>お金を稼いで健康でわらって暮らせれば最高な気がします。
本当にそうであれば結構なことですよね。でもそれは快楽の段階でしょう。その段階に満足できないのが人間の尊いところです。
マズローという心理学者はそれを「欲求段階説」という段階で示しました。これは「人が衣食住足りる(基本の欲求段階)と次に高次の欲求を求めたくなる(頂点の段階は自己実現)」というものですが、この欲求は誰にでも該当するものではないと思います。
例えば大学に行っても純粋な知的欲求を求めて大学院に行く人もいれば、社会人になって安定した生活をしてても、資格などをとってさらにスキルアップしたい人もいる。私はこういう人大好きです。かくいう私も、目の前に壁があれば乗り越えたくなる人で、何かに到達しても次の目標設定をするのが好きです。マゾっ気があるのでしょうね(笑)。
たとえば1本の映画出演で数人分の人生の必要経費が稼げるハリウッドスターとかでもそれでもどうして働いているのかなあといつも羨ましく思っていますがきっと「自分が好きだから」なんでしょうねぇ。私もよく宝くじに当たったら!という白昼夢を見て自慰行為にふけっていますが(笑)、やっぱり働きたくなるかもしれない、でもバイト程度で。人の脳はやはり退屈を嫌うのでしょうね。
確かにお金があれば物質的なレベルでの快楽を得ることができる。でもそれは例えば手にしていないものに代わるものかもしれません。たとえば愛情不足の生活を送っていたらその欲求の対象をモノに投影する場合もある。
「お金が一番大切」と言う人はある価値をお金にしているのですが、お金を得るために猛烈な努力をしてきたかもしれない。それこそ自己実現でしょう。ただお金は物の媒介になるけれど、人とのそれに代わるものでは決してありません。本人の主観で人間関係に価値を置かない人の主観ではシアワセなのかもしれません。
価値と欲求というのは高尚に比例するものではなく、むしろ反比例してしまうこともあるかもしれない。
「書かないのはなかったこと」という言葉があります。経験していないことも「なかったこと」になります。他人と他人がまったく同じ経験をすることはありません。でも近しい経験をすることで想いを共有することができる。そして想像力を働かせて共感することもできる。その相互作用は理性の最高の知性であり、そして至高のものでもある。私は人間関係においてのそのような相互作用を「人生」と捉えています。
好奇心の赴くままに様々な経験を重ねるには人の体も心も重すぎる。また他律的なベクトルを運命とよぶのなら、運命が導く道は自らの「生」でありながらそれを望まない限り他の世界(人生)であるかもしれない。
あと仏教思想のように本当にこの世が修行の場だとしたら、欲求段階イコール修行のレベルかもしれない。前世で修行が足りなかった人が、この世で「苦」を与えられ、それについて考えさせられるとき、欲求段階という自己修練の必然のためにおのずと生じる高次の欲求であると思います。欲求という自律的なものは、それを包括する何かの力が押し出している他律的なものかもしれません。
個人的にはこの世は苦が基盤である性悪説とります。性善説という人はなんだか偽善者っぽいなあ。というのは個人別の人生の中で純粋無垢な時代は性善説でもいいけれど、ある程度の人生経験を経たら性悪説、そして人生の終盤にさしかかったら性善説をとる人生観が理想なのではないかと勝手ながら思っています(マジメに)。
人生=記憶かもしれない。
ウイルスにかかったデータのように記憶がリセットされたら、現在という人生の基盤である過去がなくなる。でもそれは脳内的なことで、私は潜在意識にすべて記録されていると思います。あとこれはスピリチュアルな世界のことですが、アカシックレコードという、「宇宙の図書館」のような場所にはすべての人生は記録されているといいますから、宙ぶらりんの状態になっても、きっとどこかしらで「自分が自分であった証」というのは残されているのではないかと考えます。
人生=時間かもしれない。
年齢を経てますます日々飛ぶような速さの時間感覚を経験していますが、あまりにもついていけないし、思うように使えないし、ある意味「重い」し、無常で、そして慈愛的でもある時間の性質を感じながら思ったのはこれから死ぬまでの数時間の暇つぶしだということです。いやでたまらない毎週の厳しいピアノのレッスンも過ぎればただの記憶。時間は流れるものではなく、点在しているもの、そう意識させるのがより印象的な記憶だとしたら、今日も突きつけられる「明日」の幸福のために「毎日」を大切に生きなければならない。私たちって時間という最前線に立たされている戦士だと思うのです(なーんちゃって(笑))。恐い先生の記憶をトラウマにさせないために私は練習を重ねているのですがこれも修行だと思うしかない・・・。(´_`。)
森羅万象は二律背反で成り立っていると思うのですが、人はその2つのものの要素を自らに通して生きているのだとしたら(たとえば空間的には上と下、抽象的には幸と不幸など)、最大公約数的の究極なものこそ「生と死」であるとします。つまり「生」か「死」の究極の二択の「生」のみで「人生」は成り立つのではなく、「死」を含めた概念(考え方や臨み方)で考えなければ真の意味の「生」を生きたことにもならないと考えます。
私にとっての幸福は「快楽」ではなく「自己実現」に至る過程でしょうか。人は自分の夢や目標を叶えることはもちろん、社会的な奉仕もそれに順じて必要なことだと思うんです。力や知恵、愛をアウトプットすることで貢献する自分が、他の存在の幸と平和の連鎖の一部になれればよいなと思っています。
1度きりの人生。どうしようもない無常感を抱えながらも能動的に、有機的に、自分を「使い切る」つもりでやっていこうかなと思います。
以上、まとまりがなくてすみませんが私の人生観の自由連想です。
>悟りを得た人の考えとか、哲学的考えとか読みましたけど、結局人生>ってなんなんでしょう。
「書を捨て町へ出よ」でしょうか。テキスト的な哲学も唯一のもの、誰かのいくつかの人生も唯一のもの。人生や哲学や悟りに「唯一」のものはないと思っています。
お礼
そうですね。 自然に笑みがこぼれますからね。 魂が喜ぶことですね。