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「天皇家は百済系の血が濃い」という俗説・「高野新笠」が皇后として認められなかった理由

1、天皇家は百済系の血が濃いという話を聞いたことがあります。 具体的にどう濃いのかを調べてみたら、全然濃くなかったのです。逆に薄いくらいでした。 天皇家に入っている百済系の血は、たった一人だけです。 桓武天皇の母親が百済王族の末裔の帰化人(国籍は日本人)の「高野新笠」だけです。 具体的に人物を調べてみると、天皇家に血を分けた百済系帰化人は「高野新笠」一人だけでした。 それなのに、どうして世間では「天皇家は百済系の血が濃い」と言う俗説を言う人がいるのでしょうか? 2、百済王族の末裔の帰化人の「高野新笠」は生きている間は皇后として認められていませんでした。(死後、皇后となる。) 生きている間に皇后と認められなかったのは異例です。 これは、当時の帰化人の扱いの低さを物語っています。(実際、大和朝廷内での帰化人の扱いは低かった。) 当時の人々が「百済系帰化人の末裔などは国籍は日本人でも、皇后として認められない」という行動をとった証拠でしょう。 「高野新笠」の夫と息子は天皇です。 「高野新笠」が皇后と認められない理由は他に何かありますか? 3、桓武天皇の父であり、「高野新笠」の夫である、白壁“王”(のちの光仁天皇)は、天皇を継ぐ立場ではありませんでした。 当時、天皇を継ぐ可能性がある者は“親王”を名乗ります。 “王”は一応、皇族ですが、天皇を継ぐ可能性は低いです。 白壁“王”はまさか天皇になるとは、夢にも思っておらず、また周囲も白壁“王”が天皇になるとは思っていなかったので、百済系帰化人の「高野新笠」との結婚を認めたのではないでしょうか? そして、天武系皇族が度重なる粛清で途絶えたために、天智系の白壁王が62歳という高齢で天皇になった。 仕方なく、(血の問題で)天智系の白壁王を天皇になったとしても、百済系帰化人の「高野新笠」を皇后として認めるわけにはいかない。 当時の人々はそう考えて、「高野新笠」を皇后として認めなかったのではないでしょうか? 4、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」と言う人がいます。 果たしてそうでしょうか? 百済系帰化人は最初は一応、それなりの地位(貴族など)を与えられましたが、百済系帰化人はすぐに人民に降下しました。 大和朝廷が百済系帰化人に関東に土地を与えて移民させた話などが残っています。 当時の大和朝廷には、資金的な余裕もなく、例え貴族でも天皇から血が離れていけば臣籍降下します。 具体的には、在原業平などがそうです。 在原業平の父は平城天皇第一皇子の阿保親王。母の伊都内親王は桓武天皇の皇女です。 在原業平は平城・桓武天皇の孫にあたります。 祖父が天皇でも臣籍降下するのに、百済系帰化人がいつまでも貴族でいたというのは間違いです。 従って、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」というのは間違いでしょう。 具体的に天皇家に血を分けたのは「高野新笠」一人だけですので。 いかがでしょうか? 5、天皇家がどこから来たのかは諸説あり謎です。 元々、大和に住んでいた者なのか?九州から来たのか?中国から来たのか?朝鮮半島から来たのか? (私は九州から来たと思っています。) 中国歴史書に書いてあるのは、「百済は支配層と民衆の言語が違う」、「百済の住民の多くが漢人や倭人」、「倭人が頗る多い」 (百済王族は最初は扶余姓を名乗り、しばらくしてから“余”と1文字に略した。余豊璋など。) 例えば、朝鮮半島の百済の王族(扶余族=騎馬民族)が日本を支配したとしたら、それは騎馬民族征服説になります。 (扶余族は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗に、東は挹婁に、西は鮮卑接する範囲に住んでいた。) 私は騎馬民族征服説などと言うトンデモ説は信じていません。 ここで天皇家は朝鮮半島から来た=騎馬民族征服説を論ずるのはやめておきましょう。 ※「騎馬民族征服説は正しいから天皇家は百済系の血が濃いのだ」という理由なら、申し訳ないですが回答はご遠慮して下さい。

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  • cse_ri2
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回答No.12

No.3ですが、ちょこっと横槍入れます。 No.6,10,11の方が、No.11で >歴史には多くの記録がありますから、先に自分の中で結論を決めて >おいて、それに都合の良い資料だけをピックアップしたのでは、どんな >結論にも導けます。 と発言していますが、私に言わせれば >奈良時代に日本の貴族階級に加わった外部の血としては、百済が最大と >結論付けてほぼ正しいと言えるのではないでしょうか。 という意見について、十分な資料の裏付けもない中で、その結論に導こうとしているところは、かなり作為的なものを感じます。 百済滅亡後、百済から多くの遺民が日本に渡ってきたのは事実ですが、同じ頃、日本にきたのは百済出身者だけでなく、新羅や高句麗出身者もかなりいました。 そして彼らの多くは、当時は未開の地が多く残っていた日本各地に移住しています。 高麗神社・百済神社・新羅神社などの名前をもつ神社が、日本各地に点在していることからも、そのことは十分うかがえます。 No.3で考察したように、私はむしろ奈良時代においては、百済出身者は政権から冷遇されていたのではないかと考えています。 しかし、古代においては百済だけでなく、新羅や高句麗からも日本への移民は来ていたのですから(国を無くしたという点では、高句麗も同様の立場)、百済だけでなく他の国からの多くの移民がきていたはずです。 その中で、百済出身者だけが日本の貴族階級に食い組んでいったというのは、推測にしかすぎないと思います。 むしろ、政権を握っていた天武天皇が親新羅派とすれば、政権近くに食い込む機会が多かったのは、新羅出身者であることも十分考えられます。 天智天皇の子孫であった光仁天皇が、百済王家の血をひく女性を娶ったのは、祖先の天智天皇が親百済派だったという縁からきたと考える方が自然かと思います。 私もかなり推測に推測を重ねた考察をしていますが、どちらにせよしっかりとした歴史資料、もしくは考古学的な発見が無い限り、当時の貴族社会において百済出身者の血が多く混ざっていたというのは、単なる仮説にしかすぎないと思います。

MUD-Water
質問者

お礼

横槍は大歓迎です。 私も当時の貴族社会において、百済出身者の血が多く混ざっていたというのは、単なる俗説にすぎないと思います。 ありがとうございました。

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その他の回答 (13)

  • cse_ri2
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回答No.3

この件を『逆説の日本史』の記述をベースにして、考察を進めてみます。 といっても、盲目的な信者ではないので、全くの考察なしに論ずるつもりはありませんが。 私が逆説の日本史を読んで気づいたのは、古代の日本の情勢が当時の東アジア情勢と密接に絡んでいたということです。 話を少し昔に戻して、壬申の乱の前から考察しますが、当時の天智天皇は明らかに百済びいきでした。 聖徳太子でさえ実施しなかった渡海しての百済救援を実行し、ぼろ負けに負けてからも、国内に城を築いて唐と新羅の連合軍への対抗姿勢を示します。 さらには、どうやら唐と密約を結んで、新羅を挟み撃ちにする計画さえあったことまで疑われています。 日本と百済の結びつきは強固なものでしたが、新羅も日本には無関心ではありませんでした。 国内の親百済派の筆頭であった天智天皇が亡くなったあと、親新羅派が反撃にでます。 その中心人物が天武天皇であったようです。 実際、天武天皇が政権を握ったあと、日本と新羅の関係は急速に改善されました。 百済からの帰化人が、天武天皇とその後継者たちから冷遇されたのも、その一環でしょう。 しかし奈良時代も終わりになって、天武天皇の直系の血統が途絶えたとき、再び天智天皇の一族に光があたります。 それが光仁天皇であり、さらに光仁天皇と高野新笠の子供である桓武天皇です。 しかし、高野新笠が死後に皇太后となったのは、やはり息子の桓武天皇の力によるものでしょう。 私が学んだ範囲では、桓武天皇はただのお飾り天皇ではなく、どうやら中国の皇帝タイプの天皇だったようです。 母親が地位の低いことが、おそらく桓武天皇のプライドに触れたため、彼の独裁的権力でもって、地位の格上げが成されたと見るのが妥当ではないかとおもわれます。 ちなみに私は、「天皇家は百済系の血が濃い」という話は聞いたことがありません。 ネットかどこかで流布された、デマゴーグではないでしょうか?

MUD-Water
質問者

お礼

私も『逆説の日本史』を読んでいました。懐かしいですね。 「高野新笠」の祖先は200年以上前に帰化した「百済太子淳陀」だと日本書紀には記されています。 200年以上もの間、日本に住んで、日本人と混血も進んで、百済の血も薄くなっているのに、まだ百済系帰化人だと区別されているのは、日本人と帰化人の明確な血の区別が行なわれていた証拠ですね。 母が帰化人の子孫であり、百済系帰化人が下級貴族だったことが、桓武天皇のプライドに触れたのでしょうかね。 それも歴史の面白いところですね。 韓国人留学生が「天皇家は百済系の血が濃い。だから、日王(天皇)は百済人の末裔だ」と何度も言うので、調べてみたのです。 ありがとうございました。

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  • moritan2
  • ベストアンサー率25% (168/670)
回答No.2

まず弥生人がは頭骨の特徴などが縄文人とことなるという事は昔からわかっていたと思いますが、近年になってDNAの研究で両者は同じ人種とはいえないほど離れているということがあきらかになったそうです。弥生人が日本で増え始めたのは2000年ほど前ですから、船で渡航するしかなかったわけですが、そうなると弥生人のルーツは朝鮮半島と考えるのが有力です。ですから、天皇家と百済というより、弥生人のルーツは朝鮮半島というのならかなり、信憑性は高いとおもいますが。また天皇家も当然弥生だったでしょうから、トンデモというのは言い過ぎでは? 天皇家をイギリスのノルマン王朝のようなものだとみなす説は、現時点では証拠がないのでなんともいえませんが、神話を全くのでたらめと考えずに何らかの実際にあったことが元になっていると考えれば、天孫降臨の元になった実際にあった話として、そういう可能性もあり得ない話ではないということです。 また、日本書紀によれば神功皇后は新羅王子の天日槍命(あめのひぼこのみこと)の血が入ってるそうです。ここらへんは歴史なのか神話なのか分からないのでなんともいえませんが、仮に記述を信用すれば新羅王家の血がはいっていることになります。また、神功皇后は仲哀天皇が急死したあと、いったん三韓征伐などという不思議なことをやっています。大和の新天皇(おそらく仲哀天の皇子が即位していたはず)に対してこれから戦いを挑むのになんと不自然な話でしょう。これを新羅に兵を借りに行っていたと解釈し、三韓征伐はこういう格好の悪い話を隠蔽するためにでっち上げたと考えれば、あり得ないことではない話では無いと思います。

MUD-Water
質問者

お礼

あなたの意見はわかりました。 ありがとうございます。 あなたの回答の主旨が、私の質問からズレているので、申し訳ないですが回答はご遠慮して下さい。 わざわざありがとうございました。

MUD-Water
質問者

補足

>日本書紀によれば神功皇后は新羅王子の天日槍命の血が入ってる 日本書紀にそんなことは書いていませんね。ウソはいけませんよ。 >三韓征伐などという不思議なことをやっています。これを新羅に兵を借りに行っていたと解釈 広開土王碑の碑文によると 「倭人は、新羅の国境に満ち」ていた。西暦400年に、好太王は軍令を下し、歩騎五万を派遣して、新羅を救った。高句麗軍が、男居城から新羅の国城にいたると、倭がその中に満ちあふれていた。高句麗軍がいたると、倭賊は退却した。しかし、その4年ののちの404年に、「倭は不軌(無軌道)にも、帯方界(もと帯方郡のあった地域)に侵入」した。 「好太王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると、倭寇は壊滅し、(高句麓軍が)斬り殺した(倭賊は)無数であった。」さらに、407年、好太王は、「軍令を下し、歩騎五万を派遣して」、「合戦して、残らず斬り殺し、獲るところの鎧鉀 (よろいかぶと)一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった。」 「新羅本紀」は、393年に、「倭人が、金城(新羅の王城)を包囲して、五日も解かなかった」と記している。 これのどこが兵を借りにいったと解釈できるのでしょうか? 朝鮮に侵入した倭は、正規の高句麗軍五万と、何度も戦うカを持った、万を超える大軍でした。 帯方界といえば、現在の京城から、その北のあたりを指します。 倭軍は朝鮮半島のかなり奥地にまで侵入しているのです。 >船で渡航するしかなかったわけですが、そうなると弥生人のルーツは朝鮮半島 海洋民族にとって海は道です。 騎馬民族にとって海は壁です。 縄文時代に東南アジアから日本にボートに乗って渡航したと思われる例があります。 中国南部から黒潮に乗ってボートで日本までやってくるのは充分に可能でしょうね。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

2:皇后になるには、基本が皇族 藤原光明子が初の皇族以外の皇后であり、それでも、朝廷内は大騒ぎ。やっと、非皇族皇后を成功させた藤原一族が他族から皇后を認めるわけがない。 3:上と同じ 4:そのような百済人を受け入れたから血が濃いというのは、そこまで頑張って反論する必要もないでしょう。 5:Y染色体分析でもできればハッキリするんでしょうが。それはできない相談でしょう。

MUD-Water
質問者

お礼

なるほど。あなたの言う通りですね。 上級貴族である藤原氏の娘が皇后になるのを、「非皇族皇后反対!」と言ったのに、 身分の低い百済系帰化人の末裔の「高野新笠」が皇后になれるはずがないですね。 ありがとうございました。

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