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どなたかご紹介願います。
胸にぐっと来たことば、何か答えが見えたような気がしたことば、ずっと探していたことば、言い回しが洒落ていることば、何気ないことだけど深く肯けずにはいられないことば......などなど、最近あなたが耳にした、あるいは目にしたことば(句、文章、詩、歌等)で、ずっと心に留めておきたいと思うのは何ですか?また、ずっとこのことばを大事にして今までの人生を歩んできた、というものでもかまいません。 よろしくお願いいたします。
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- kesisu
- ベストアンサー率33% (24/72)
#7のkesisuです。なんとなく好きな言葉がありましたのでまたお邪魔しました。 悪魔のように繊細に 天使のように大胆に いつもあまり深く考えず、走っては滑り、また走っては転んでいる私なので 繊細さと大胆さを兼ね備えた人って、ちょっと怖いけど憧れてしまいます。 「悪魔」と「天使」という言葉で表現しているところがまた私好みです。
- utahime35
- ベストアンサー率0% (0/5)
歌詞です。 「スライディングして、すりむけた膝、痛くたってね。 すぐ立ち上がらなきゃ、チャンスは逃げて行く。わかってるさ。」 社内スローガン的な言葉です。 「ノルマじゃないんだ。力量なんだ。」
#4の回答者です。お礼を拝見しました。 本はまだ読み終わっていませんが、読み終わったとしても完全に理解できるかどうかは難しいところです。 私の説明より、実際に読まれることをお奨めします。 哲学の本にしては、読みやすい本です。 法哲学講義・作品社・長谷川宏 訳・ヘーゲル 242頁
お礼
再度受け応えて下さってありがとうございました! fishbowl66さんにはお手数をおかけしてしまいましたね。すみません。 ご紹介いただいた本を探してみるつもりです。哲学の本というのは確かに理解に困難を覚えますが、「哲学の本にしては、読みやすい本」というお言葉を励みに読んでみようと思います。 何度も申し訳ありませんでした。嬉しかったです。
こんばんはcomuneさん よろしくお願いします。 カミニ ミハナサレタモノハ ミズカラノ テデ ウンヲ ツカメ・・・ ヨミビトシラズ。 お腹がいたい!
- chihoko
- ベストアンサー率13% (14/106)
●ある看板屋さんの忘年会に招かれたときのことです。 主任さんが乾杯の音頭の指名を受けたんです。 でも その主任さんは めちゃ上がってしまってて しどろもどろ 最期に 「皆 さんの 今後の ご多幸 と ご健康を お祈りして カイパーン!」 だれも笑わないで乾杯したんです。 みなさんいいひとだなあぁって 感激しちゃって・・・わたし。 胸にグッときたことば・・・海パンです。
- jume
- ベストアンサー率46% (71/152)
連続投稿になります(申し訳ありません)。先の投稿を読み直していたら、次々と気になることばが浮かんできてしまったものですから…。 哲学者のことばで、引っ掛かっているのは先ず京都学派の西田幾多郎のことばです。 今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていたものが、 忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、いかなる訳であろうか。 もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほど詰まらぬ ものはない。ここには深き意味がなくてはならぬ。 (田中祐『近代日本の思想―西田幾多郎 その人と哲学』 http://pweb.sophia.ac.jp/~yutaka-t/lecture/nishida.htm) 疑問形で終わる文章に付すのは、"?"より"!"の方が適切じゃないか、と思わせるくらい鬼気迫る文章だと思います。このとき西田も、愛する人の死に直面していたのでした。ぼくにとっては、人間が生きるとはどういうことか、他ならぬ「わたくし」が生きるとはどういうことか、それを直裁につむいだことばとの出会いでした。また、同様のことを現代フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスはこのように語っています。 それはおそらく、<疼き>によって、つまり、ことばというかたちを あたえることすらできないものを手さぐりすることによってはじまる ものなのでしょう。(熊野純彦『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』 岩波書店) レヴィナスのいう<疼き>は、西田の「今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていたものが、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、いかなる訳であろうか」という"!"の問いに見事に重なります。というのも、このレヴィナスという哲学者もナチスによってじぶんの家族を殺され、なぜじぶんが生き残ったかと過酷なまでに問いつづけた人でした。 「じぶん」とは何であるか、他ならぬ「じぶん」が生きているとはいかなることか、という問題は、ぼくの基本問題として、ずいぶん昔からあったものです。これらの先哲のことばは、それにひとつのかたち、道しるべを与えてくれたという意味で、大切なことばです。そして、ぼくにとって外せないのが古代ローマの皇帝であり、ストア派の哲学者であったマルクス・アウレーリウスのことばです。彼もおそらく西田やレヴィナスと同じ問いを持った人でした。 哲学するには、君の現在あるがままの生活状態ほど適しているものは ほかにないのだ。 …ということばは、生活の文脈に埋め込まれた「わたくし」としてのじぶんこそが、他者や死やいろいろのことについて哲学するのだといっているように、ぼくには思えます。マルクスは、哲学者であるとともにローマ皇帝でもありました。彼の時代は必ずしも平和ではなく、辺境の民族との戦が絶えなかったといいます。彼の『自省録』のなかには、戦地で書いたものもあるそうです。 間もなく君は死んでしまう。 強さは弱さに居直ることではない。 死を軽蔑するな。 これらは岩波文庫で神谷美恵子訳として読めるものです。ひとつひとつは短いけれど、恐ろしく鋭利なことばだと思います。 まことの信念に身を咬まれている者にとっては、ごく短い、陳腐な 言葉でさえも、悲しみなく怖れなくあるべきことを思わせるのに充分 である。――マルクス・アウレーリウス『自省録』
- jume
- ベストアンサー率46% (71/152)
宮沢賢治は、ぼくにはそのほとんどが意味不明なのですが、『春と修羅』の序詩は大好きです。comuneさんの分類に従えば、「ずっと探していたことば」ですかねぇ…。 わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (ひかりはたもち その電燈は失はれ) このあとまだ続きます。でも、ぼくの理解はここまでが限界です。最後の「(ひかりはたもち…」の一行も怪しいもんですけどね。それにしても賢治自身も「心象」の「スケッチ」だと言ってるものを、他人が「理解」するなんて、ずいぶん無茶な話なんだろうとは思うんですが、でもこの詩は、ぼくが「生きる」ということに疑問符を付したときに、まるで電燈の明かりのようにふっと眼前に灯ったものでした。「わたくし」であるぼくが「生きる」って、こんな感じかなぁ、という程度の曖昧な「理解」です。「理解」なんていえるもんじゃないのかも知れませんね。でも、そのくらいのゆるい幅のある「理解」のほうが、より多くの不純物を含むがゆえに、豊かな「理解」であるかも知れません(言いわけです)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 jumeさんの言いわけ(?笑)が、私には結構好きな表現として心に残りました。つまり、 >>ゆるい幅のある「理解」のほうが、より多くの不純物を含むがゆえに、豊かな「理解」であるかも知れません。 ということば。「理解する」って何でしょうね。 宮沢賢治の『春と修羅』、読んでみたくなりました。jumeさんのご紹介に感謝します。
- kesisu
- ベストアンサー率33% (24/72)
私のテーマ曲(?)の歌詞は ♪生き急げ 生き急げ 滑っても 転んでも 何とかさ♪ 失敗しても泣いても一生懸命走り続けなさいっていうこの歌詞大好きです! 3歩進んで2歩下がるとか、歩みが遅くとも前進しなさいと言うことではなくて 全力疾走を訴えているところが、なんとも私にはしっくり来るようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >>全力疾走を訴えているところが、なんとも私にはしっくり来るようです。 kesisuさんはきっと気持ちのいい人なんでしょうね。わたしはどちらかというと「歩みを止めて、ゆっくりと」のようなことばを自分に聞かせているような気がします。でもkesisuさんみたいな人、私好きですよ。 お礼が遅くなってしまって申し訳ありませんでした。ありがとうございました。
- mahha25
- ベストアンサー率26% (32/120)
胸にきた言葉 「未来はいらない、過去がほしい」 なんかの本の言葉で記憶が徐々になくなっていく病気の人がほとんど 消えてしまった今は亡き彼女との思い出を取り戻したいと医者に 訴えるシーンで言っていた言葉です。 「狙うは当然てっぺんだ」 歌の歌詞です。長距離走などでもう限界だけど諦めたら2位になって しまう時、こころの中で必死にこのフレーズを繰り返しています。 「出逢いてよかった」「また逢う日まで」 これはなんだったか忘れてしまいました(^^;)
お礼
お礼が遅くなってすいません。 「未来はいらない、過去がほしい」。 ・・・「私も」。思わず口に出してしまいました。ただ私の場合、過去に戻りたい、やり直したいという感情が大きいのだと思います。後悔の念がそんな感情を生み出したのでしょうね。未来に希望を持つよりも、過ぎてしまった過去に浸ってあれこれ考える性質の私としては、このことばを見て「お。」と何とも言えない気持ちになりました。 「狙うは当然てっぺんだ」 ・・・「だよね」。思わず口に出してしまいました(二回目)。1位と2位じゃ、全く違うと私は思うんです。って偉そうに語るつもりは全くないんですが、本当にそう思います。銀メダルにおわった選手が「金メダルじゃないと意味がない」という(不満の)発言をしていたのをどこかで聞いたことがありますが、「その気持ちすんごくわかる!」と私は感じました。周りの「銀メダルだってすごいことなのよ」という励ましのことばが耳に入らないような、その気持ち。結局いつだって何だって自分自身との戦いなんですよね。 「出逢えてよかった」「また逢う日まで」 ・・・人生は出会いで決まるといっても過言ではないですもんね。出会いの感謝、いつも心に留めています。 なんだか、mahha25さんの意図する内容とは違ったことを書いてしまった気もしますが、ご紹介いただいたお言葉、どれもありがたかったです。
- mcqgogo
- ベストアンサー率25% (19/75)
「人間万事塞翁が馬」です 主に人生上の出来事の幸不幸に対して用いますが、物事について一喜一憂せずに達観したいときに便利です。また独断や偏見からも一歩ひく事が出来ます。 しかし使いかたを誤ると無感動になり、映画を見ても損をしたような気になります。 人生が一編の映画だとしたら、そのような時には誰に入場料を払い戻してもらえばいいのでしょうか?あ、始めから払っていなかったんだ、気付いたときにはもう遅いのです。
お礼
ありがとうございます。 「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という意味の言葉ですよね。 小さい時にそのお話を聴いたことがあります。小さいながらにその時は「なるほど」なんて感じましたが、すっかり忘れていました。簡単に福は福、禍は禍と区切って考えて生きてきたのだと思います。 しかし人生とは区切りなんてないんですよね。すべては連続で、つながっているんでしょうね。私の好きなスピッツの歌、確か「スピカ」の歌詞にこんなのがありました。「幸せは途切れながらも続くのです」。mcqgogoさんへのお礼を書き込んでいたら、頭に流れ始めました。 お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。ご解答くださって感謝します。
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お礼
お邪魔して頂いて感謝します。 悪魔が繊細、天使が大胆と言うのは私にはよくわからないのですが(すいません)、繊細さと大胆さを兼ね備えた人、私も憧れますね。私はよく大胆なことをするように周囲に見られがちで...って話が飛んでしまうので、というか長くなりそうなので止めておきます。 ご回答ありがとうございました。