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226事件の皇道派と北一輝の思想

226事件の皇道派は、資本家を排除し、天皇を中心とした平等社会の設立を目指していたそうですが、 これは要するに、226事件は赤化革命の未遂事件だったということでしょうか。 旧軍部内で皇道派は左派、統制派は右派、と言うことができるでしょうか。

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  • tiuhti
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回答No.1

皇道派は、例えばその親分の真崎甚三郎なんかがそうですが、相対的には、ソ連の脅威を強く意識した、『反ソ・反共』派です。 旧軍部を、右派・左派に分けるのはかなり大変ですが、もしどうしても分けるのなら、クーデターによって軍部主導の政治を実現する事も辞さない皇道派が右派で、既存の法体系の中で合法的に軍部が政治をコントロールしようとする統制派を左派、と呼ぶ事ができるかも知れません。ただ、あくまで手段が合法的か非合法的か、という意味であって、それを右・左で分ける事が妥当かという点に付いては、疑問は残ります。 尚、ヒトラーのナチが国家社会主義の略であるように、平等社会とか資本家の排除というのは、共産党に限った事ではありません。また、特に若手将校の中には、農村の貧困に対して義憤を強く感じていた者も多かったと思われますが、そう強く思えば思うほど、昭和維新によって天皇親政を実現しようとしたのですから、左派とは言いがたいです。 平等とかいった言葉から、自動的に共産主義を想像しないようにしましょう。共産主義であれば、天皇親政などという事は100%ありえません。共産党の目標は「プロレタリアート独裁」ですから…

expenditures
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  • phantom1
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回答No.2

天皇親政による国家改造を唱える皇道派は保守、政官財を巻き込んで総力戦体制への国家改造を進めようとする統制派は革新、と呼べるかも知れませんが、現代的な保守、革新のニュアンスとはかなり違うでしょう。更に、天皇中心という段階で皇道派と共産主義は全く関係無いと言えます。 実際の所、反乱将校達には明確な政治方針などは無く、天皇親政の詔勅を受け、皇道派の首魁である真崎甚三郎を首相の座に据る、と言う所までしか考えていなかったようです。真崎は教育総監の座を追われた後、勢力盛り返しの為に青年将校等を焚き付けており、相沢中佐による永田鉄山斬殺事件などが発生して一触即発な状況でしたが、統制派の方も早くからクーデター勃発を予想して戒厳令を利用した国家改造計画を事前に策定しており、とどの詰り軍上層部の派閥争いにウブな理想主義者達が利用されたと言う構図です。気の毒ですが反乱将校達はどちらの側から見ても道化だったのです。 真崎を首相に据える事については、斉藤リュウ(サンズイに劉)予備役少将と栗原安秀中尉との電話での会話で明確に話されている記録が戒厳司令部の行った盗聴によって残されています。真崎は事件勃発直後に海軍軍令部長の伏見宮大将や加藤寛治大将と計って宮中に参内し、天皇に早期の新内閣組閣を奏上しましたが、この時天皇は川島陸相に速やかな事件の鎮定を命じた後でしたので、真崎の工作はこの時点で事実上失敗しました。この時点で真崎は反乱将校を見捨てる決断をしたようです。

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