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なぜ上総が南で下総が上なのか?

都(京都)が南で上総が南で上、下総が北で下と聞きましたが 東京湾岸を通って房総は南下していけば都から見れば北が上、南が下になりますよね? 船では効率が悪いように感じますが。 なぜ北が上で南が下なのですか?

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  • hukuponlog
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回答No.3

地理的な遠近と共に、京都からの経路が影響するのでは。 駿河、相模から陸路を通れば下総の方が先に着く国になりますが 海路を通れば、安房・上総の順になりますよね。 時代は下がりますが、源頼朝が石橋山(相模)で挙兵して敗北した後、 海路房総半島に渡って再起しています。当時から房総半島への経路は 海が使われていたことが分かります。

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  • buchi-dog
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回答No.5

以前に同様の質問がありました。 「上総と下総の名前の由来について」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1660275.html No2で私が回答していますので読んでみてください。 要するに、京都から下総に行くには上総を経由する必要があったのです。

回答No.4

すでに皆さんが書かれているように、都(上総・下総ができた当時は奈良です)に近い側が「上」とか「前」となります。だから「越前」「越中」「越後」なんかでも、都から近い側からそう呼ばれています。 江戸時代の東海道も、本来は江戸から(江戸時代の都である)京都へ「上る」ものです。(ですから江戸時代の道中双六は江戸が「ふりだし」で、京都が「あがり」になります) おそらくdehadekiさんがご質問のように感じられるのは、地図のことが頭にあるからではないでしょうか。今の地図では北が上ですからね。しかし、地図で必ず北を上にする(西洋式の描き方です)ようになったのは、明治時代以降なのです。当時(上総・下総の呼称のできた奈良時代)の人は、今の(北が上になった)日本地図が頭にあったわけではないのです。

noname#29002
質問者

補足

奈良から見れば越前や越中や越後は単純に西側、南側が前です 上総と下総の場合は千葉県の半島で南側が突端部、北側が陸路の入口だから北から入ってくるものではないか?ということなのです。

  • tanuki4u
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回答No.2

No1に補足 京都に近い方が上、遠いところが下 京都に近い方が前、遠いところが後 東山道では 現群馬が 上野 現栃木が 下野 ということになっております また 当時は東海道に武蔵は含まれなかった、理由は現在の東京のあたりは、湿原地帯(現在の利根川がここを流れていた)ために、交通手段が無かったので、京都からは、上野から南に下るのが武蔵とされた。

  • abcdsfg
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回答No.1

古代の東海道のルートは湾岸を南下していくものではないという説が有力みたい。 もともと江戸は湿地帯で、浦賀から浦賀水道を渡って上総の国を通ってたんだってさ。箱根駅伝のルートじゃないみたい。 http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0103e.htm でも、これが上総、下総の由来かどうかは分からない。