• ベストアンサー

《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。 要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。 けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mr-birn
  • ベストアンサー率18% (15/80)
回答No.12

  『現人神』は、理解できました。  では、一般に言われている『神』を貴方は、どう考えておられるか?(信じている側ですらあります)。と書かれてあります。・・・ が?  歴史的な事柄は、置いて現在から未来を考えて見たいと思います。例えば、地球温暖化と神、『現人神』には何の関わりも見出せませんが、現に問題は発生しています。又、地球の外側(天文分野)では≪暗黒星雲≫などの情報が、NHKの教育でも放送しています。何と、宇宙の65%位が≪暗黒星雲≫とかが占めていると言うのです。(不明の方が多い) ○○億光年とかの世界ですが、実在してるのでしょう。それらを、『神』の摂理とするでしょうか?私は、そう思いますが、その場合、『神』とは何を意味するか?  ※ 私には、社会現象・科学・天文学とばらばらにする思考と、絶対的な摂理を意識する人があると思います。人間が支配するか、別の次元に求めるか。  例え、同じ宗教・宗派・教会などでも個々人で理解は違います。けれども、尊重できる範疇なので目くじら立ててもしょうがない程度なのでしょう。  史実がどうこう言われるのは、歴史的裏づけが必要な時です。でも、事実は余り気にしない物語・絵本など子供向けの本もあります。著者は大人で対象が子供と言う違いはあります。そして内容的には、多少のぼかしや脚色はあってもポイントを得た(絞った)本が最近は多く見かけます。いじめをテーマにした物が有りましたが、大人が見ても面白いと感じます。  日本が戦争で負けて、天皇に対する見方が変化したのは、約60年前です。でも、日本の『神』が抹消した訳では無く、信教の自由の基に、生きられる訳で、仏教・キリスト教もです。但し、戦中は他国の宗教と言う事で弾圧した訳です。『建国記念日』や『靖国問題』など、史実は不明ですが、神話や祭り事のように思える事も含まれて現在があるように思います。ギリシャ神話でも言えそうです。  『神』に対する概念には、超自然・絶対者を求める人間的な本質があるように思います。ですから、その辺で考えると尊重(天皇が象徴である如く)する事で、人間社会が秩序を保っているように感じます。敗戦後そういう意味で天皇制が残されたと言われましたが、私の記憶では?  > けっきょく なぜ ゆるされているのですか。  私にも、分かりません。ギリシャ哲学も盛んな時代ですよね。当時の指導者が都合よく解釈したと簡単に言えません。火のない所に煙が発たないように、何かがあっての事と考えますが、ゆえに信仰の対象では?  >たとえば子どもたちに どう教えればよいか問題になりませんか。  問題ですね。でも、その問題の回答は子供に返すしか無いのでは?子供のレベルに合った説明をして、実は先生も分からない、研究中(ネットで調べている)。それが、きっかけでその子が学者になるかもしれないので、湾曲した説明は、逆に責任があるように思います。

noname#80116
質問者

お礼

なぜゆるされているか? ――わからない。 子どもにどう教えればよいか? ――先生もわからない。〔わかるような人が出て来て欲しい。〕 なるほどと思いました。そのとおりだと思いました。問題は残ったままなのですが。 神をどう考えているか?との問いもありましたので わたしの信仰にかかわらせて 上の事態を解釈するなら こうなります。 潮の満ちていくように 神をめぐる人間(人類)の時も 少しづつ 満ちていくのだと思います。その一つひとつの段階と日々の過程とをたどっていくのだろうと考えます。 でも ただ今でも 教科書は 何らかの説明をしているんですよねぇ。神が肉となったというのです。文学的表現であれば まだしも・・・。まあ 信教の自由は いいものですが。 ありがとうございました。

その他の回答 (21)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.11

No.10です。 私も二人の人の書いたものを混同していました。 失礼しました。 >歴史的人物だとされるイエスについて 尋ねています。 >文献と史実の検証のほかにありましたら お聞かせください。 「実在のモデルがいたからこそ、12使徒たち、少なくもペトロやパウロは実在し、イエスの物語を語ったではないか。だから実在したはずだ。」 でしたら、さぁ・・・ です。 ヨセフスが強調して語ったところによると、頻繁に起こったローマ支配に対する反乱を扇動したのは、ユダヤ教の黙示録的伝統に属する指導者や預言者だったそうです。 彼らは義なる者と悪なる勢力の間に行われる最終戦争と、それに対する神の介入を語る幻視的思想家の流れを汲む者達。 これはユダヤ教におけるメシア的教義の重要な側面だったそうです。 こう聞いて浮かぶのが、クムラン宗団です。 彼らの終末の概念がそうだったから。 実際に20世紀になってから彼らの書物が見つかりました。 そこにそう書かれている。 ご存知だと思いますが、死海文書と呼ばれるものです。 クムラン宗団を率いていたのはツァドクの末裔。 ただし、一人のメシアではなく、二人のメシアを待望していました。 祭祀のメシアと王のメシア。 これに該当する人を無理やり私が当てはめるとすれば、アロンの血筋を引くとされる洗礼者ヨハネと、ダビデの血筋を引くとされるイエスです。(天の子と地の子) 彼らはイスラエルの選民が神との契約を遵守するようになるまで、最終的な贖いと悪に対する善の勝利は実現しないとし、メシアは選民を浄め、王のメシアは悪に対する戦争において彼らを勝利に導くとしていた。 後に成功しなかことで、文書が付け加えられたらしいです。 そう聞いて思い出すのが、人々はイエスにメシアであることを早く示せと詰め寄った一件。 クムランの宗団の一派が分裂して、キリスト教になっていったんじゃないかと。 クムラン宗団の考え方はキリスト教の考え方に非常に似ているが、三位一体などユダヤ教からすれば神を冒涜するような考えはしていない。 また、ヨハネもイエスという名前も出てこない。 義の教師と悪の祭祀は登場しますが、悪の祭祀が義の教師を殺したとなっている。 ちなみに義の教師は紀元前200年だったかそこらに実在したことになっているので、新約聖書のイエスではない。が、後世の人の創作する上でのモデルになったかもしれない。 別の人の見方では、義の教師、悪の祭祀はイエスが生きたとされた時代の人物で、義の教師は洗礼者ヨハネ、悪の祭祀はイエスだ、という解釈もある。 >たとえば子どもたちに どう教えればよいか  信仰という言葉を使わずに、ですよね。 逆だと簡単なんですけどね。 まず、神の概念を子供に教えなければなりませんが、あなたはどう教えます? 神の概念は一定でしょうか? 以前神という語彙をネットの辞書で調べたことがあります。 無い、ヒットしない。 いくつか辞書を変えてやっと1個ヒットした。 では定義が定まっていないにも関わらず、人は神という言葉を軽々しく使って語っているがどうしてなんでしょうね。 子供に語る上で、まず神の概念を定着させる必要がありますね。 「人間では推し量れないよくわからないもの」←説明になっていないので子供は「パパも知らないんだ。知らないものを信じろって変なの」ってなってしまう。 >信仰を明らかにして人に伝えるという表現行為までは自由だが  >相手の自由も尊重し しかも共同自治の領域では 信仰から自由に >ならなければいけないというふうに。 日本においては信仰は自由です。 日本で宗教をしている人の数は人口の2倍。 おおらかな日本ならではの現象かもしれません。 日本において神道は暮らしに根ずいています。 正月は初詣にいき、クリスマスはメリークリスマスと祝う日本人。 門松などは三位一体を表しているといわれていますし、カバラの生命の木を表しているともいわれています。 日本の辞書にどうして神の概念が書かれていないのか。 異教の神を食ってしまって取り込んでしまったからと思えます。 この食うをうまく表現しているのが、新世紀エヴァンゲリオンのサードインパクトだと思えます。 日向「デストルドが形而下されていきます。」 冬月「これ以上はパイロットの自我がもたんか」 青葉「ソレノイドグラフ反転。自我境界が弱体化していきます。」 日向「ATフィールドもパターンレッドへ」 青葉「リリスよりのアンチATフィールド、さらに拡大、物質化されます。」 日向「アンチATフィールド、臨界点を突破」 青葉「だめです。このままでは、個体生命の形が維持できません」 パクっ。 習合してしまった。 他で、三位一体について話をされていますが、三位一体の原型は三相一体で、これは女神の概念なんですね。 母系社会のときの概念で、それが父権社会に移行していくうち、「父と母と子」さらに母がはじかれ「父と子と聖霊」に変換していったわけです。 キリスト教もユダヤ教とローマ神話が習合している。 土地土地の伝承が違うのも、土着の神を取り込んでいったからだと思います。 思想においてはギリシャ哲学を取り込んでいる。 で、人間が神でもあったということを、どう子供に説明できるのか。 難しいですね。。。。 昭和天皇で書いたような感じでなら説明できますが。。。。 子供を一時的に納得させるのは簡単です。 クリスマスの夜にサンタがプレゼントを運んでくれるということを、子供に教えておいて、自分でプレゼントを枕元においておけば、目覚めた子供は「サンタさん ありがとう。パパの言ったことは本当だった。」となり、イエス様も サンタ様も パパ様も尊敬対象になれます。 だが、子供じゃなくなると、そのトリックは通用しなくなり、「パパの嘘つき トリックで神の実在を信じさせようなんて最低の人間だ。」となってしまうか。 なりませんよね。 寛容さを持って乗り越える。 キリスト教は不寛容によって成り立っていますよね。 というわけで、イエスを神だと教え込むには、不寛容さで教える。 例えば侵略先の土着を神を悪魔に摩り替えてきましたが、このように人々が信仰しているものを悪魔だと教え込むことによって、逆に自分が信仰しているものは逆の神だと信じ込ませることが可能。 歴史的にみてもそうですよね。 ただし、これも一時的なもの。 そのトリックを子供がいつか気づく時がくる。 その時、子供が親に対する信頼が揺らぐことになる。 そうなったときどうなるのか。 「パパ イエスが言った目が見えない人という意味は、盲目の人って意味じゃないんじゃない? ヘブライ語の慣用句でケチな人って意味でしょ。イエスは共同財産を説いたわけで目が見えるようになったという意味は気前がいい人になったって意味でしょ。」 「パパ メシアって意味は救世主って意味じゃなくて、聖別された人って意味で、ダビデもソロモンも祭祀たちも油を注がれ聖別されたメシアだったわけだけど、人間だったわけでしょ? じゃあ イエスも人間じゃない。」 「パパ 偉い人が油を塗られた理由は女神との結婚を表していて、女神と結婚することで、女神の力を手に入れられると信じられていたからでしょ。 だからルシファは女神の力を手に入れようと挑んで、地上に落とされたって話なんでしょ。 それがユダヤ教になったとき、それを象徴するのが頭に変わり、メシアは頭に油を塗られるようになったんでしょ。」 このような問いに答えられるようにならなければなりません。 ということで、イエスは神だったとうかつに言わないほうが無難かも。 教えないのに子供がそう思ったら、「パパ 事実はどうなの」って迫られることはない。 言った人に問いただしに行くわけなので。 結論、 イエスは神だったと子供に言わない。 「キリスト教の教えではそうなっている」と条件つきであることを言っておくにとどめる。

noname#80116
質問者

補足

重ねて答えてくださって ありがとうございます。わたしのこの質問は 素朴ながら 的を射るような問いであるように 我れながら 確認しています。 (1)或る実在の人物もしくは世界観としての想像じょうの人物が イエスのモデルになっているという背景を指摘されています。いまは 留意ということにさせていただきます。(史実の比定は むつかしいです)。 (2)《〔戦争を〕止められなかった原因は自分にあるとして、殺されてもかまわないが、国民には責任は無い と一人で罪を背負って崩御しようとしたわけです》の結果 ゆるされて そのあと あなたは 《自害する》か《生きて耐え抜く》かの二つに一つの選択を想定しておられますが しばらくして 退位・譲位すればよいとも考えられます。自分の意志だけで出来ないとしても その意志が伝わるまでは 言い続けるということも考えられます。そうでなければ 責任を負ったと言えなくなるように思います。 ですが なぜこのような議論をしたかと言いますと 時間的存在(つまり人間)の経験的行為は あくまで相対性のもとにあると言いたいためです。誰が誰のどの行為をどう言おうと 反面ではこうこうであると言えるということです。ですから 現人神の判定は 不可能であり 社会常識としては 判定してはいけないのだと考えます。徳育というふうに 神とのかかわりを多少薄めても 同じではないかと。 ですから――ちなみにですが―― キリスト・イエスをめぐって 善し悪しを述べられても わたしとしては ほとんど 触れて来ていないと思います。さらにちなみに 実在説の当否についても それとしては 議論を拡げないという方針でいます。 (3)《神》の定義から始めなければならないとおっしゃるのは まことに同感です。めづらしく意見の一致を見ましたね。それはいいのですが そして次の方(ANo.12)へのお応えを先に書きそこでも確認しあう形になったのですが けっきょく 気長に一つひとつ こなしていくことが肝心なのでしょうかねぇ。 (4)三位一体に対して 《原型は三相一体で、これは女神の概念なんですね。母系社会のときの概念で、》うんぬんと続けられていく文章は 説得的ではありません。その事情が問題なのではなく 三位一体説はすでに明確に出されているので その原型があってもなくても 問題にしなくてもよい事情説明だと捉えられます。 いまふと思ったのですが やはり 子どもにも そのままはっきりと明らかにしたほうがよいのかも知れません。判断は子どもに任せるのも一法かと。すでに書いたことですが 文学的な表現であるというのならば 何の問題もないのですが・・・。《「キリスト教の教えではそうなっている」と条件つきで》とおっしゃっても やはり伝えることになるわけですし・・・。 なお 褒めたことではないのですが アニメにかんしては まるっきり分かりません。ご容赦のほどを。(千と千尋の神隠しをテレビで見たことがあります)。 なお 今回の質問の過程で 落合仁司著《〈神〉の証明》(1998現代新書#1392。品切れとのこと)に出会いました。カントールの無限集合の理論で 神の受肉が説明できると言っています。(まだ読書途中です)。数学がわからないので 質問してみようかとも。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.10

No.6です。 >イエスと同時代のユダヤ人であるフラウィウス・ヨセフスに《ユダヤ戦記》があり これは いわゆる客観的な歴史書として 評価されています。 はい、古代のユダヤの歴史を知る貴重な資料ですね。 私はユダヤ戦記は読んだことがありませんが、ある小説では、ヨセフスは会ったことも見たことも無いと書いてありました。 彼が旅行中、「3人が磔刑に処されている風景が遠めに見えた。とはかかれているが、それがイエスらだとは言っていない。」と。 ピラートスはローマに反逆する疑いのあるものは、ただちに通報するよう命令していた。 ピラートスは、裁判なしに即処刑する男として名をとどろかせていた。 聖書にはピラートスは正しい人であったが、と書かれているが、サンヘドリンの要求に屈し、鞭打ちそれで開放させようとしたが、人々はイエスに死を望んだ。 ピラートスは正しい人であったので、恩赦制度を利用して、イエス・バラバとこのイエスのどっちに死を望むのかと問うたところ、人々はイエスの死を望んだ。 まるでギリシャ悲劇の一幕のようですが、、、、 即処刑する男として名をとどろかせていたピラートスが、殺人犯を拘留していた? 殺人犯とイエスのどっちを救うかと人々に意見を求めた? おかしいですね。 そのような人物などではないはずなのに。 なにより、ヨセフスがイエスに会ったことがある? イエスの実在を記録に残している? 今までの小説にはそんなこと出てこなかったぞ。 初耳だ。 というわけで、調べてみました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%82%B9 【『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言」と呼ばれるイエス・キリストに関する記述があることで有名であったが、現代では後代の加筆・挿入と考えられている。】 というわけで、西洋ではどの小説家も加筆だという認識だったので、小説にもヨセフスは実在を記録していると書いていなかったので、私もユダヤ戦記に書いてあると知らなかったわけです。 >もっとも 実在の人物でなくとも 歴史上の人物であるとした上で その人が神であるというとき その言説に対して 人は・あるいは社会は どう判断しておくべきかを尋ねています。  それは現代の人がですか? それとも当時の人がどう判断していたか ですか? 当時の人の考えから言いますと、ローマ皇帝は神の子という概念がありました。 ユピテルってご存知ですよね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%94%E3%83%86%E3%83%AB ローマはエルサレムの神殿にこのユピテル像を置こうとした。 ローマ皇帝は神の子とされ、ユピテルの子とされていたんです。  そのうち、ゾロアスターだったかマニ教だったかと習合することになって、太陽の子という概念に皇帝はなっていった。 だから衰えることのない太陽の帝国ローマ帝国となっていった。 ローマ帝国の概念にそういうのがあったんです。 で、<現代の人は社会はどう判断しておくか>ですが、、、 例えば、コンスタンティヌスのイエスの啓示により勝った つまりコンスタンティヌスはイエスによって選ばれた、というものは、後世の加筆。 と判断するのが妥当じゃないかと。 コンスタンティヌスは確かに実在の人物ですが、どうしてそのような話が作られたのかを考えると、、 XPの文字、これ、マニ教だったかゾロアスター教だったか他の宗教だったか覚えていませんが、とにかくそのシンボル。 キリスト教のシンボルじゃなく、コンスタンティヌスはそれによって、兵士を奮い立たせ、数では圧倒的に不利な戦に勝ったわけです。 という風に、一つ一つを検証していくのが、現代人が判断する上で最低限必要なことなのではないかと。 じゃなきゃ 盲信するしか、「そんなわきゃない 理由はないが自分はそう思わないからそうじゃないとする。」と言うしかないです。 どうしてそう思うのかを出してもらい、その反証を別のものが出す。 こうやって哲学は成り立っているわけです。 既に決定されたことを、本当にそうなのか吟味し、修正していくのが、現代の哲学ですから。 それには神話も吟味の対象になりうる。 全くなんの根拠もなく神話はできるわけない。 何かあったはずです。 例えば、ペトロに鍵を渡したという記述。 これも理由があった。 勢力争いで、自分達の集団こそがイエスの教えを受け継いでいると、他のキリスト教の集団を退けるために聖書に加筆された。など。 このように吟味していくと、明らかにされてきて、もやに包まれた姿なきものが、実は姿をもっていたとわかってきますよね。 幻を取り除いていけば、実体なきものとしたものの実体が見えてくる。 これが現代人の判断に必要なものじゃないのでしょうか。 どう判断するかは、徹底的に幻を取り除く作業が必要。 取り除ききったと思っても、実はまだ実体を見ていなかったりするわけで、こうやって書けば「否」って反論がきて、それを本当にそうなのかさらに吟味して、精度を高めていくわけです。 ただ、ここ議論しちゃいけないので、うまーく議論じゃないようにして、進行していかないといけないという。 ということで、あなたの質問に、私が知っている情報を返答として返すということを今回やってみました。 まどろっこしいが、そのやり方しか思いつかない。

noname#80116
質問者

お礼

http://www.members.aol.com/fljosephus/testimonium.htm 最初に出て来たウェブ記事ですが これによると クリスチア二スムの用語や表現(《メシア》など)は 後世の加筆であろう と同時に もともとヨセフスの原書にも イエスのことが 歴史として 触れられていたのではないかという そのような見解が紹介されています。 『ユダヤ古代誌』18巻63のほうは 知りませんでした。上の議論は 《ユダヤ戦記》のほうについて なされています。わたしは その中のイエスの部分を読んだだけでした。見解を異にするのですが 資料の判定については信頼していた田川健三に拠って イエスの実在性を前提にしていました。 けっきょく ここでの問題は 実在性を超えて しかし歴史的人物だと想定して その人間が 現人神だと述べられたとき その言説をどう扱うかです。 歴史的人物ではないということを証明していくという対処の仕方を提案されていると理解しました。 気長に しかし 慎重に堅実にというところですね。 趣旨と異なりますが ピラトうんぬんのところは わたしの考えでは 脚色があるという説明で済ませます。 一つ前の欄に書いたのですが たとえば子どもたちに どう教えればよいか 問題になりませんか。とりあえず思い浮かぶのは 現人神にかんして そのとおりに教え と同時に 信仰の領域と社会行為のそれとで 分けて扱うというようなことですが。信仰を明らかにして人に伝えるという表現行為までは自由だが 相手の自由も尊重し しかも共同自治の領域では 信仰から自由にならなければいけないというふうに。

noname#80116
質問者

補足

訂正としての補足です。 《ユダヤ古代誌》と《ユダヤ戦記》とを 間違えています。勘違いでした。 質問は あらためてこうです。 ピラトのもとに 磔の刑で死んだというイエスなる人が そのいわばイエス教徒たちを散らそうとしていたサウロという人に 死後に現われ なぜ迫害するのかと問いかけた。のち このパウロと改名した人が イエスはキリストであり子なる神であると説かれるまでの内容をもった文章を遺した。 このようにして 歴史的人物だとされるイエスについて 尋ねています。文献と史実の検証のほかにありましたら お聞かせください。 人間宣言を ローマ教会なりに迫るというのも どうなのでしょうか。信仰の領域だと言われれば おしまいです。社会との接点は どこにあるのでしょう。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.9

7番です。 やはり解釈を誤解されているようです。 >神である言葉がキリストと呼ばれており 肉はイエスという名の人間です。 上記のように解釈したのが、単性派の考え方です。 当然質問者のように解釈する人は、後々単性派を形成しました。 しかし、そうは解釈しなかった人もいるわけです。 肉体を持ったのは、神のごく一部であり、一部の言葉と肉体が合わさって1つになったものがキリストであるとした人々が、多数派を形成しキリスト教において、三位一体派を形成してゆきます。 つまり、三位一体派においては、キリストは神の一部と人間の肉体が混じった存在であると考えるわけです。 つまり、神そのものではないと。 >この日本風に言ったところの《現人神》の思想を 直接には批判せず たとえば 政教一致を完全に排除するといった形と領域で 対処するということなのか そこのところを伺っています。哲学は 積極的には何も言えないのか 教えて欲しいところです。 現在のキリスト教世界において、単性派は異端とされてはおらず、キリスト教の一教派として認められています。 そのため、キリストは神であるとしても、全く問題無いわけです。 また、キリスト教において、異端とされるモルモン教、統一原理、エホバの証人、クリスチャンサイエンスなども、社会的には、信仰の自由が保障されているため、信ずる事は自由です。 しかし、それは哲学や宗教の問題ではなく、社会学や政治の面での話しです。 政治的なものを、どのようにして哲学的に説明できるのでしょうか?

noname#80116
質問者

補足

父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。 父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しい。 父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。 子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。 第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。 この父と子と聖霊の三位格(ペルソナ)の一体性は 光にたとえられる。光の 光源(父)と発耀(子)とその明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられると。三位一体とは 各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に等しい存在であると。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も そして聖霊も それぞれ本質として 聖であり霊であり愛であるということ。 人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。 神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この記憶は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその内容を知解する。つまり 記憶がこの知解を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この意志は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。この人間の 記憶と知解と意志の一体性は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。 人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志なる三一性は 他者のこれらの三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。 人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)として 一つの本質(存在) 一つの生命である。 ――この中で 子なる神が 人間イエスとなる つまりまたは イエスなる人間は〔メシアないしキリストとも呼ばれるようになった〕神であるというのは 哲学や社会常識にとっては 考えうるところから かけ離れています。いわゆる論証・実証し得ないドグマです。これの扱いは どうなるのか 知りたいと思っています。たとえば教科書などは どう扱っているかと思います。(自分で調べなくて いま 発言してしまいましたが)。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

仏教では国を治める現人神を転輪聖王といいますがこのようなお方が存在すれば国を治めるのは政教一致が一番いいのでしょう。しかし、そのようなお方はまれにしか姿をあらわしません、そこで孔子は秩序を維持するために序列の大切さを解きました。現代では教育も行き届いているので民主的な合議制あるいは多数決という手法をつかって秩序を守り国を治めています。これは最高の方法ではないがベターな方法であるということですね。しかし、理論的には現人神、転輪聖王、は存在しうると考えられますので政教一致を否定する必要はないように思います。 釈尊は転輪聖王としての《現人神》ではなく仏陀としての《現人神》を選ばれ、ナザレのイエスも救世主として神の権限と権能をもって現れたおかたですから《現人神》といえますね。 神道で《現人神》といわれたお方は天御中主の神でしょうか。神道の司祭の長すべてを《現人神》と称することは政治的な意味で理解はできますが実際はどうかですね。内村鑑三先生はイエス様以外はがんとして認めなかったわけですが。 つまり、本当に神あるいは神近くの霊が宿った人間を《現人神》と称することには常識的に抵抗はないように思えるといいたいだけです。  論点をはずしているかもしれませんが。

noname#80116
質問者

お礼

こんにちは。回答をありがとうございます。 現人神を誤解しています。個人の信仰にとってのそれではなく 社会常識としてのそれが問題であって その場合には 取り違えが起こっています。 現人神がいるとなれば それに仕える人びとが その権威を着て ほかの人びとに対して 何をするか分からないという問題があります。 また 或る人にとっての現人神は 他の人にとっての現人神であるとは限りません。 ですから 社会が全体として 一人の人間をそれに当てると どうなるかです。もし秩序が保たれたとすれば それは 諦めと死んだ振りによってだと思われますが いかがでしょう。 おっしゃっているのは 理想として頭と心の中にある物語のようなものではないでしょうか。 神の霊が宿るというのは ふつうに人間がその霊をいわば分有するということを言っているのではなく 神そのものが全体として人間であるという事態ですよ。つまり 神というのは その存在を 否定もできませんが 肯定も出来ず まったく分からないものなのですから 言うだけなら 誰でも自称できるし 誰かを神としてまつりあげることも簡単にできてしまいます。といったことなのですが。 議論するというのも 合っていないようですが ほかの方の見解も聞いてみたいと思います。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.7

3番です。 質問者の方は、キリスト教における三位一体を理解されていないようですので、その事を学ぶ事をお勧めします。 この三位一体説は、現在のキリスト教の根本的原則論で、これを理解していませんと、キリスト教が全く理解できません。 (キリスト教において、三位一体を否定する教派の人もおりますが、全キリスト教徒の5%程度でしかありません。) キリスト教においては、「神 = キリスト」ではありません。 神とキリストとは、別であるという事を理解してください。 トリエントの公会議において、「神には崇拝を、三位一体(キリスト)には礼拝を、聖人には崇敬を、聖母マリアには超崇敬を行う」と規定しています。 つまり、キリストは、神の子ではあるが、神そのものではありません。 神と聖母マリアのハーフとして認識されているのです。 よって、質問者のお礼で引用されている部分に関しましても、なんら矛盾も問題点も見当たりません。 (どこにもキリストが神だとは書いてない) >ちなみに 三位一体説で《決着のついた》とおっしゃるのは どんな内容でしょうか。 451年のカルケドンの公会議で決着がついています。 >人が神であるというのは 科学を超えており しかも 社会にとっての問題でもあるでしょう。ひととおり常識を形作っておくのがよいのでは? 現在の科学では、神の存在も否定もされていません。 何を根拠に、「科学を超えており」といえるのでしょうか? 宗教の世界に、科学を持ち込む事は、誤りであると思っております。 >死ねば神となるという通念が 影響しているでしょうか。 キリスト教において、上記のような概念は存在しません。 >死んだあと 弟子たちが イエスについて神であると言っても  弟子たちが、イエスが神だと述べた事はありません。 (単性派を除く) >父と子と聖霊とのうち 子なる神が 肉(要するに 人間)となって この世に来たということではないでしょうか これも勘違いです。 父なる神と子なるキリストは別人です。 ですから、神へは崇拝、キリストには礼拝を行うのです。 キリスト教に関して、もう少し学習してください。 でないと、またおかしな質問や発言を繰り返す事になります。 >そうではなくこれを 哲学は・もしくは市民の常識は どう扱うかについて 伺っています。 現人神に関しては、政教一致の神聖政治の社会体制において、表れる事があります。 代表的なのが、日本の国家神道であり、インカ帝国です。 これは、皇帝・王権の確立のために言われた考え方で、似た考え方に「王権神授説」があります。 これらの考え方は、民主主義社会においては、否定されています。

noname#80116
質問者

補足

ヨハネによる福音の第一章をよく読んでください。 《言葉は神であった》その《言葉が肉となって 世に来た》のです。この肉つまり人が キリスト・イエスです。神である言葉がキリストと呼ばれており 肉はイエスという名の人間です。 ウィキペディアでは  《カルケドン公会議において・・・両性説といわれる説を採用した。それはキリストの人性は神性に吸収されてしまったのではなく、その二つの本性を、混合することも分かれることもなく、唯一の位格の中に有するという思想である》 と解説しています。 或るプロテスタントのウェブサイトでは同じくカルケドン信条について 「われらの主イエス・キリストは、唯一同じなる御子であって、神性においても完全であり、また人性においても完全である。まことの神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成るまことの人間である。神性においては父と同質であり、人性においてはわれらと同質にして、罪を除くすべてにおいてわれらと等しい」。 と解説しています。むろん いづれも 三位一体の内容として 子なる神(《言葉》)のことを明らかにしたものです。 この日本風に言ったところの《現人神》の思想を 直接には批判せず たとえば 政教一致を完全に排除するといった形と領域で 対処するということなのか そこのところを伺っています。哲学は 積極的には何も言えないのか 教えて欲しいところです。 信教・良心の自由のほかにも 表現の自由があって この〔ニュアンスがよくないかもしれませんが〕現人神の思想を 表明することも 自由だと思います。それと同じように この表明された言説について 自由に批評・批判するのも 自由だと考えられます。基本的な哲学としての見解を 明らかにすることも大事だと思いました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

日本の天皇も現人神でしたよね。 この前まで、日本国民にそう信じられていました。 マッカーサーは昭和天皇に会ったわけですが、昭和天皇と会見する前までは、信じていなかったらしく、リサックスしたスタイルで写真を撮ったようです。 しかし、アメリカに戻った後言ったか書いた本の中では、「私は神に会った」だったそうです。 リラックスした撮影の後、昭和天皇とどのような会話をしたのでしょうね。 昭和天皇が人間宣言された後のマッカーサーの言葉ですから、なおさら意味深です。 人間宣言されるまで、国民は天皇は神だと信じていたわけです。 神だと信じるまではないまでも、雲の上の存在で、人々からすると、とても遠い存在で、まるで太陽や月や星のような存在だったと思います。 昭和天皇は、「自分は殺されてもいいから、国民には手を出さないでくれ」と言ったそうです。 「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・・。」 戦争が起こった原因は軍の暴走だそうですが、天皇はその暴走を止めることができなかったそうです。 天皇たるものでも軍の勢いを止めることができなかった。 人間の暴走をどうにもできなかった。 止められなかった原因は自分にあるとして、殺されてもかわまわいが、国民には責任は無い と一人で罪を背負って崩御しようとしたわけです。 何百年かあとに、昭和天皇は神の子だった、となるのでしょうか。 私の中では昭和天皇は神だったと思います。 戦争責任をアジア諸国から凶弾され、たまごを投げつけられ、やじられながらも訪問する。 自殺せずに全てを引き受けるために行き続けた方です。 今まで責任者が責任をとって自害するというのが潔い氏で美しいとされてきた日本において、自害せず、全てを引き受けようと生き続けた。 あの当時の価値観からすると、普通の人は耐えられないほどのものだったと思いますが、昭和天皇は耐え抜きました。 あっさり死ぬより、生きて国民と一緒に耐える。 すばらしい考えです。 イエスも現人神とされています。 私は実在の人物なのか架空のギリシャ哲学、ローマ神話と混同された架空の物語なのか、はたまた、ゼロテ党のリーダーの一人で実際の人物を下地にして脚色されたのか、調べきっていません。 もっと詳しい学者がいるので、私ごときが調べられる程度は、もうとっくに学者で調べが済んでいると思います。 ソロモンもそうですが、イエスに関しても、ローマの歴史資料にはその名が記されていない。 ピラートスは記録があるのに、これほど有名になった人物の記録がローマにもどこの歴史の資料にも無い。 ソロモンもあれほどの栄華を誇ったにもかかわらず、その周辺地域の歴史の資料にそれらしき人物として記録が残っていない。 不思議なことです。 日本の昭和天皇は、実在の人物です。 昭和天皇は現人神だという信仰があって、実在の人物だったのか と外国の人に言われたら、「はい 実在したこの世に現れた神でした」と私は答えるでしょう。 イエスは答えられません。 それは2千年の開きがあるから、だけではない。 実在を示すちゃんとした証拠が無いからです。 福音書は4つですが、それぞれ内容に違いがあります。 3つは似ていますが、他のを参考に他の地域で書き直されたもので、その地域地域によって概念が違っていたので、それがそれぞれの福音書に反映してしまっていると思えます。 ヨハネの福音書。 これはヘレニズムの文化の濃い地域で書かれた可能性が高い。 何故なら、その概念があるからです。 ユダヤ教に無い概念が混入しているからです。 一つ私が知っているのは、イエスは70歳以上生きたという記録が、教会の歴史の資料に残っていた ということです。 現在その資料があるのか、あるとしたらどこにあるのか知りません。 また、使徒ヨハネの弟子も70歳を超えた生きたイエスにどこそこで会ったと証言していたらしいです。 ですが、聖書が編纂される前に膨大な2千を超えるイエスに関する書物があったにもかかわらず、熟年期・老年期のイエスの活躍を示す資料がどこにもない。 といっても、教会が焚書扱いにした書物が多数あり、トマスの福音書やマリアの福音書、ユダの福音書など、教会が焚書したはずの書物が出てきており、存在しているが発見されないだけかもしれませんが。 それとも、教会が都合が悪いから、磔刑後も活躍したイエスの資料を全部消滅させたのかもしれませんが。 イエスの教えとはなんだったのか。 実は誰も知らない。 人々は何をもって聖書の言葉がイエスが語った言葉だと信じているのか。 聖書を編纂する時、どの順序で並べるか決めたらしいです。 全く別なエピソードの一文を、別な章に混入させてしまうケースも人間ですからあったでしょう。 するとその章が全く別な意味に変わってしまう。 山上の教訓にも、三人称から突然二人称に変わっている部分があるそうで、恐らく山上の教訓ではない箇所を、そこに入れてしまったため、そういう話になってしまったのだと言われています。 イエスは一体どんな人物だったのか。 昭和天皇のような存在なら、現人神だったと言えるでしょう。 しかし、実際のイエス像がわからない以上、実在した現人神だったとは断定できない。 何故ならどういう人だったのか、誰も知らないからです。 実際はどういう人だったのかわからないのであれば、判断のしようがない。 実際が無いからです。 では実際が無いのに、神だった と言うのは問題か? 法律上は違法ではないです。 ただし、実際は違うのにそうだといって金品を騙し取った場合は、詐欺として告発されます。 ここが難しいところで、被害者が存在しないと、裁くことはできない。 自分は神だという人を信じて何千万と寄付をした人が、後に疑いを持ち、裁判を起こして寄付の返済を迫るというのは、日本でよくあるケースです。 実在する人物を相手に裁判を起こすわけですから、宗教の自由を認めている日本においても、それが巧みに寄付を誘導された結果であると認められたら、返還するように命令を下せます。 所詮、その自分は神だという人も、日本の法律の下に生かされているのだから。 「我は神なり 日本の法律は及ばない」と言ったところで、財産差押えなどの処分が下され、抵抗しても駄目です。 「どろぼー 勝手にもっていくな」と言うと、「どろぼーはどっちだ」となりますし。 というわけで、今回法律に関して、イエスが神であることが、法律に抵触するかというと、しません。 ですが、寄付しないと天国に行けないと言ったり、セックスをしないと罪が消えないと言ったりなどして、逃げがたいように、判断力を失わせるような誘導をして、目的を達成した場合は、日本の法律に触れますので、そういうことは言ってはならない と法律で制限を課します。 一番問題なのは、信者が疑う権利を奪うことだと思います。 疑いをもったら地獄に落ちるかのような印象がある。 疑うことに問題は無い。 疑わず盲信しようとしてできないが、疑えないで苦しむことに苦悩がある。 疑惑を徹底的に排除しないと、納得に至れない問題なら、徹底的に疑い疑惑を消去できるものは消去して、疑惑をなるだけ少なくし、確信を持つに至るようにするべきだと思います。 哲学は疑うことからスタートしますし、ねむりこくっている怠け者にこそ、針でつついて眠りから覚まして現実に帰っていただくわけです。 現在の哲学は、既存に決定されたことが、本当にそうなのかと吟味し、修正することで成り立っている。 キリスト教はギリシャ哲学で成り立っていますが、その哲学が一番の強敵なんですね。 しかしギリシャ語は抽象概念に満ちているので、どれだけでも問うことが可能だそうです。 従って終わりは無い。 というわけで、エンドレスになりそうな気が・・・・。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 イエスと同時代のユダヤ人であるフラウィウス・ヨセフスに《ユダヤ戦記》があり これは いわゆる客観的な歴史書として 評価されています。イエスは 実在の人物だとされています。 もっとも 実在の人物でなくとも 歴史上の人物であるとした上で その人が神であるというとき その言説に対して 人は・あるいは社会は どう判断しておくべきかを尋ねています。  昭和天皇が 現人神であるというのは 個人の信仰ですから それは問題にしません。そうではなくこれを 哲学は・もしくは市民の常識は どう扱うかについて 伺っています。 歴史上の人物だということが あくまでも死後であるという条件のもとに捉えられると もう問題にならないというようなことでしょうか。みなさんの回答を読むと そういう要素もあるように伺えます。

  • mr-birn
  • ベストアンサー率18% (15/80)
回答No.5

私も、質問の意味が良く分かりませんが、全体を理解しての意見として。  >《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。  解釈:『人間イエスは神なるキリストと同じ』は正しいのか? との質問と思いました。この考え方は、ご存知だと思いますがキリスト教の教義です。一般的に理解することは難しいと思います。例えば、福音書と呼ばれる箇所(マタイ、マルコ、ルカなど)では、イエス・キリストの受胎(妊娠)を乙女(処女)マリアが聖霊により身ごもったとされています。普通の人間は、一般に性交なしで妊娠しません。ですから、イエスは人間と同じように女性から誕生したけれども、神の子と呼ばれます。最近、両性(男女?)と呼ばれるような分類をする事もあるようですが。  イエス・キリストは 神であり人間でもあるといった理解です。  先日、自称キリストと言う方が居られました。自称は、他者の意向はあまり関係ないという理解になります。2000年という歴史は、個人の人生から見るとかなり大きいと思いますよ。仏教で、お釈迦様が悟りになられた。それを弟子達に伝授する。布教する。そこに、多くの人が共通に理解できる思想や哲学が必要であったと思います。また、理解をするには、弟子、修行などのステップが必要だったと思います。算数、数学、微積分、応用などのステップや更なる専門の学びがあるように、算数からいきなり微積分は無理かと思いますが?  結論:許すとか許さぬと違い。月の表を見て話すか、裏を見て話しているか、両方旨く説明せずに話しているか。その方の視点とか、考え方で違うと思います。それでも、不思議と、子供も大人も納得できるベースがあると思います。だから、完全な否定は出来ない。それも、経験主義になり得るのでは?  

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございました。

noname#80116
質問者

補足

死ねば神となるという通念が 影響しているでしょうか。 死んだあと 弟子たちが イエスについて神であると言っても 抵抗感はなくなっているということでしょうか。 処女懐胎については それほど問題にせずともよいでしょう。すでに あるいは ただちに 明確になったということでなくとも 科学の視点で捉えていけばよいでしょうから。 人が神であるというのは 科学を超えており しかも 社会にとっての問題でもあるでしょう。ひととおり常識を形作っておくのがよいのでは?

  • tryouts
  • ベストアンサー率31% (126/404)
回答No.4

4世紀に決着のついた三位一体説で問題あるのでしょうか? カソリック、プロテスタント、東方教会のいずれにおいても、言葉の表しかたの違いは別として、同じ考えで統一されています。 キリスト教の教義であるともいえます。 (エホバやモルモン教などの新興宗教は別としてますね。) 父と子と精霊は、実態としては同一です。 創り救い導くの3つの役割(位格)の実態は1つであるとするのが、三位一体です。 哲学や信者の市民の常識ではなく、科学的見地から考えた場合には矛盾点があるかもしれませんが、宗教の教義を科学的に分析しても結果は出ないのであまり意味がありませんね(^^;

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 ANo.2のかたと同じように 《放っておく》になるでしょうか。 ちなみに 三位一体説で《決着のついた》とおっしゃるのは どんな内容でしょうか。 父と子と聖霊とのうち 子なる神が 肉(要するに 人間)となって この世に来たということではないでしょうか。(ヨハネ冒頭=つまり ANo.1へのわたしの応答を参照してくださいますか)。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.3

質問の意味が理解できません。 >要するに《》と言っています。 こんな事は、どこで言われているのでしょうか? キリストが、何者であるかは、古来キリスト教世界で議論になってきました。 基本的には、「キリストは人間であり神ではない」というネストリウス派、「キリストは神の一部であり人間ではない」とする単性派、「キリストは、神と人間の中間的存在であり聖霊の役割をもった存在である」とするカルケドン派(三位一体派)があります。 しかし、歴史的に「現人神なり」と言っている教派は聞いたことがありません。 三位一体を説く教派(キリスト教のほとんどの教派)においても、キリストは神とは別であるとの認識でいます。 よって質問の、 >哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。 は、世間一般では、全く問題にならない事になります。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 《現人神》という表現を出したのは 適切ではなかったでしょうか。 ANo.1のお礼欄にも書きましたが たとえば同じく《ヨハネによる福音》では 例の《サマリアの女との会話》でイエスは こう述べたとあります。 《かのじょは言った。 ――わたしは キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。そのかたが来られるとき わたしたちにいっさいのことを知らせてくださいます。 するとイエスは ――あなたと話をしているこのわたしが そのメシアだ。 と言った。》(ヨハネ4:25-26) メシアは もともとは 人間を称して言ったのだと思いますが ここでは キリストとして 神のことではないでしょうか。

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.2

とりあえず、ほうっておきます。 ・直接会ったことがないので真実がわからない。 ・誰も直接会えないので見解を明らかにしないでも大きな問題に直面しない。 ・人に押しつけない限り大きな問題にならない。 もっとも、哲学の種類によっては見解を明らかにしていると思います。

noname#80116
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 いわゆる宣教の時代は 終わったと思われます。むしろ そのゆえでしょうか。秀吉なり徳川幕府は それとして対処したわけですが。今となっては 大勢に影響はないということでしょうか。 見解を明らかにしている哲学があるわけですね。

関連するQ&A