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「カティンの森事件」について調べています
ニュルンベルグ裁判においてはナチス将校の証言などから「カティンの森の虐殺はナチスの仕業」と認定されました。しかし事件発覚直後、国際赤十字が調査を行っていますが、この調査結果ではソ連とナチスのどちらの仕業であると結論づけられていたのでしょうか? 又、1990年にゴルバチョフが「ソ連の仕業であった」と認めていますが、認めざるを得なかった理由はやはり国際赤十字の調査結果のためだったのでしょうか? できれば情報源なども併せて示していただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
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まず、事件発覚直後の調査について。。。 1943年4月、ナチスがカティンの森の大量の虐殺死体を発見すると、世界に調査団を派遣するよう呼びかけます。 この呼びかけに対し、ドイツ以外の12カ国から成る国際調査団、ポーランド赤十字の医学調査団、ドイツ法医学調査団の3団体が調査を行っています。 これらの調査により、 (1).死体の死亡埋葬時期が1940年春~夏頃と判明したが、ドイツがこの地域を占領したのが1941年の夏。 (2)死体が所持していたコゼルスク収容所の新聞の日付が1940年4月発行のものが最後だった (3)死体に残された銃剣による刺し傷から銃剣の形は四角であり、当時ソ連軍の使用していた銃剣と一致する (4)死体を縛っていたロープがソ連製であった。。。。 等が判明しました。 これに対しソ連は、1943年9月にこの地を奪回するとすぐさま独自の調査を行っています。 この調査結果では、死亡推定時期は1941年夏から秋にかけてである、としています。 しかし、同行した外国の特派員によるとかなりずさんな調査であったことが分かっています。 ニュルンベルグ裁判では、ソ連はナチスの仕業であるという決定的な証拠を示す事が出来なかったため、ナチスの責任を追及することなく結局うやむやになってしまいました。ナチスの仕業と認定されたわけではありません。 ゴルバチョフが認めた理由 ここからは私の憶測です。。。 当時ソ連は社会主義を捨てて資本主義に移行していた時期です。社会主義を捨てると共に暗い過去(スターリン時代)も清算してしまおう、と考えたからではないでしょうか。 参考文献:「カティンの森の夜と霧」(JKザヴォドニー、読売新聞社、1963年)
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- m-tahara
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大分古い本なので今でもあるかどうかは不明ながら、情報源も含めて、ということですのでこちらをご紹介しておきます。NHK取材班「あのとき世界は‥‥ 磯村尚徳・戦後史の旅<I>」日本放送出版協会です。これによると、調査自体は当初国際赤十字で、と言っていたものの最終的にはドイツ軍主導で行われたようです。但し、当時占領していたベルギー、オランダ、同盟国イタリア、それに中立国スイスのメンバーを加えて。ここでは当然ソ連の犯行と結論づけられているようです。その理由は時期的に1940年3・4月と思われること。まだ当時この地域はドイツに占領されていませんでした。 一方当然ソ連側も反論のため調査を行い、これには西側ジャーナリストも招待して発表が行われました。こちらの結果はこれまた当たり前のように1941年8・9月にドイツが起こした事件、と主張されています。この時期ならナチス・ドイツ支配下にありましたので。ただその時に報道陣から質問があった「夏に事件があったとしたら、何故被害者は厚い下着を着け、毛皮のコートや外套を着ているのか」という質問には明確に答えられないなどどうも論拠は薄弱だったようです。 また、ニュルンベルク裁判についても簡単に記述されており、そこでは西側が立証困難、として起訴されなかった、とあります。 この本は1979年に書かれているので、その後については全く判りません。ごめんなさい。
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非常に参考になりました ご回答ありがとうございます
- kawakawa
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一般にはカチンの森事件として知られていますネ。 これは虐殺されたポーランド将校の所持品から,処刑時期が1940年以降であることが判明したためにソ連軍の仕業であることが確定したものですネ。 1940年には当該地域にドイツ軍は残っておらず,全面的にソ連軍の支配下にありましたから。 1950年代初頭にアメリカによるカチンの森調査団が調査を行い,ソ連が犯人であるという発表をし,その後も1970年代後半にも調査結果からソ連の犯行であることが指摘されてきましたが,当時のソ連政権は国策として否定し続けてきたのですネ。 しかし,ゴルバチョフ政権では情報公開というのも大きな国家指針としていたために,過去の犯罪についても公表に踏み切ったものと思います。 アメリカ公文書館にも多数の調査資料が残されていますので,一度,原本を読んでみてください。 他にもスイスやドイツでも報告が出されていたはずです。 以上kawakawaでした
お礼
ありがとうございます。 非常に参考になりました。
お礼
詳細な情報ありがとうございます 非常に参考になりました