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人生
悟りを得た人の考えとか、哲学的考えとか読みましたけど、結局人生ってなんなんでしょう。 なにかするべきことがあるとか、どこから来たのかとか、そんなことよりも、お金を稼いで健康でわらって暮らせれば最高な気がします。
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質問者が選んだベストアンサー
自分は、人は喜びを得るために生きていると思います。 お金があり、健康で笑って暮らすのも最高な気がしますが、 とにかく最終的に繋がるのは自分が望んでいたことに対しての 「喜び」 ではないでしょうか。
その他の回答 (9)
>お金を稼いで健康でわらって暮らせれば最高な気がします。 それは正しいと思います。 更に加えて『私の人生hosiboshiさんと知り合えて本当に良かった』と思ってくれる人を一人でも作れれば良いですね。
お礼
そうですね。 喜んではもらえるんですけど、人に気持ちは変わりやすいし、わからないし。 僕は随分他人とずれているみたいで、なかなか仲良くなるのは難しいです。
補足
出会えたみたいです。 本とにありがとうございます。 ありがたいです。
”お金を稼いで”という言葉が気にかかるけど... 健康で笑って暮らせれば本当にいいね. それはほとんどの人の願いだと思う. でも根っこでそれを許さないところがある. 笑って暮らせる世の中ではないだろう. お金があるないにかかわらず.
お礼
そうですね。 人は幸せに暮らしたいと願いつつも、幸せが「なにか」が、わからない人も、ただ楽をするのが幸せと考える人もいます。 自分が自分に納得して、周りの人にも受け入れてもらえる幸せの形というのは、やはりそれなりの努力や経験や人徳、苦労等、人が人としてしっかり自分の人生を生きる必要があるのではないかと思います。 そしてそれは現代の社会では、きわめて稀なのかもしれません。 でも、もしかすると気付いていないだけで、身近にもいるのかも……
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
>お金を稼いで健康でわらって暮らせれば最高な気がします。 本当にそうであれば結構なことですよね。でもそれは快楽の段階でしょう。その段階に満足できないのが人間の尊いところです。 マズローという心理学者はそれを「欲求段階説」という段階で示しました。これは「人が衣食住足りる(基本の欲求段階)と次に高次の欲求を求めたくなる(頂点の段階は自己実現)」というものですが、この欲求は誰にでも該当するものではないと思います。 例えば大学に行っても純粋な知的欲求を求めて大学院に行く人もいれば、社会人になって安定した生活をしてても、資格などをとってさらにスキルアップしたい人もいる。私はこういう人大好きです。かくいう私も、目の前に壁があれば乗り越えたくなる人で、何かに到達しても次の目標設定をするのが好きです。マゾっ気があるのでしょうね(笑)。 たとえば1本の映画出演で数人分の人生の必要経費が稼げるハリウッドスターとかでもそれでもどうして働いているのかなあといつも羨ましく思っていますがきっと「自分が好きだから」なんでしょうねぇ。私もよく宝くじに当たったら!という白昼夢を見て自慰行為にふけっていますが(笑)、やっぱり働きたくなるかもしれない、でもバイト程度で。人の脳はやはり退屈を嫌うのでしょうね。 確かにお金があれば物質的なレベルでの快楽を得ることができる。でもそれは例えば手にしていないものに代わるものかもしれません。たとえば愛情不足の生活を送っていたらその欲求の対象をモノに投影する場合もある。 「お金が一番大切」と言う人はある価値をお金にしているのですが、お金を得るために猛烈な努力をしてきたかもしれない。それこそ自己実現でしょう。ただお金は物の媒介になるけれど、人とのそれに代わるものでは決してありません。本人の主観で人間関係に価値を置かない人の主観ではシアワセなのかもしれません。 価値と欲求というのは高尚に比例するものではなく、むしろ反比例してしまうこともあるかもしれない。 「書かないのはなかったこと」という言葉があります。経験していないことも「なかったこと」になります。他人と他人がまったく同じ経験をすることはありません。でも近しい経験をすることで想いを共有することができる。そして想像力を働かせて共感することもできる。その相互作用は理性の最高の知性であり、そして至高のものでもある。私は人間関係においてのそのような相互作用を「人生」と捉えています。 好奇心の赴くままに様々な経験を重ねるには人の体も心も重すぎる。また他律的なベクトルを運命とよぶのなら、運命が導く道は自らの「生」でありながらそれを望まない限り他の世界(人生)であるかもしれない。 あと仏教思想のように本当にこの世が修行の場だとしたら、欲求段階イコール修行のレベルかもしれない。前世で修行が足りなかった人が、この世で「苦」を与えられ、それについて考えさせられるとき、欲求段階という自己修練の必然のためにおのずと生じる高次の欲求であると思います。欲求という自律的なものは、それを包括する何かの力が押し出している他律的なものかもしれません。 個人的にはこの世は苦が基盤である性悪説とります。性善説という人はなんだか偽善者っぽいなあ。というのは個人別の人生の中で純粋無垢な時代は性善説でもいいけれど、ある程度の人生経験を経たら性悪説、そして人生の終盤にさしかかったら性善説をとる人生観が理想なのではないかと勝手ながら思っています(マジメに)。 人生=記憶かもしれない。 ウイルスにかかったデータのように記憶がリセットされたら、現在という人生の基盤である過去がなくなる。でもそれは脳内的なことで、私は潜在意識にすべて記録されていると思います。あとこれはスピリチュアルな世界のことですが、アカシックレコードという、「宇宙の図書館」のような場所にはすべての人生は記録されているといいますから、宙ぶらりんの状態になっても、きっとどこかしらで「自分が自分であった証」というのは残されているのではないかと考えます。 人生=時間かもしれない。 年齢を経てますます日々飛ぶような速さの時間感覚を経験していますが、あまりにもついていけないし、思うように使えないし、ある意味「重い」し、無常で、そして慈愛的でもある時間の性質を感じながら思ったのはこれから死ぬまでの数時間の暇つぶしだということです。いやでたまらない毎週の厳しいピアノのレッスンも過ぎればただの記憶。時間は流れるものではなく、点在しているもの、そう意識させるのがより印象的な記憶だとしたら、今日も突きつけられる「明日」の幸福のために「毎日」を大切に生きなければならない。私たちって時間という最前線に立たされている戦士だと思うのです(なーんちゃって(笑))。恐い先生の記憶をトラウマにさせないために私は練習を重ねているのですがこれも修行だと思うしかない・・・。(´_`。) 森羅万象は二律背反で成り立っていると思うのですが、人はその2つのものの要素を自らに通して生きているのだとしたら(たとえば空間的には上と下、抽象的には幸と不幸など)、最大公約数的の究極なものこそ「生と死」であるとします。つまり「生」か「死」の究極の二択の「生」のみで「人生」は成り立つのではなく、「死」を含めた概念(考え方や臨み方)で考えなければ真の意味の「生」を生きたことにもならないと考えます。 私にとっての幸福は「快楽」ではなく「自己実現」に至る過程でしょうか。人は自分の夢や目標を叶えることはもちろん、社会的な奉仕もそれに順じて必要なことだと思うんです。力や知恵、愛をアウトプットすることで貢献する自分が、他の存在の幸と平和の連鎖の一部になれればよいなと思っています。 1度きりの人生。どうしようもない無常感を抱えながらも能動的に、有機的に、自分を「使い切る」つもりでやっていこうかなと思います。 以上、まとまりがなくてすみませんが私の人生観の自由連想です。 >悟りを得た人の考えとか、哲学的考えとか読みましたけど、結局人生>ってなんなんでしょう。 「書を捨て町へ出よ」でしょうか。テキスト的な哲学も唯一のもの、誰かのいくつかの人生も唯一のもの。人生や哲学や悟りに「唯一」のものはないと思っています。
お礼
行き着くとこまで行くと、人は自分の欲求を満たすまで動き、その先はなんとなにもしない生活が気の済むまで、もしくはとわに続けるそうです。 基本的に善人、もしくは良い人が条件。 信じてもらえるでしょうか……汗。
- Zuchi
- ベストアンサー率19% (23/119)
そうして考え続ける事が人生でもありましょう。 それが主観であれ客観であれ達観であれです。
お礼
そうですね。 でもちょっとそういうこと考えない人もうらやましいかも。
私が、今まで生きて感じたことは、 現実を感じて、自分の人生観、価値観を通して、感覚・感情が生じ、それによって、生きているということ。 苦というものから、解放されたいために、自分自身の満たしたい欲があるために行動を決定しているということ。 これを感じる、感じないかかわず、これで生きている気がします。 人生とは何、生きている意味とは何?人生の価値とは? 私は人生の意味は知りません。 私は生きている意味は知りません 私は人生の価値は知りません。 しかし、人生の価値は、自分自身が決めるということは、確かなことだと思います。どんなに人に強要されたとしても、それに対し、生ずる感覚・感情は自分自身のものだからです。 人間は、皆同じではありません。皆違います。その違い1つ1つを考えてみてください。その違いの1つ1つを良い悪い、正しい、間違いを考えずに違い1つ1つを認識するように心がけて見て下さい。 そうすると、こと細かい違いに気付くと思います。そして、そのこと細かい違いから、求めるもの、拒む者、生き方そのものが違ってきます。 人間は、幸福・快楽・充実・満足・納得を求め、苦・辛い・無駄・悪・恐怖・不解・虚しさを拒みます。 自分自身の生き方、自分自身の性質(運命・能力・性格)によってそうしか生きれない生き方に納得している人は、「なにかするべきことがあるとか、どこから来たのかとか」考えないかもしれません。もしくは、そういうことを考える暇がない人、そういうことを考えたくはない人は考えないでしょう。 落ち着いて、自分自身と周りが苦しんでいる現実の原因を深く深く考えると、人生に苦はつきものとしか言えなくなります。 そして、その苦は、どんなことを言っても根本的に解決するためには自分自身が変る他無いということです。 お金を稼ぐということが、人の不幸の上に成り立って納得しない人も世の中にはいるでしょう。健康で生きたいが、自分自身の抑えきれない欲によって自ら不健康になるような生き方をしている人がいるでしょう。人を見下したり、馬鹿にしたりしてしか笑えない人もいるでしょう。 そういったものに満足・納得している人はいいですが、それに自己嫌悪を感じる人も世の中にはいます。 人は、苦というもの、醜いというもの、嫌というものをどうにしかして解消したいと願望します。そのために悩み、そのために勉強し、そのために誰かと語りあうこともあると思います。 浅はかである時は、日々得る喜びが永遠に続くものだと思って生きるものです。しかし、日々得る喜びが得られなくなった時、人は生きることに虚しくなり、また、苦しくなります。 浅はかであるが故に、満足できる喜びがあります。しかし、その喜びは喜びと同時に多くの苦というものを生じさせるものです。自分がその喜びだけで満足している時は、それによって生じた苦というものを感じず、また、そういうものが生じていることも知らないでしょう。しかし、それは、時が溜まると自分に返ってくる苦となります。また、それは、自分以外の人に苦を与えています。 そういったものが、社会的・自然的に起こる問題です。 そういったものに動揺せずに、安穏とした境地で生きることができれば良い訳ですが、呼吸ができなくなれば苦しくなり、食べるものがなければ精神的ストレスと肉体的ストレスで性格はねじ曲がり、少しの平穏の期間は生きることが苦しか感じなくなります。 人は、苦というものを拒みます。耐えることができる苦もありますが、それも蓄積すれば、耐え切れなくなるのが人間だと私は思います。 自己中心的のみで、生きれば、社会的・自然的に多くの問題が生じ、それによって自分自身が苦しむ、だから、自己中心的ではなく、周りのことも少しは考えるように生きるようになったが、社会的に・自然的に良いように生きることは、ストレスが溜まり苦しむ、また、自分には能力的、精神的恐怖からできないこともあって、それによって社会や自然の問題を生じさせる生き方をしている。 こう考えると、人間というもの、自分自身というものは苦というものから、解き放たれることは難しく感じ、安穏とした精神状態を維持することも難しい。 だから、人は、自分自身が本当に納得できる幸・充実というものを求めて生きるのだと思います。しかし、日々の忙しさにそれを求めることを忘れ、また、日々、自分自身から生じる欲や思いによってそれらを忘れて生き、苦しくなった時に、また思い出す。この繰り返しのような気がします。 苦しい時に根本的な悟りを求める心を起こす人は多いと思います。しかし、そのためにがんばっていろいろなこと学び、得て苦しさがなくなると根本的な悟りを求めなくなります。それは、大小ありますが、浅はかな生き方です。ですが、人間は、その浅はかな生き方をして満足しきれるものです。そして、その浅はかな生き方では満足しきれなくなり、苦しいと感じることが多くなると、また、根本的な悟りを求める。これの繰り返しです。 人間の人生観・感覚・感情の奥深さを考えて、成長・熟成いくと、自己中心的なものだけでは、決して、満足しきれなくなります。満足しきれないからこそ、根本的に満足して存在できる教えを求める。それが、人生だと私は思います。 話は変わりますが、人生の意味、人としても生き方を考える時、決して欠かせないものが、生前と死後についてでしょう。 多くの人は、「ある」のか「ないのか」もはっきりしない状態だと思います。多くの人は考えるだけで終わるでしょう。そして、答えははっきりしない状態です。結局、自分が信じているか、信じていないか、信じれるか、信じれないかのレベルであって、はっきりしない状態です。 しかし、中には、このはっきりしない状態では、納得できず、はっきりした答えを求めて、自分の肌や体で感じれるようになるために行動する人もいるでしょう。そうして、出た答えによってまた、人生とは何という答えがまた、自分の中で固まってくると思います。 人生とは何と聞かれて、文章でつらつらと書き並べて書いてあることが実感、共感、もしくは信じれる、信じてしまったなら、書いた人の人生観を持つこと、影響を受けることはできるでしょう。 しかし、実感もせず、共感もせず、信じることができない場合、それは、ただの「ざれごと・たわごと・妄想」にしか感じません。 人生とは、自分自身でしか決めることができないものです。 人生とは、自分自身の性質でしか決めることができないものです。 人生とは、自分自身の感じれること、価値観、人生観、経験、物事の良い悪いの判断基準、物事に対する重点をおく部分などによってしか決めることができないものです。 仏教の法華経には、皆、いずれ私と同じ境涯(仏)になることができると釈尊様は言っています。それと、長い長い修行を得て、その仏になったとも書いてあります。 聞くだけでは、悟りを得た人の「人生とは何というものを自分のものに出来ない」のが人間です。だから、人は時に悩み、時に修行をし、時に少しでも成長をしたがるものだと思います。 以上、参考になれば幸いです。
お礼
大変参考になりました。 ものすごくわかりやすく適切でした。 ありがとうございます。
- konagoo
- ベストアンサー率24% (67/276)
>悟りを得た人の考えとか、 悟りを文章表現することは不可能かと愚考してます。一方、宗教、哲学、脳科学の一つの終着点というこで人間の本質とは何かということがシミュレートされる日が来ると確信してます。 >哲学的考えとか読みました これはご満足ゆくまで読破されていては如何でしょうか。 >結局人生ってなんなんでしょう。 殺人鬼から眉間に銃を突きつけられ撃たれる直前の心情がその人の人生の「なんなん」であるとも想像致します。 >なにかするべきことがあるとか、 するべきことはそれぞれ異なっていて全く同じものは一切ないように思います。したがって、第三者があなたのするべき事は●●ですからやりなさいとはいえないと思ってます。人類共通のするべき事は明らかになりつつあるように感じますね。銃を眉間に突きつけられたら誰だって払いのけ戦わなければなりません。 >どこから来たのかとか、 はじめから、どこからも来ていませんしどこにも行かないのではないでしょうか。私はどこか(京都とかミシシッピとか月とかではなく)、に行ったことはありません。ヘロインでもトリップしてるとは言えないと思います。 >お金を稼いで お金は人間の発明品で稼ぎ方に不正があっては私は笑えませんので単に、「豊かに」の方が好きですね。 お金は、基本的に自分の生産物、労働、サービス、創作等を提供してその対価として他者から受け取ります。自分で稼ぐと言う表現は、不正利得、ギャンブル(娯楽以外)を含むような感じがしてちょっとなじめません。お金が無くとも最高に到達できますが豊かでないと最高に到達しないのではないでしょうか。 >健康で これは自分も家族もみんなにとって大切なことですね。でも、不健康だからといって最高に到達しないとは言えないと思いますが如何でしょうか。 >わらって暮らせれば最高な気がします。 確かにその通りだと思います。みんながわらって暮らせるようになりましょう。
お礼
>はじめから、どこからも来ていませんしどこにも行かないのではないでしょうか 今ある自分がすべて、ということですかね。 >豊かに そうですね。 御意見ありがとうございます。
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
- ベストアンサー率67% (99/146)
ほんとにそうですねぇ。何なんですかねぇ。私には見当もつきません。確かに食える分だけ稼いで健康で笑っていられればいいですねぇ。 悟った人というのはお釈迦様ですかね?もうご存知かもしれませんが、お釈迦様は「生きるという事は苦である。」こんなことをおっしゃっています。「苦」言うのは日本語にすると「思い通りにならない事」と訳すそうです。稼ぎたくても稼げない。健康でいたくても病気になってしまう。笑いたくても笑えない。そんな状況ですかねぇ。 仏教というのは「苦」からの解脱(抜け出し)を目的としています。それは苦しまなくなるということではなく、そんな苦しい状況下でも前向きに生きていける人間になろうということではないでしょうかね。 「一切皆苦」なんて言葉があります。一切皆苦って言うくらいでですから、世の中の出来事は全部苦なんでしょう。苦にもいろいろあって、日常的にかんじる苦には肉体的な苦と精神的な苦に分けたりします。しかしながらそういったものが苦ではありますが、楽しいと思ったりしてたことが壊れちゃったらその楽しいことが苦になったりしちゃいます。全てのことは無常であって壊れたりなくなったりするからこそ苦であるとされます。要するに、苦になりえる可能性のないものは何もないってことです。 しかしそれは後ろむきな人生をおくりなさいということではなく、「ちっちゃいことで、くよくよするな」ってことだと思います。ひとつの苦にこだわっていると、次から次に出てくるわけですから嫌になっちゃいますからね。 そのくらいで考えていればよいのではないですかねぇ。というより、私みたいなアホンダラはそのくらいでしか理解できないんですよね。ほんとに人生って何なんですかねぇ。永遠の命題ですね。 参考にならない文章をだらだら書き連ねてしまいました。申し訳ありません。 合掌 南無阿弥陀佛
お礼
そうですね。 苦楽がありますけど、苦ばっかりととらえることもできますね。 逆にすべて楽ととらえて生きていこうとするひともいますけど。 >私みたいなアホンダラ いやいやご謙遜を。
- ANASTASIAK
- ベストアンサー率19% (658/3306)
御意。 ところで、ホリエモンはお金持ちで健康でニヤニヤ笑ってました けど、検察官に「悔い改めれば」とかいって、人生を絵に描いた ような生活です。カネがあればなんでもできます、とも言ってた。
お礼
徳は絶対必要なんですよ。 人間がいる俗世間なんですから。 それをわかっていらっしゃらなかったんですよ。まだお若いですから。 これからですよ。
- corpus
- ベストアンサー率12% (25/200)
おっしゃるとおり、お金や健康で楽しく暮らせる人がいちばんよいと思います。 それだけでは満たされない人たちが、普通の健康な人と同じようになれる努力が悟りのための修行だったり、哲学だったりするように私には思われます。
お礼
私もそう思ってました。 しかし真に悟った人というのは、普通に世間にぞくして暮らしているのもアリだと。 そうすると結局は…普通も捨てたものじゃなく一番幸福な生き方ではないかと。
お礼
そうですね。 自然に笑みがこぼれますからね。 魂が喜ぶことですね。