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他人の心とは?
私にとって、世界は常に私の世界として私を中心に現れるもののように思えます。 だとすると、他人の心を理解する、了解する、というのは、どういうことなのでしょうか。 哲学では、このような問いに対して、どのような答があるのでしょうか。
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どうもお礼文ありがとうございます。 >結局、私から独立した真の他人、という地点にはいたらないような カントでは「物自体」といった概念が重要になってきますが(つまりそれは私とは無関係に他者が存在するということを言いたい)、が結局それが認識不可能となればやはりこの世界は意識内の表象として内在化されることになるんですよね。 フッサールの場合にはこの「物自体」といった概念すら消滅してしまうわけですが。 いずれにしろ、今この目の前のものが実像(実の表象)である、と言い切れるだけの証拠を他人に提示することは不可能なようです。
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#7・8です。 《「世界の中心としての私」(=Aとします)ということと、「私から独立した存在としての他人、他人の心」(=Bとします)、という感覚、概念は対立するように思え・・・》と書かれています。 わたくしが述べたことは こうです。《Aの中にBは含まれてしまうが Bは・つまり他人は そこに存在していますので Aも Bに挨拶をしたり あるいは互いに意思表示をおこなったりして 社会のなかで共に生きていく》ということです。 koumori44さんは 《「私から独立した存在としての他人、他人の心」、という感覚、概念》 これが 一般にはあるというように言われているけれども ないのではないかとおっしゃっているのでしょうか。 それに関しては AもBも独立していますので 《社会的に(=関係的に)独立した存在》と言えばよいと思うのですが いかがでしょう。この互いに対等な独立存在ということは 証明しづらい公理だと思いますが。 もしこれに反対の意向を持たれるようでしたら その理論を 逆にお聞きしたいと思うのですが。
お礼
すばやい返答ありがとうございます。
補足
>AもBも独立していますので 《社会的に(=関係的に)独立した存在》と言えばよい・・・ この部分がちょっと何のことか理解できなかったのですが、 どういう事なんでしょうか?
お礼文ありがとうございます。 パースペクティブとは遠近法のことでして、一定の視点からの見透し図なんですね、つまりすべての認識は認識主体の観点に相対的であるという考え方なんです。だから相対主義なんです。相対主義を唯一絶対の真理であると主張すると自己矛盾を来すという意味でお応えさせていただきました。
お礼
再び返答、ありがとうございます。
補足
極端な相対主義は、「すべては相対的であり絶対的な真理などない」、という主張(A)を含みますが、その場合、極端な相対主義自体も絶対的な真理ではなくなるので、「すべては相対的であり絶対的な真理などない、という訳ではない」(Aでない)、ということになってしまい、これはAかつAではない、という事になりますから、確かに自己言及の矛盾ですね。 つまり、背理法で、極端な相対主義は、どこかおかしいということになりそうです。 しかし、このことと、上述の質問との関係が、いまいちわからなかったのですが、どのようなつながりがあるのでしょうか?
- shift-2007
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世界の中には他人は含まれないのでしょうか。 世界が私なら他人も私のはずです。 私のお腹が痛いのと同じように、他人の痛みは私の痛みじゃないでしょうか。 その手の話が下記の本に書いてありましたよ。 14歳からの哲学 池田晶子著
お礼
返答いただき、ありがとうございます。
補足
世界の中心としての私、という考えを徹底すれば、確かに、世界全体が私であり、その中には他人も含まれるように思います。そう考えれば、仰るように、他人も私であり、他人の痛みは私の痛みになりそうです。 しかしながら、日常的な感覚では、私から独立した他人、とか、他人の心を理解する、とかいったことが普通に理解できます。また、他人もまた、私と同じように世界の中心としての存在であるような気がしますし、他人というのは、私があってこその存在ではなく、私とは無関係に私がいなくなってもあり続ける存在であるような気がします。 さらにいえば、shift-2007さんのように、【世界が私なら他人も私】というような、私にしかしえないような主張をする他人が、この私の前に現れるという事がまったく不思議でなりません。ネット上で、shift-2007さんなる人物がこのように主張しているが、それは実は私の一部なのでしょうか。どうも何か変なような気がします。 >世界が私なら他人も私 という方向だと、理屈の上ではすっきりするのですが、こういった日常の感覚をどう理解したらよいのか、よくわからなくなります。
#7です。 《中心》というのは 空間における位置だけを言っているのですね。 いづれにしましても 《私》という自己認識を持ったということは すでにそのときに 他人の存在を前提にしているはづです。その上で 《私にとって、世界は常に私の世界として私を中心に現れるもののように思えます》と わたくしも考えます。 あとの問題は 《他人の心を理解する、了解する》ことについてですが それは――これも おそらくおっしゃることと違っていないと思うのですが―― 《私の世界として現われた世界における他人の心》のことについてとなります。 わたくしが問題にしたのは このとき 《自己中心的な理解・了解》でないかどうかということでした。 けっきょく《自己中心的》であるのとないのとでは どこが違うかと言いますと 相手に尋ねるか・尋ねて議論して同意を得るか否か これにかかっていると思われます。
お礼
再び返答いただき、ありがとうございます。
補足
中心というのは、空間的な位置に加え、未来と過去の中心点としての今の位置を占める私、というような意味や、何かを想像したり考えたりする時の主体としての中心、というようなことも含んだつもりでした。つまりすべての場合において世界は私を中心に現れている、という風なことのつもりでした。 また、 >《私》という自己認識を持ったということは すでにそのときに 他人の存在を前提にしているはず・・・ とのことですが、私には、なぜ他人の存在を前提にしてよいものか、というより、他人とはどういったことを意味するのか、まだよくわかりません。 たしかに私という概念、言葉、意識には、その中にすでに他人ではないものという意味を含んでいるので、確かに他人があってこその私だと思いますが、しかし、ここで質問した内容は、そのように私という言葉や概念を使いつつも、その使い方自体を問い直すというような要素のある質問のつもりでしたので、必ずしも、私という言葉や概念を使っているからといって、私以外のものとしての、他人という概念や存在の正当性を認めることにはならないつもりでした。 上述の質問では確かに仮の表現として『すべての場合において世界は私を中心に現れている』という書き方をしましたが、これはむしろ「いろいろな世界の現れの中心を私という」とか「あるのは世界だけであり、あえていうなら(他人なるものも含めた)世界全体がそのまま私である」とう表現の方がよかったかもしれません。こういうことであれば、 >すでにそのときに 他人の存在を前提している・・ といっていいものか、微妙だと思います。 以上のような意味で「世界の中心としての私」ということと、「私から独立した存在としての他人、他人の心」、という感覚、概念は対立するように思え、この対立をどのように調停したらよいのか、そもそも何を意味しているのか、私にはいまいちわかりません。
世界は常に《私の世界として現われる》と思いますが 《私を中心に現れる》かどうかは はっきりしません。 《私の世界として》というときには 他人についてもその存在を前提しています。ふつうの世界だと言ってよいと思います。 《私を中心に現れる》というときには これも 他人の存在を前提にしていますが 他人は中心でないと すでに 判断しています。 とは言っても この後者つまり《私を中心に現れる》というときにも 人は 他人の心を推し測って どうにかしてその中心的な存在という自分の状態を保とうとすると思います。その推し測りが 妥当かどうかは また 別の問題です。
お礼
お答えいただき、ありがとうございます。
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>《私を中心に現れる》かどうかは はっきりしません。 この世界というのは、私を中心に四方八方に広がっているし、何かを考えるときも、私の想念として私が考えたものが現れるように思えます。つまり、常に、私を中心に現れているように思います。 私には、それ以外の場合(世界が私を中心に現れない場合)というのが、理解不能なのですが、なぜ、《私を中心に現れる》かどうかは はっきりしないとお考えなのですか?
>哲学では、このような問いに対して、どのような答があるのでしょうか。 答になるかわかりませんが。 ニーチェを参考にすると、人間の認識というのは認識する者の必要、特に生の必要に相対的であり、世界は特定の観点からのみ認識しうるのであってこの相対的なパースペクティブ(見透し図)を絶対的な基準で乗り越えることは不可能。 しかし、こうしたパースペクティブが唯一絶対の真理であると主張すれば、それは一種の絶対主義に転化してしまう。 自己が唯一のパースペクティブであると主張するパースペクティブは絶対主義となり自己矛盾してしまう。
お礼
お答えいただき、ありがとうございます。たしか前もお答えいただきましたね。大変ありがたいです。
補足
最後の部分がよくわからなかったのですが、 >自己が唯一のパースペクティブであると主張するパースペクティブは >絶対主義となり自己矛盾してしまう。 絶対主義になるのはわかりますが、どうして自己矛盾するのですか?
- toraneko9
- ベストアンサー率0% (0/1)
他人を理解するとは、その心情や事象を論理的に考察し、具体性を持って想像し、これを自己の中でリアルに具現化した時に、それに対してどれだけ共感できるかということだと思います
お礼
お答えいただき、ありがとうございます。
補足
たとえば目の前の他人が机の角に足をぶつけて顔をしかめている様子をみた時、それを見ている私も、あー痛そうと顔をしかめたくなるような気持ちになる時があります。そういった場合は、なんとなく、他人の【その心情】を【具体性を持って想像し、これを自己の中でリアルに具現化】して【共感】する、というような事をやっている気がします。日常ではよくあることだと思います。 しかし、ひとたびこういったことを分析してみると、他人の気持ち(心)を具体性を持って想像(たとえば他人の足の痛みを想像)するという行いは、実のところ、私がその状況でどのような心理状態になるか、ということを想像しているだけのような気がします。つまり結局は、他人の気持ちを理解する、というのは、ある状況での私の心理状態をリアルに想像する、というだけであり、言い換えると、そこで理解した他人の気持ち、他人の気持ちというのは、私を中心とした、ある状況での私の心理状態の想像、という事になりそうです。 そしてもし、他人の心なるもののすべてが、上述のような「ある状況での私の心理状態の想像」であるならば、結局のところ、他人の心なるものは、私が想像という行為を行ったときのみに現れる現象、といえるように思えます。つまり、他人の心というのは、常に私が想像した時のみに現れる現象であり、私の想像の産物であり、私の想像を離れて他人の心というものは存在しないことになるように思えてきます。 しかしこれは日常の感覚からすると、奇妙に思えます。どこがおかしいのでしょうか。
- pradara
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どうも。哲学の事はよく解りませんが、『私中心の世界』をもっと 広げてみたらどうでしょう。『私』が中心で動く世界。 『私』が動くエネルギー。『私中心』の『私』が発した『エネルギー』に 反応する『他人』。それを感じる『私』。 ってことは、『私』も『他人』の『エネルギー』によって反応している。 反応しないことも『私』の『エネルギー』。 『他人』の心を理解するとは、『私中心の世界』の中で、 『私』がどう反応するかで、理解する・しないという解釈になるのでは ないでしょうか。
お礼
お答えいただき、ありがとうございます。
補足
エネルギーという言葉で何を表しているのか、ちょっとわからなかったです。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
[哲学では、このような問いに対して、どのような答があるのでしょうか。] [聖徳太子十七条憲法 十に曰く 忿い(ふんい=こころのいかり)を絶ち、瞋い(しんい=いかりうらみ)を棄てて、人の違(たが)へるを怒らざれ。 人皆心あり。心各々執(と)ること有り。 彼(あ)れ是(ぜ)なれば、則ち我は非なり。 我れ必ずしも聖(ひじり)に非ず。彼れ必ずしも愚(おろか)に非ず。 共に是れ凡夫(ただひと)のみ。是非(ぜひ)の理(ことはり)を誰かよく定むべき。 相共に賢愚(かしこきおろか)なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきが如し。 是(これ)を以て彼の人は瞋(しん)いと雖も、還(かへ)つて我が失(あやまち)を恐れよ。 我獨(ひと)り得たりと雖(いえど)も、衆(もろもろ)に従ひて同く挙(おこな)へ。] で十分な答えでしょう。
お礼
お答えいただき、ありがとうございます。
補足
聖徳太子ですか。古文が読めないのでちょっと意味がわかりませんでした。
- kobarero
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>私にとって、世界は常に私の世界として私を中心に現れるもののように思えます。 自分だけではなく、”誰にとっても”、その通りだということが重要なのだと思います。誰でも、自分の眼を通してしかこの世界を見ることができないし、自分の心を通してしか、この世界を感じ取ることはできません。そういう人々が集まって互いに情報交換して、この世界の全体像を作っているのだと思います。 >他人の心を理解する、了解する、というのは、どういうことなのでしょうか。 他人の心に限らず、物質現象でも、社会現象でも、いずれの場合も、初めは、何らかのイメージやモデルが心の中に作られ、それが実際に現実と合致しているか、あるいは、勘違いかを事実を確認、体験しながら、修正、推測していくということが「理解、了解」を深める(完了することは永遠にない)ことだと思います。
お礼
お答えいただき、ありがとうございます。
補足
>自分だけではなく、”誰にとっても”、その通りだということが重要・・・ これはつまり「私以外が中心の世界、他人の心、というものがある」という前提の上での話だと思いますが、上の質問はその前提を認めた後の話ではなく、そもそも、そのような前提、命題をどのように捉えたらよいのか、理解したらよいのか、ということが、上の質問の趣旨なのです。説明不足だったようなので、もう少し説明しますと、 確かにごく普通の感覚からいって、誰でも私と同じように心を持ち、それぞれの心に応じて世界を感じ取っている、というような感じがします。 しかし、よくよく考えてみると、世界はどんな場合であれ私中心の私の世界としてしか現れないように思えます。そして、世界はどんな場合であれ私中心の私の世界としか現れない、という事を認めるとすると、私が中心でないような場合はありえないことになるので、「私以外が中心の世界」というようなことを意味する「他人の心」というようなものは ありえない、というか、意味不明の言葉のように思えます。理屈で考えるとこのような結論になりように思えます。 にもかかわらず、日常的に「他人の心」「私以外が中心の世界」などといった言葉は理解できるように思えますし、それをふまえて、「他人の心を理解する、了解する」というようなことも、簡単に理解できるように思います。 この日常的な感覚と、理屈で考えた時の結論との対立を、どのように調停したらよいか、というのが上の質問の趣旨なのです。
お礼
どうも、またまた返答いただき、ありがとうございます。
補足
>いずれにしろ、今この目の前のものが実像(実の表象)である、と言い切れるだけの証拠を他人に提示することは不可能なようです。 確かにそんな気がしてしまいますね。懐疑論者からすると、他人の心というようなあやなものはおろか、間違いなく確かだと感じられる目の前の色々なものの存在までも疑いの対象になってしまうみたいですね。 ただ、そうだとすると、かえって他人の心というものの確かさも、認めてよいような感じもします。哲学的な懐疑論で確かではないといわれていても、どうしたって、目の前に自分の手があるのが確かに感じられますが、それと同じぐらい確かに、他人に私から独立した心があるのも感じるからです。 しかしやはり、そういった日常の感覚と、哲学的な結論の対立は、なんとか調停してみたいと思ってしまいます。 そういったことを探求する方針として、なんとなく、私の世界の中で他者なるものはどう構成されているのか、どういう存在なのか、という風にいくのも重要そうですが、言葉、概念の意味として、私から独立した、とか、超越論的、とか、外的な視点、というよう事が、一体何を意味するのか、そもそも意味がある言葉なのか、といった事を探求していくことによって、到達不可能に思える他人の心なるものが一体何なのか、なにかクリアに見えてくることがあるような、そんな気もします。