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「文化年間」について
江戸時代の「文化年間」って、いったいいつごろからいつごろまでを指すのでしょうか。よろしければ、その特徴なども教えていただけると幸いです。
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「文化年間」とは、西暦では「1804年から1818年」に該当します。この時代の社会・文化はかなり錯綜した状況にあります。 簡単に歴史を辿りますと、1770年から80年頃は、田沼意次が政権を担い、産業や商業を振興させ、貨幣経済を展開させ、近代日本の経済基礎ともなる社会を築きます。この時代に、庶民の文化や教養への興味は高まり、識字率も上がります。 しかし、田沼の政治は「金権政治」とも今日批判される面があり、多くの反発者がいました。田沼時代の晩期、冷害・飢饉などの発生で、批判が増大し、田沼は失脚し、松平定信が老中首座となり「寛政の改革」を実施しますが、緊縮財政と統制政治に反発が起こり、彼も失脚し、改革は失敗に終わります。 庶民、農民のあいだでは、田沼、松平に対する不満と批判が「黄表紙本」という形の出版物を取って現れ、1万部とかがまたたくあいだに売れたとされ、庶民や下級武士も、出版という形の情報流通に慣れてきます。 松平定信の改革の失敗と文化年間の始まりのあいだには、各藩個別での藩政改革が盛んになり、改革は成功し、名君と呼ばれる人物が輩出し、江戸中央幕府の権威は一層低下します。 このようして、定信の改革、また藩政改革で重点が置かれた「緊縮財政」の時代の延長として、文化年間が始まり、それは、将軍徳川家斉の「放漫財政」の時代である「文政年間(1818年より1830年)」へと続いて行きます。 文政年間の始まる前には、ロシア使節ラックスマンや、全権大使レザノフが日本に通商を求めて訪れ、幕府はこれを拒否しますが、その結果、ロシアはエトロフ島襲撃事件を起こし、海防論が国内で高まります。外国船の渡来は、その後も起こり、幕府は、1825年、「異国船打払令」を出します。 先に述べたように、庶民の教養への関心が高まり、文化年間と文政年間は、幕府の財政姿勢が異なっていたにも関わらず、庶民文化が花開き、「化政文化」とも呼ばれます。ここでは小林一茶の俳諧や、「東海道中膝栗毛」などの滑稽本も現れます。 大坂・京都の豪商が背景になって推進した元禄文化と較べ、化政文化は、外国船の渡来や幕府の権威失墜や失策と言った複雑な社会情勢のなかで、風姿や滑稽やナンセンスなど、小市民文化が興隆したとも言えます。 初期四年間で、430万人もの人が参加したとされる、文政13年(1830)の「伊勢お陰参り」も、社会の不安時代もさることながら、それだけ、庶民が財力を持ち、生活にもある程度の余裕ができたことのあかしだとも言えるのです。 「文化年間」は、激動の社会情勢のなかで訪れた町民・庶民の小市民文化=化政文化の盛期の前半に当たり、家斉の放漫財政の始まる前、化政文化が徐々に発展していた時期だと、とまれ言えるでしょう。 なお、化政文化末期は、次のような状態であったと参照URLでは述べています(大略)。農民も含め、庶民の生活が豊かに文化的になり、教育も向上したことが分かります: >農民たちは時に一揆も起こしたが、日常的には訴願や訴訟(いわゆる「公事」)を熱心に起こして、自分たちの生活状態の改善に努めるようになった。 >村々には「公事師(くじし)」と呼ばれる訴訟代理人が生まれて活躍した。…… >……村の生活の中には「遊び日」が増え、若者たちは「地芝居」に熱中するようになる。 >……村での女性の地位も向上し、妻の勝手による離縁や「飛び出し離婚」も増えるようになったといわれる。 >「近世日本の長波と日本史の超長波」 >http://www.glocom.ac.jp/proj/kumon/paper/1999/99_05_00.html
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- nyozegamon
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文化年間は1804年から1818年までです。 文化年間と文政年間の文化を「化政文化」と通称されます。 その特徴は下記を参照してください。
- kanten
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とりあえず、文化年間は 1804-1818年ころ だそうです。