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平城京域での都市的な地区とは?

平城京域では、廃都後も都市的な要素を保っていた地区があったらしいのですが、それはどこなのでしょうか?  また、その地区が存続した理由を詳しく知りたいのですが。  どなたか、ご存知の方、いらっしゃいませんか?  よろしくお願い致します。

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  • tamm
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回答No.1

こんばんは 現在奈良に住んでいます! 現在でもそうですが、いわゆる「外京」が、都市として発展していた ようです。その要因は、寺院です。 鎌倉時代には、大寺院の保護のもとに北市(今の北市町付近) や南市(今の紀寺町付近)、室町時代には中市(今の小川町付近) が開かれ商業が発達しました。 さらに社寺と結びついた手工業も発達し、郷に住む人たちの経済力、 政治力が向上しました。室町時代後半に下剋上の風潮がおこり支配層が 混乱したため、郷に住む人たちはしだいに社寺の支配を離れて自治意識が 高くなるとともに、町民として自立するようになりました。 このような動きは、江戸幕府の支配権が確立するまで続きました。 安土桃山時代には、郡山城に入った豊臣秀長の支配下におかれました。 秀長が郡山の繁栄をはかり、強大な興福寺の勢力を抑えるため、ならまちの 商業に統制を加えました。そのため、ならまちは沈滞してしまいます。 江戸時代に入って奈良奉行が置かれると、晒(さらし)や酒などで産業の町 として活気を呈します。江戸時代中期以降、墨以外の産業は衰え、東大寺や 春日大社の門前町としてようやく命脈を保ちます。 奈良奉行として、プチャーチンと日露和親条約を結んだ川路聖謨が有名です。 明治になって、ならまちにも文明開化の波がおしよせて、牛肉店、洋髪の散髪屋 カステラ屋などができました。

umiumi0111
質問者

お礼

tamm様  こんにちは。奈良に住んでおられるのですね。回答を御記入頂き、本当に有難うございました!寺院が要因で外京が発展したのですね。お礼を記入するのが遅くなり申し訳ありませんでした。

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