subjectを勉強していて、デカルト、カント、ヒューム、ロック、ルソー、フロイトとラカン、そしてもちろんフーコーが授業でボンボンでてきます。最近、頭から煙がでています。そしてドゥルーズのノマドがこの間の授業にでてきたのですが、このmonadoは日本語で”遊牧”って意味なんですけど、この日本語の意味と哲学における専門用語として意味に共通点はあるのでしょうかね... 全く関係のない質問があるのですけど、僕は今後、このドゥルーズを勉強していきたいので、院に行きたいんですよ。そこで日本でドゥルーズは盛んに研究されているのでしょうか?ここオーストラリアで、ドゥルーズの勉強をできる大学を探しているのですけど、見つからないんですよね(僕の大学には哲学科はありません)。もし日本にあれば、帰国して勉強したいんです。 回答ありがとうございました。

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回答No.2

こんにちは。 暑い、と言いたくないですが暑いです。アイスクリームだけを生き甲斐に生きてます。 さて、nomade はふつう、ノマド、っていうふうにそのままで使われてます。クルマの名前(確かそんな名前のクルマがあった)と思う人もいるかもしれないけれど、ちょっと現代思想をかじってる人だったら、ああ、あのドゥルーズのあれね、と思う。そのくらい用語としては定着しています。中山さんの『思考の用語辞典』にも「ノマド」という項目が載っています。この項目はギリシャ語からときおこしてあって、なるほど、と思います。 「ノマドということばじたいはギリシア語の動詞ノメウオーから派生している。牧草を求めてさまようという意味だ。名詞形ノモスは、家畜が草を食べるためにわりあてられた場所。わりあてられたもの、場所、制度――そして法律。そういう意味になる。ノマドが法と制度と深い関係にあることは、語源からもわかるね」(中山元『思考の用語辞典』) 日本語は英語とちがって、翻訳の時に、用語にはあらかじめマーキングがしてあるような言葉を選びます。だから、慣れないと何を言ってるんだ、ってことになるけど、ある程度慣れたら、かえって「用語」と「日常語」の区別がつきやすくてありがたい。「ノマド」もあくまで「ノマド」であって、「遊牧」じゃありません(笑)。 > 日本でドゥルーズは盛んに研究されているのでしょうか? ごめんなさい。わたしは哲学を専門にしている人間ではないので、このご質問には答えることができません。 ただ、翻訳は順調に出てます。そのことはひとつの目安にはなるんじゃないかと思います。 日本で研究者になるつもりだったら、やっぱり日本の大学の研究科に進まれた方がいいとは思います。オーストラリアの事情もわからないまま雑なことは書きたくないのですが、ドゥルーズを勉強するとしたら、あまりそちらにいるメリットというのはないかな、というような気がします(くれぐれもそちらの先生とも相談なさって、あるいはネットでも情報収集は可能ですから、そうしてください)。 ただ、なんにしても真剣に取り組んだことで、ムダなことはひとつもない、と思うんです。 だから、質問者さんがいまやってらっしゃることは、どういうかたちであれ、かならず生きてくると思う(一般論しか言えませんが)。 わたしの場合、学部のころ、専門がおもしろくなくてかったるくて死にそうで(笑)、関係ない哲学の講読に苦労して出たりしたのが……役に立ってるのかな? それはどうかまだよくわからないんですが、少なくともワーズワースなんかを読んでるよりは、ずいぶんおもしろいことを知ることができたと思ってます(いや、別にワーズワースがつまらないとか意味がないとかいってるわけじゃありません。ほんと)。 なんにしても時間がかかることです。ゆっくり、がんばって。

ken-deleuz
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 日本の100円アイス(氷菓子)が懐かしいですね。この国のアイス(アイスクリーム)は2.80セントもします。アイスが高値の花なんですよね。こうなると気軽に食べることができません。 ノマド=遊牧、安易な考えでした(笑)。カシオにはしっかりしてほしいところです。そろそろ哲学用語の辞書購入も考えないとだめみたいですね。専門用語が出るたびに、一応wikipediaでチェックするんですが、どうもしっくりこないんですよね。大学でwiki使用は禁止されていますし... 結局新しい専門要用語や哲学者が出るたびに大学の図書館に行って本を調べてたりしてます。 院での勉強はそうですね、先生と相談してみます。まだ卒業まで多少時間があるので、ゆっくり探していい大学を見つけたいと思います。僕としては日本の大学が良いんですけどね、なければどこかまた違う国に行きます。 ありがとうございました

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