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あそびをマジメに哲学すると(エビローグ)
前回は、現実問題に目を向けすぎた為、哲学的考察が不発に終わってしまいました。 今回は、現実に目を背けず、哲学的に、あそびをマジメに考察したいと考えています。 1)あそびとは何でしょうか。私は、「楽しみ・あそびの場・あそびのルール」この三つの要素で成立すると考えています。人間とあそびの関係と共に、皆さんのあそびとは何かを聞かせてください。 2)ホイジンガは、あそびと対立するものとして真面目を挙げていますが、あそびのルールの中には真面目な要素があり、大真面目で行うあそびも有ります、「あそびが真面目になるとあそびで無くなる」この点に関して疑問が残ります、あそびと対立するものは何でしょうか? 3)「すべては、あそびである」と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか? さてさて、あそびの哲学は、不発のまま終わるのでしょうか。
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エピローグを拝見すると,プロローグでの自分は質問の趣旨から外れてトンチンカンな回答をしていたと思いました。今回は軌道を修正して、自由意志により何とかあそびの哲学が不発に終わらぬよう努めます。 さてあそびですが、 1)あそびとは何でしょうか。私は、「楽しみ・あそびの場・あそびのルール」この三つの要素で成立 すると考えています。人間と遊びの関係と共に、皆さんのあそびとは何かを聞かせてください。 あそびとは、子供に於いて端的に見られるように、自由意志に基づく自己の精神的欲求を満たすための行為であり、その方向性は基本的には精神の充足・開放へと向かう。 よってあそびとは、戯れるものであって、戯れられたり、戯れざるを得ない場合には、自己にとってその本来性からは離れてゆくと思います。 あそびがあそびとして成立するには、生活や精神のもつゆとりが必須であることを忘れてはならないでしょう。必要最小限のものが充足されていなければ、真のあそびはきっと成り立たないはずです。あそびの概念に広がりと奥行きを与えているのは、個々の立場や精神的欲求の多様性もさることながら、無意識下で行われるゆとりの線引き加減による相違だと考えます。 また、あそびという言葉は、言葉それ自体に、限定されない曖昧さや余裕といったものを含みもっています。 2)ホイジンガは、あそびと対立するものとして真面目を挙げていますが、あそびのルールの中に は真面目な要素があり、大真面目で行うあそびも有ります、「あそびが真面目になるとあそびで 無くなる」この点に関して疑問が残ります、あそびと対立するものは何でしょうか? あそびに対立するものは、精神活動を含めた行動を他から限定・強要・束縛されることがらであり、今適当な言葉が見当たりませんが、表現を変えると、自由に対しての不自由に当ると思います。 ホモ・ルーデンスのホイジンガはそれを真面目と言ったとされますが、訳語の不備であるのか、真意であって意味する含みが汲めないだけなのか、著書を読んでいない自分には文脈すら不明ながらも、その言葉のもつニュアンスは少し違うように感じています。 なぜなら、真面目に遊ぶというのはむしろ普通のことであり、例えば好きこのんでヒマラヤへ出かけるなどというあそびは、主体的な真面目さがなければ始めから出来ない相談なのです。真面目に対立する不真面目という言葉は、わが国ではあそびというよりもふざけにあたるでしょう。 行動を規制するルールとあそびの関係は、意識のレベルといったようなことで説明できると思います。 つまり、あそびにおいてのルールは、あえてそれを能動的に受け入れるのであり、この姿勢は、あそびに参加する自由意志の中に前提として含まれているからです。あそびながらルールを学ぶ、というのも普通のことです。 ですから、こうしてあそびを真面目に考えている今も、その行為はあそび心のなせる業と自分では捉えています。 3)「すべては、あそびである」と言うホイジンガの結語にロマンを感じますが、そうであるなら、仕事もあそびでなくてはならないと考えます、仕事はあそびでしょうか? 人の世の不合理な側面を見つめて、世の中はとても合理的に説明しきれるものではない、と考えた時に、あそびについてうえのような語句が発せられることは、あり得るでしょう。 またホイジンガはあそびを積極的に評価して、生活に意味を与えるもの、と考えたようです。 このような考えに従うと、必ずしも仕事とあそびは対立する必要もなく、仕事にあそびを持ち込むことは有益な場合が多々ありそうです。 プラトンという人がその昔、「最高の真面目さを持って事を行うべく価値があるのは、ただ神に関する事柄だけである。人間は唯、神のあそびの具となるように創られたのであり、これこそが人間の最良の部分である」などと、人間世界の出来事を見切るようなことを述べています。 ホイジンガの思想には、この言に照らし合わせると良く見えてくる部分がありそうです。 タモリという人が、「僕らの商売はふざけて何ぼのものだ」と言っていました。 個人的には、仕事が即あそびと言い切ることは出来ませんが、あそびの意義の捉えようによっては、そのように考える人がいても、またそんな職業があっても不思議には思いません。むしろ、それで成り立つ生活は羨ましくも思います。
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- chihoko
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●あそびを考察してみると つぎのような関係が浮かび上がります。 事象=本体+あそび つまり 事象と本体をなににするかによって「あそび」がきまってくるわけです。 事象を生活としてみて 本体を例えば仕事にしてみましょう。すると 引き算してみると 仕事以外のことはあそびになるわけです。 事象を宇宙にしてみましょう。そして本体をわたしの正弦波宇宙論の正弦波に すると あそびは宇宙に存在する物質・精神となります。 事象を生物とすると 本体はDNA するとあそびは やることなすこと ぜーんぶあそびだということになり ホイジンガの言うこともあてはまる わけです。以上で fishbowl66さんの三つのご質問には 全てお答えしたことに なるのですが ご理解いただけましたでしょうか? つまり あそびとは 関心を寄せる事象と本体を何と設定するかで ひとそれぞれに解釈できてしまうということです。 極端な場合 ねじのあそびを本体と解釈すれば ねじそのものはあそびにも なってしまうということです。さらに言うならば あそびという概念を共有 したいならば なにを本体とするかを皆で了解する必要があるということになります。 わたしたちは その本体を漠然と捉えて 見ようともしないところに 社会における「あそび」の欠如の要因のひとつが あるように感じます。 わたしたちが 持たなければならない本体とは 例えば幸せというような ひとことで表現できるものではなく。幸せとなる方法もふくめた 究極の理想のようなものとなると思います。そのような本体を認識できて はじめて「あそび」がそこに見えてくるのではないでしょうか。 いや そこに「あそび」が出現すると言い換えた方が 正確だと思います。
お礼
chihokoさん、ご回答ありがとうございます。 確かに、全ての質問への回答を頂きました。分りやすい例えで、なるほどと感心いたしました。しかし、しかし、事象そのものとしてのあそび、又は、行為の全ての目的としてのあそびが欠落していませんか。 >事象=本体+あそび 上記の式で行けば、あそび=事象-本体、本体、事象どちらかをあそびとすると、あそび=事象-あそびとなり、あそび=あそび、で肝心の事象又は本体が消滅してしまいます。 Chihokoさんとは、結構長い付き合いですから、私が揚げ足を取って喜ぶような性格ではない事は理解して頂いていると信じた上での事ですが、回答は確かに正しいと思いますが、別の見方があるような気がするのです。
- aminouchi
- ベストアンサー率46% (376/804)
fishbowl66さんの前回の質問には的確な答えを返せなかったようですし、今回も空振りになりそうですが・・ 今回のご質問に関してですが ロジェ=カイヨワ「遊びと人間」講談社学術文庫 をすでにお読みになっておられますでしようか。その上での質問であれば、これ以上何も言いますまい。まだであるとすれば一読をおすすめします。 なお、前回のご質問での「あそび」には道家思想での「無」に関連するものも入っていたように思えますが、今回のご質問ではその方面は切り捨てて考えておられると思いますので上記本の紹介だけに留まらせていただきます。
お礼
aminouchiさん、ご回答ありがとうございます。 哲学は難しいですね。前回の反省から意識的に自分の感情を抑えた結果、回答へのインセンティブに欠ける質問になってしまったようです。改めて質問を検討してみると、パワー不足の観が見られますね、「仕事もあそびでなくてはならない」この辺りに意地を見せたつもりですが、不発に終わりそうです。 カイヨワは、余暇の関連で何度も引き合いに出され読んでしまった気になっていましたが実は読んでいません。カイヨワ=余暇=recreation=労働力の再生産のイメージであまり好きではないのです、読まず嫌でしょうか、誤解していたかもしれません。 あそびについては、程々にして本来の道に戻るつもりです、又よろしくお願いします。
- toppo2002
- ベストアンサー率13% (110/841)
私自身は遊びは楽しむものだと思っています。 例えばカラオケとかするとけっこうすっきりします。 まあカラオケは行くメンバーにもよりますがね。 遊びの哲学というHPがありましたので読んで下さい。
お礼
toppo2002さん、ご回答ありがとうございます。 仰る通り、あそびは楽しまなくてはなりません。あそびの哲学拝見しました、為になる話は説教じみて面白みにかけますね、あそびの哲学は、哲学で、あそびではないですから面白くないのは当たり前かもしれません。私の質問は、あそびの哲学ではなく、哲学のあそびかもしれません、反省。
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お礼
mcqgogoさん、ご回答有難うございます。 mcqgogoさんのご回答を読んでひらめいたのですが、 あそびの本質は、ひょっとすると、私たちの精神・意識の奥にある、「他人と同じでいたい・他人と違っていたい」と言う自己矛盾の止揚の場ではないでしょうか。 同じフィールドで他人と同化しつつ、個々は競い合ったり役割分担をしたりしてあそぶわけです。しかし、一人であそぶことも出来ますから本質とはいえないかもしれませんね。 動物の子供が戯れるのは、自然の中で生きる為の訓練だと聞いたことがあります、人間の子供もあそびで戯れるのではなく、生きる訓練をしているのかもしれません。しかし、そう言ったものを含めてあそびと言うのかもしれません。人間の多様な意志の基、全ての行為の中から、あそびとあそびでないものの明確な区別を求めたことが間違いだったのかもしれません。 あそびと真面目の関係は個人的には異議は無いのですが、不自由をあそびとするc○○さんの意見も無視できませんね、ここでもあそびと言う言葉の広がりが問題なのでしょうか。 赤と紫の間に無限の色があるにも拘らず、私たちは、赤と紫の間を赤紫と名付けています、本当の赤も、本当の紫も知らない者(私)が、赤紫とは何かと悩んでいるのかもしれません。 「すべてはあそびである」この言葉が人の世の不合理ゆえ発せられたと考えることには私は反対です、mcqgogoさんの考える以上にあそびを積極的、肯定的に評価する必要が有ると思っています。「あそびは自分の為の行為、仕事は(無関係な)他人の為の行為」この現状での未来への不安感が最初の質問の動機だったのかもしれません。 私はあそびの事を問いかけながら、心の奥には仕事とは何かを問いかけていたのかもしれません、自分自身気付かなかった事を気付かせて頂いた回答でした。
補足
ご回答ありがとうございます。時間の制約で御礼が遅れることをお許しください。 あそびに関する質問はこれで終わる予定ですから、せっかくのご回答を不発に終わらせないように時間を下さい。