• 締切済み

八百万の神々は世界に誇れる事ですか?

先日、友人との会話の事ですが 日本には八百万の神々って考え方があるので キリストやブッタやアラーが日本に来ても 神様が数人増えるだけとの会話から始まったのですが 友人曰く 日本では年末になると クリスマスを祝い、大晦日にお寺に行き、元旦に神社に行く 世界中を探しても、ここまで節操の無い国は日本だけと 説明されました 友人はちょと否定的な感じがしましたが 自分的には 他の国ではあり得ないかもしれませんが 独自の文化って感じで、それはそれでいいのでは?なんて思います ホントの所はどうなのでしょうか?

みんなの回答

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.18

ほんとのところ はどう なんだ。 なんて聞かないでくれ給え。 誇らなくてもいいし 自慢もしなくていいけど 自信ぐらいは持ってくれ。 誇ったり自慢したりは 争いの元だから おれんとこの神が一番なんだ という奴がいたら あ。そう。 といっておくぐらいがいいんじゃないかな。

  • hirosi3
  • ベストアンサー率50% (72/143)
回答No.17

 もし「八百万の神々は世界に誇れる事」ならば、世界中の人びとが「八百万の神々」を信じることになる。  キリスト教徒は「八百万の神々よりも、キリスト教」を信じているからキリスト教徒なのでしょう。「本当はキリスト教なんて信じたくない。けれども信じているような振りをしないと「近所つき合い」ができないので、信じているかのように振る舞っている」などという人はいないでしょう。  イスラム教に関しても同じように言えると思います。キリスト教徒に向かって「八百万の神々は世界に誇れる事です」と言ったら、「あなたの信じているキリスト教は間違っています」「八百万の神々を信じなさい」とその人を批判することになります。  つまり、「八百万の神々は世界に誇れる事」だと思っている人は「八百万の神々」を信じていて、「八百万の神々は世界に誇れる事ではない」と思う人は、他の宗教を信じているのでしょう。世界でその割合は?というと、どこかに統計・資料があるでしょうからここでは省略しましょう。  「八百万の神々は世界に誇れる事ですか?」との質問に対しては、このように答えるのが正しいと思います。ここで宗教論を展開しても、世界には「信じる人」「信じない人」がいるのが現実なのですから、それぞれの宗教を信じている人を宗旨替えさせることはムリです。  もし「八百万の神々を信じている日本人の宗教観をどのように思いますか?」とか「世界に沢山ある宗教のなかで「八百万の神々」はどのような意味がありますか」との質問だと、違った答えを用意しなければなりません。

  • pojipoji
  • ベストアンサー率32% (53/161)
回答No.16

自然現象や物体などあらゆるものに神性があり、又は神であるという考え方は西洋では汎神論と呼ばれていたようです。 スピノザさんは、デカルトさんの合理主義哲学をより先鋭化した方だそうで、幾何学的に思惟を推し進め、極めて論理的に汎神論を証明されたようです。一見無神論に見えるため当時の西欧世界では住み難かったようです。 まず自分の頭で考えることが大切だとスピノザさんも言っていたと思いますが、日本の様子は汎神論の普及した社会の一つの現れ方にも見えます。 なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる       西行さん

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.15

[八百万の神々は世界に誇れる事ですか?] ホントの所はどうなのでしょうか? ですね。 回答は両面性があるということが正しいかな。 世界に誇れる点は:神つまり神のような上(うえ)の霊はたくさんいるという事実に適合している。 これは大学がたくさんあるということと同じ意味ですね。 誇れない点は:たくさんいる上の霊にも序列がありつまりピラミッド構造になっているのも事実だから、一番えらい霊があやふやである点ですね。 これは大学といえどもピンきりと同じことですね。ピンときりの区別がわからない点ですね。 仏教の曼荼羅図では序列を円形に描いてますね。中心は一人だけど回りにいくに従い山ほどいるという形、つまりピラミッド構造を平面に投影したものですね。  つまり八百万の神々も正しい認識だが、厳然とした序列があることも事実という意味で両面的ということです。  これしかないといいたいのはわかるが正しくはないし、八百万もいるということは正しいが誰がピンなのといえない点が問題ということです。 ピンは釈尊でそれに続いてるのがイエス・モーゼなどというのが本当は正しいのですがね。

  • kanpyou
  • ベストアンサー率25% (662/2590)
回答No.14

ギリシャ神話においても多くの神が登場しますし、「多神教」というのは、原始宗教においても、おかしくはないことだと思います。 山の神、水の神、田の神、先祖に感謝して、そのほうが機能的、特化的ですし、『理』にかなっていると思います。

  • modoki666
  • ベストアンサー率27% (29/106)
回答No.13

基本的に八百万の神という考え方は、「差異」を尊重しながら、「普遍性」を求めるのに対して、一神教は、「差異」を切り捨て「同一性」を求める考え方です。 ですから、日本で神仏習合というのは、仏教における「差異」を認めながら、「関係」を重視して普遍性を求める考え方と相性が良かったわけです。 つまりそれが日本の伝統と考えられるのですが、キリスト教の考えを模倣した皇国史観や国家神道を強制的に教え込んだために、「差異」を尊重する「普遍性」から、「差異」を切り捨てる「同一性」を求める考え方が国民の心に刷り込まれたわけです。 歴史的には「廃仏毀釈」と言う動きにも現れています。 そして、それを進める事が、伝統を守ることだと「マインドコントロール」されたわけです。 その考え方を持つ人は、真剣に「同一性」を進めることが日本の伝統だと考えて、「同一性」よりも「普遍性」を求める人間を、日本の伝統を壊す人たちと考えるのです。 つまり文化であり宗教である「八百万の神」と言う考え方は、同一性を求める考え方のように、違う考え方の文化や宗教を肯定とも否定という視点で見ないので、理解できないのでしょう。 これはオウム真理教が「同一性」を求めて、麻原の脳波をヘッドバンドで刷り込もうとしたり、麻原の血を飲もうとしたりしたことから判るでしょう。 つまり敢えて誇りに思うこともなければ、卑下することもないのです。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.12

世界に誇れるかどうかは別としても、日本の文化・精神として八百万の神は重要だと思います。 キリスト教やイスラム教の一神教文化圏と、日本のような多神教の文化圏の大きな差は、「仲間意識」の強さの違いです。 よく「寛容の精神」と言われるのも、この意識の差であると思っています。 一神教に顕著なのが、違う宗教を信じる所謂「異教徒」に対しては、あまり「寛容さ」を示さないことです。 また、それ以上に「異端」に対しては激しく弾圧を加えます。 そして、「仲間意識」の強さから強固な団結を示します。 こういった「宗教思想」を背景に、「人種差別」や「他の文化を考慮しない、独善的な政策」が行われてきましたし、現在でも続いています。 (もちろん、宗教だけではなく歴史・文化などが複雑に絡み合っていますが) 西洋思想を輸入するのもいいのですが、その思想の背景に「宗教の差」があることを考慮せず、日本の文化・精神の良さを見失うと国際社会では「勝負」できないでしょうね。(今の世界人口の半分以上は、一神教) もっとも、こういった「精神論」を誤った「ナショナリズム」に結びつけるのは、「同じ穴の狢」でしょうけど。 日本人は、八百万の神の御陰で善くも悪くも「宗教的仲間意識」は薄いといえます。

  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.11

まあ、商売でも、 個人商店よりスーパーの方が重宝される今日だからなあ。

  • reni0920
  • ベストアンサー率23% (10/42)
回答No.10

八百万の神はキリストやアラーといった宗教的存在ではなく いわば文化です。 古来の人々は全ての物 釜や鈩や農具や樹木や家具にはそれぞれの神様が宿っていると考えておられました。 それを八百万の神といいます。 それと精神的な教えをする実在(宗教家相違ですが)と同じ土俵に上げること自体が間違ってます。 私は全ての物に神々が宿ると言う 日本人独特の柔軟な考えが好きですよ。 ある種自慢できると思います。 何者にも囚われず、自分の信念のままに生きられることが。 なので私は新興宗教は大嫌いです!

  • luune21
  • ベストアンサー率45% (747/1633)
回答No.9

全然自慢できるものではないと思います。 理由は世界中のどこにでもあるごくありふれた素朴な信仰にすぎないからです。素朴なことが劣ったこととは思っていません。しかし、自慢できることでもないと思います。 そもそも、日本語でいう「神」をアラーやキリストと同じに扱うのは間違いのもとです。 アラーやキリストは日本語でいえば「主」や「父」にあたります。しかし、日本で、明治天皇や菅原道真、風神雷神などに「主」を感じる人はほとんどいないでしょう。これらの神をあえてくらべれば、精霊や神話(北欧、ケルト、ギリシャなど)に登場するようなものになると思います。 キリスト教文化を例にとってもキリスト教でいう「主」と聖母マリア崇拝やハロウィーンなの精霊信仰などと並立している例はいくらでもあります。南米では、土着の信仰と混ざってぐちゃぐちゃになっている人も多数いるようです。 歴史的に形作られていった教義によって信じられている宗教上の「主」と、素朴な形で信仰されている八百万の神などという場合のカミとはまったく別のレイヤーの物です。くらべられません。 繰り返しになりますが、人智の及ばないような超越的な多くのカミを信仰する習慣はどこの国にでもあります。言い換えれば、八百万の神を多神教というのなら西洋文化もアフリカ文化も中国文化も多神教です。しかし、教義を持ったキリスト教やイスラム教という「宗教」は一神教だということです。 違いをあげるとすれば、キリスト教文化圏やイスラム教文化圏では一神教と多神教の並立、日本は多神信仰だけで実質無宗教だということになるでしょう。外国の人に説明するときは「日本は仏教と土着の精霊信仰の国だが、現在宗教や信仰によって自分の行動やモラルを規定している人は少ない」となるでしょう。

関連するQ&A