質問者様の引用部分に入っていませんが、「堺の商人の息子が何で戦に出なあかんのや」という趣旨の部分がありますね。この部分を無視すると、この詩の意味が全く分かりません。
江戸時代以前、町人が自らの意思と関係なく戦場に出ることはありませんでした。大坂の陣のような都市を舞台とした合戦では、大坂城下の商人は市外の親戚などの所に逃げ、店は焼かれて損害を蒙ったでしょうが、豊臣家が大坂城防衛のために大坂の町人の倅を徴兵して足軽にする、などという形で戦に巻き込まれることは全くあり得ないことでした。特に都市の町人にとっては、戦は「武士が勝手にやっていること」だったのです。
与謝野晶子の弟がどういう人だったのか分かりませんが、陸士や海兵を出た将校、あるいは兵役終了後に下士官を志願して軍に残った職業軍人でなかったのは確実です。彼女としては、「商人の息子が兵隊に取られて戦わされる」ことへの悲しみを素直に詠んだのでしょう。これは、現代の私たちにも分かりやすいことです。決して「戦争なんて間違っている」などという「大それたこと」は考えていない筈です。
No1さんが、与謝野晶子が自分の息子が海軍大尉として出征する際に武運を願う(戦争を肯定する)歌を詠んだことを紹介しています。この息子(与謝野四郎)の詳細な経歴は分かりませんが、恐らく海軍兵学校か機関学校を出た海軍士官だったのでしょう。その場合、自分の意思で軍人となることを選んだ息子なのですから、その出征を祝するのは当たり前です。
要するに、彼女は日露戦争の時は反戦詩人、大東亜戦争の時は戦争賛美詩人だったとかいうわけではなく、
「商人の息子なのに徴兵されて一兵卒として辛い生活をし、敵陣に突撃される弟はかわいそう」という姉としての立場
「海軍士官となり、軍鑑に乗って戦地に向かう息子の武運長久を祈る」という母としての立場
をそれぞれ正直に詠んだ、ということです。どちらも矛盾していません。