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「内面を磨く」「自己磨き」ということに抵抗があります。
過去にこのサイトで「内面を磨く」「自己研鑽」についていくつも質問と回答が積み重ねられていますが、ひとつとして、それらを批判的に語る意見を 見ません。自己研鑽、内面を磨くといわれていることはそのように無条件に 賞賛されるべきものなのでしょうか? 少なくとも私には、野心。向上心。よりよい自己。上昇志向。チャレンジ・・・いずれも不快感を呼び起こす言葉です。 いえ、負け犬の僻みと人生諦めた者の戯言と言われて蔑みの眼差しを向けられても蛙の面にナントカで、全く気になりません。 皆さんがなぜこのようなことに価値を置かれているのか教えていただきたいのです。
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今よりも自分が気持ちよく楽しく生きられるようになりたい と思うとき、何をすればよいのか。 思いつくものは、本や人の意見を参考にすることでしょうか。 でも、参考にしたからといって何かが変わるわけではありません。 自分の考え方や行動の仕方を自分が変えることによって 変化が起きるのです。 例えると、自分の心のとんがっている部分を、自分が磨くことで 滑らかにすることでしょうか。 自分の内面を磨くというのはそういうことだと思います。 誰かのためではなく、ただ自分が今よりも楽しく過ごせるように なったり、ささやかなことに感動できるようになることでいいと 思います。 誰かの賞賛を得ようと内面を磨くことはおそらく出来ないと思います。 いくら磨いてもそれを知ることが出来るのは自分以外にはいないからです。 人から賞賛を得たいのならばもっと分かりやすい目に見えるもので あったほうが効果的だと思います。 でもそれに走ってしまえば内面を磨く暇はなくなってしまうと思います。
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- iye
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「自己の発展」は、目的でもあり、手段でもあり、そして、その動的な過程が、「生きていること」なのかな、と思います。 ・・・いつも、浅薄で纏まらない文章で申し訳ありません。
お礼
>・・・いつも、浅薄で纏まらない文章で申し訳ありません。 とんでもありません。 度々お答えくださってありがとうございます。 >動的な過程が、「生きていること」なのかな、と思います。 そうかもしれません。 アドバイスありがとうございました。
- iye
- ベストアンサー率41% (23/55)
的確な回答ができず、申し訳ありません。 つまり、実利やいわゆる「超自我」的なところの要求する自己啓発、自己の探索はうさん臭い、ってことでしょうか。 >このように皆さんから様々な考えを喚起させられるお答えを寄せられましたが、現実の生活になんら実利を与えるものではないもの・・・・ 日々の生活のなかでの潤いは、一種の「実利」でもありそうですが。 >「快楽原則」に従って行なうもの・・・ より「しっくりくる」自己像を模索することは、大きな「不快」を経験した後にくる、または伴う、「快」であるかもしれない、と思います。 いずれにしても、その「価値」を求めるものではなさそう。
お礼
詰まるところ、言葉の定義の問題になってしまうのかもしれません。 ただ私としてはあくまで、自己の発展は実利的・功利的なものとは 対極にあるものと感じています。 つまり「それ自体が目的」であって、「手段」ではないのです。 お答え、ありがとうございます。
- iye
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子どもが初めてペンを持って、紙の上に跡をつける。 はじめは、点や線から、そして、丸や三角・四角、 やがて、目鼻がついて、髪が生えて、手足が伸びてくる。胴体が入って人らしくなる。 それから、お日様が照って、まわりに草花があたたかみを添える。 子どもはとても真剣で、描きあがったときには、誇らしげに輝いた表情をこちらに向ける。 そんな光景を見ていると、とても微笑ましいです。 ・・・そんな感覚でしょうか。 それとも、ここで言われている「内面を磨く」「自己研鑽」となると、また、違っているでしょうか。 言葉の定義の問題になってしまうとつまらないですが、「内面を磨く」ことが、外的な価値観(自己価値感を含む)に極端に偏ってしまう場合に、違和感が生じる可能性はあるように思います。ANo.2さんの書かれている客体としての自己に近いのかな。 不快感を伴う「野心、向上心、よりよい自己、上昇志向、チャレンジ」という言葉は、その外的な価値観の範疇にあるか、微妙にずれている部分もある気がしますが。 「内面を磨く」の「磨く」を、「豊かにする」くらいのことばに置き換えたらもう少しスッキリしないでしょうか。 けれど、この場合も、「価値をおくもの」というより、ひとのそういう心の動きは「尊重されるべきもの」なのかもしれません。 または、「内面を磨く」「自己研鑽」を、この世で生きる術と考える。いわゆる「己を知る」とは、生きるために必要なものと考えるか。 ところで、ご質問と関係ないかもしれませんが・・・ ここでのご相談、知的な関心(?)は、自己研鑽とは無縁でしょうか。 もちろん、無条件に賞賛されたり、価値の置かれるものとは考えないでしょうけども。
お礼
>・・・そんな感覚でしょうか。 それとも、ここで言われている「内面を磨く」「自己研鑽」となると、また、違っているでしょうか。 子供の無邪気な(?)本能的ともいえる自己表現とちがい「内面磨き」とか「自己研鑽」という言葉にはどこか「生臭い」匂いが漂っています。 >「内面を磨く」の「磨く」を、「豊かにする」くらいのことばに置き換えたらもう少しスッキリしないでしょうか。 これもまた鋭い指摘です。 しかし、少なくとも私の中では「心の豊かさ」は「目指す」ものではないと思います。 それは「徳」といってもいいかもしれませんが、血眼になって得るものとは対極の美徳と思うのです。 つまり自然と身についているものといえるものじゃないかと・・・ つまり >「内面を磨く」「自己研鑽」を、この世で生きる術と考える。いわゆる「己を知る」とは、生きるために必要なものと考えるか。 ・・・処世術ではないかと思うのです。 >ここでのご相談、知的な関心(?)は、自己研鑽とは無縁でしょうか。 無縁だ思います。 このように皆さんから様々な考えを喚起させられるお答えを寄せられましたが、それは現実の生活になんら実利を与えるものではないからです・・・ ご回答、ありがとうございました。
- shift-2007
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人として生きているこの人生に意味を持たせるためじゃないでしょうか。 自分の内面に対して何のアプローチもしない生き方も考えられますが、恐らくそれは出来ないと思います。 程度の差はあれ、人の興味の根本は自分自身への関心へとつながるんじゃないでしょうか。
お礼
仰られていること、全く同感です。 しかしこれは、「哲学」であると私は思います。 >自分の内面に対して何のアプローチもしない生き方。 「自己研鑽」に血道を上げていると、自己を見失いませんか? あなたのご指摘と「自分磨き」なるものとは全く異質のものだと感じます。 ご回答ありがとうございました。
- nazenazeda
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なかなか考えさせられる難しいご質問だなぁと感じました。 ご質問の回答とはズレそうですが、「感じ」を受け取ってください。 個人的見解です~「自己研鑽」「内面を磨くこと」ついでに「外面を気にすること」に「勤しむ」方は、その根底に「劣等感」を持っているのではないかと感じるのです。「満足しない自分」とも考えられます。 「ありのままの自分」がOKならそのままでいいわけですから。 階段を登るイメージよりは、心にある穴を見つけて一所懸命に埋める行為と捉えています。 「劣等感」はその個人に自然発生的に出来るのではなく、社会や組織、集団、クループ、家族などからの「態度・対応・視線・言動・比較のようなもの?」から作られてくるのではないかと考えます。 ですから、「自己研鑽」「内面を磨くこと」に「勤しむ」ことは、そのご本人の自発的な行為と捉えるよりは、社会や組織、集団、クループ、家族などの周囲が求めにある意味「強迫的」に行動してしまっている行為と考えます。 オリンピックで銅よりは銀、銀よりは金を切望するような世界的風潮?にあっては、その「上」を目指すことに価値が求められてくるのではないのでしょうか。 その根底には、ANo.1さんがおっしゃる本能が関係しているのだと考えます。 より強いものが子孫を残すことができるといった動物の繁殖のように。 しかし私は「自己研鑽」「内面を磨くこと」を否定はしていません。 知識見聞を広め、色々な経験を経て、人の痛みがわかっていくことも、さまざまな欲求に従って競争心を持つことなども「自己研鑽」「内面を磨くこと」の範疇とも考えられるからです。 冒頭の考えは、「勤しむ」度合が強い人の場合の私の分析です。そして「勤しむ」方を否定しての発言ではありません。(質問者様~私の守りの説明に嫌悪感を与えてしまったらゴメンナサイ。) さまざまな環境の中、 「ありのままの自分」でOKと思える自分 今や過去の自分自身を受け入れられる自分 になることが一番難しいと、自分もそうなりたいと日ごろ思っています。 多くの人は、信念をもって「価値あり」というより、問題意識を持つこともなく「自己研鑽」「内面を磨く」といった言葉を「美しい」「良い」「価値あり」のニュアンスで自然と「肯定的」な言葉として受け入れてしまっているのでしょう。 「自己研鑽」「内面を磨く」ことに関しても、「肯定的」「否定的」の問題意識やその問題意識そのものの存在は、その方個人の過去のさまざま経験や環境から作られていることなのでしょう。
お礼
ご丁寧なご回答(ご感想?)ありがとうございます。 確かに >しかし私は「自己研鑽」「内面を磨くこと」を否定はしていません。 知識見聞を広め、色々な経験を経て、人の痛みがわかっていくことも、さまざまな欲求に従って競争心を持つことなど・・・ わたしも同様です。 人として生まれてきて、よりよいものを見出し、美しいものに触れ、心を豊かに過ごすということは、古代ギリシャ、プラトンの「真・善・美」の時代から連綿として人類に受け継がれているものだと思います。 けれどもよい本を読み、美しいものに心うたれ、自分の信念に従って生きようという誇りと、「自己研鑽」「内面を磨く」などという浮薄な言葉とはどうしても相容れないもののように、 似て非なるもののように感じられてなりません。 また逆にそれが「本能」であるなら、それは「快」に発し「快」に帰するものであって、研鑚という苦行的なものとは異なるのではないでしょうか? 私が読書したり、絵を描いたり観たり、映画や音楽に親しむのを一度も自己研鑽などと思ったことはありません。 なぜならそれはあくまで「快楽原則」に従ってやっていることだからです。
ご質問の趣旨から少しずれるかもしれませんが、事故と言う言葉の意味についてです。自己は主体としての自己と客体としての自己に分けられます。おそらくあなたは自己という言葉を主体としての自己に限っておられるのではないでしょうか。一方自己を磨くというような表現ではこれは客体としての自己で本質的には教養とか服装とか財産のようなものと本質的には同じものです。場合によっては礼儀作法やいろいろな欲求や欲望もなども含まれます。多くのひとは主体としての自己は問題としません。主体としての自己は存在することはわかってもその正体は不可解なものです。不可解なのですから磨きようもありません。多くの人は認識の対象にならない主体としての自己はそのままにしておいて他の人からも認識の対象となるものを自己と見做してお互い社会の中で評価し合っています。場合によっては「磨きようのない」容貌のようなものさえ自己として問題にしたりします。客体としての自己は社会を成立させている前提であるとともに優劣というものがついて回りますからあまりどうでもよいとか向上させなくてもよいというような言い方は社会という競技に参加する意志がないという表明になり、多くの人(いわゆる普通の人)にとっては耳を貸さないことなのだろうと思います。私は多くの人が、本来の自己は主体としての自己と考えれば、お互い自分のことだけはわからない(正体が不明な)のだからおたがいなかよくしようということになルのではないかと思います。
お礼
お休みのところ、丁寧な回答をありがとうございました。 なるほど私は「自己」というものをそのように「主体」「客体」というように分けて考えてはおりませんでした。 というより、これまでの習慣から自己の「社会的側面」ということに目を向けることがありませんでした。 でもそのように「社会的な自己」に磨きをかけるということは私が嫌う 功利的行為で、「内面を磨く」とか「自己の陶冶」などという言葉とは ちょっと乖離してくるように思います。 もしまたお話を伺えれば幸いです。
- kokoreko
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人間の本能でしょうね、 昨日できなかったことが出来るようになる喜び 一度知ると他の欲望より満足度が高いからでしょう。 貴方は競争に疲れたか、敗れた人でしょう。 私も同じなので、、、、 貴方が競争にチャレンジする状況になれば、 気持ちもわかるようになるでしょう。
お礼
>貴方は競争に疲れたか、敗れた人でしょう。 私も同じなので、、、、 私は端から競争から降りていると思っています。 (無論どこまでを競争と定義するかによりますが・・・) 競争に敗れた者と言ってもいいでしょう。 ただし先の意味で闘って破れたというよりも 「不戦敗」というやつです。 スポーツの世界では「試合放棄」=「敗戦」ということですからね。 >貴方が競争にチャレンジする状況になれば、 気持ちもわかるようになるでしょう そういう一面も確かにあるように感じます。 「競う」ということの愉しさを知らない人間でこれまで来ましたから・・・ ご回答ありがとうございます。
お礼
お礼が遅くなってすみません。 >誰かのためではなく、ただ自分が今よりも楽しく過ごせるように なったり、ささやかなことに感動できるようになることでいいと 思います。 正に仰る通りだと思います。 結局世に言われている「内面磨き」というのはキャリアアップだ資格取得だと、「役に立つ」ことばかりのように見えるのです。 私は自己を深めること、心を豊かにすることを否定しているのではなく、 それは何にもまして人間が人間であるために不可欠な営みと思います。 けれどもどうしても「自分磨き」というと「異性にモテたい」 「世俗的な成功を得る手段」というイメージが付き纏い、嫌悪感を拭えないのです。 ご回答ありがとうございました。