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他人の心とは?
私にとって、世界は常に私の世界として私を中心に現れるもののように思えます。 だとすると、他人の心を理解する、了解する、というのは、どういうことなのでしょうか。 哲学では、このような問いに対して、どのような答があるのでしょうか。
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noname#31811
回答No.21
どうもお礼文ありがとうございます。 >結局、私から独立した真の他人、という地点にはいたらないような カントでは「物自体」といった概念が重要になってきますが(つまりそれは私とは無関係に他者が存在するということを言いたい)、が結局それが認識不可能となればやはりこの世界は意識内の表象として内在化されることになるんですよね。 フッサールの場合にはこの「物自体」といった概念すら消滅してしまうわけですが。 いずれにしろ、今この目の前のものが実像(実の表象)である、と言い切れるだけの証拠を他人に提示することは不可能なようです。
お礼
どうも、またまた返答いただき、ありがとうございます。
補足
>いずれにしろ、今この目の前のものが実像(実の表象)である、と言い切れるだけの証拠を他人に提示することは不可能なようです。 確かにそんな気がしてしまいますね。懐疑論者からすると、他人の心というようなあやなものはおろか、間違いなく確かだと感じられる目の前の色々なものの存在までも疑いの対象になってしまうみたいですね。 ただ、そうだとすると、かえって他人の心というものの確かさも、認めてよいような感じもします。哲学的な懐疑論で確かではないといわれていても、どうしたって、目の前に自分の手があるのが確かに感じられますが、それと同じぐらい確かに、他人に私から独立した心があるのも感じるからです。 しかしやはり、そういった日常の感覚と、哲学的な結論の対立は、なんとか調停してみたいと思ってしまいます。 そういったことを探求する方針として、なんとなく、私の世界の中で他者なるものはどう構成されているのか、どういう存在なのか、という風にいくのも重要そうですが、言葉、概念の意味として、私から独立した、とか、超越論的、とか、外的な視点、というよう事が、一体何を意味するのか、そもそも意味がある言葉なのか、といった事を探求していくことによって、到達不可能に思える他人の心なるものが一体何なのか、なにかクリアに見えてくることがあるような、そんな気もします。