こんにちは。
本当にそうですね。
「感受性の喪失」とは我々人間の精神的な成長と確実に比例するものであり、如何なるひとにとっても例外はありません。正に、質問者さんの仰る通りだと思います。
では、人間の「精神的な成長」とはどのようなものであり、我々の脳内ではいったいどんな変化が起こるのでしょうか。
身体の発達と同様に、脳にも「成長期」というものがあり、精神的な成長とは大脳皮質の発達と生後学習によって成されます。従いまして「感受性の喪失」とは、この「大脳皮質の発達」と「生後学習」に比例するわけでありまして、こればかりは誰にとっても避けて通ることのできない必然的な現象ということになります。
我々が生まれたとき、当たり前のことですが脳内の学習記憶はほぼ白紙です。またそればかりではなく、「計画行動(理性行動)」というものを司る「大脳皮質」は未発達の状態にあり、その完全な発達には早くてもたっぷり15年、平均で二十歳までの期間を要します。
これに対しまして、我々の脳内で「情動行動(情動反応)」というものを司る「大脳辺縁系」といいますのは大脳皮質とは違い、出生時でほぼ正常に機能できる状態にあります。ですから、大脳皮質の発達にはまだ15~20年掛かるわけですから、その間、成人した大人と比べますならば、子供というのは学習行動における「情動行動の比率」というものがたいへん高くなります。泣く、甘える、欲しがる、幼い子供でしたら当たり前のことですよね。
ですが、その後の成長に応じて様々な体験・学習が積み重ねられてゆきますならば、より高度な知能行動ができるようになると共に、情動行動に対する「計画行動の比率」というものがしだいに高くなってゆきます。そして、やがて大脳皮質の完全な発達を以って「良識的な成人」ということになります。
我々人間の「精神的な成長」とはこのようなものであり、大脳皮質の発達と生後学習に伴い、情動行動というものがしだいに抑制されるようになってゆくのが分かると思います。
但し、情動行動が抑制されるといいましても、大脳皮質は別に抑制信号のようなものを発生させて大脳辺縁系の情動反応そのものを抑えているというわけではありません。では、どのようにするのかと申しますと、大脳皮質が大脳辺縁系の情動行動を抑制するためには、それよりも価値の高い計画行動を立案する必要があります。その場の感情に動かされず、想定される未来報酬の方が自分にとってより価値が高いと判定されるならばその計画行動は実行されますので、結果的には情動行動が抑制されたことになります。
ですが、過去の体験を基に未来の結果を予測し、より価値の高い行動を選択するためには、大脳皮質はそれなりの体験・学習を獲得し、ある程度の論理的な判断もこなせるようになってゆかなければなりません。このため、情動の抑制というのは大脳皮質の発達と生後学習の量に比例することになり、小さい子供ではまだ無理、ということになるわけです。
このように、精神的な成長に伴う「感受性の喪失」とは、大脳皮質の発達と生後学習による「情動の抑制」というのが最も大きな要因として挙げられます。
さて、当初から「感受性の喪失」という表現を使っておりますが、先にも触れました通り、大脳皮質が十分に発達したからといいましても、それで情動反応が抑制されるということではありませんし、大脳辺縁系の情動機能が低下してしまうということでもありません。もちろん、我々の感情というのは年齢が幾つになってもちゃんと発生します。では、もっと現実的な言い回しをしますならば、それは「情動の起伏」が小さくなる、あるいは簡単には外に表れなくなるということでありまして、我々はこれを即ち「大人」と呼びます。
そして、これが生後の体験・学習に比例して起きるということは、「新たな判断規準」が次々と獲得されることによって選択肢が大幅に広がるため、選択される行動や反応が多様化し、格段に複雑になります。その結果「情動の起伏」は相対的に小さくなり、めっきりと目立たなくなります。
情動行動を司る大脳辺縁系にも学習機能があります。従いまして、情動行動とは情動反応に伴って無意識に選択されてしまう「無意識行動」ではありますが、これは暦とした「学習行動」であります。
もちろん、喜怒哀楽といった反応のパターンそのものは生得的に定められた先天的なものです。ですから、大脳辺縁系が学習するのは、何が自分にとって利益であり、何に対してどのような反応を発生させるかの判断規準です。
まず、辛い、嬉しい、嫌だ、といった単純な反応から学習され、このような反応規準がそのひとの「個性」や「好みと」といった「人格形成の基礎」として固まるのが生後三歳ごろの「人格形成期」であります。どうしてこんなに早いのかと申しますと、それは大脳皮質とは違い、大脳辺縁系といいますのは、出生時でほほ正常に機能できる状態にあるからです。
そして、生後の体験に伴い、大脳辺縁系は更に新たな反応規準をどんどんと獲得してゆくことになります。
例えば最初の「辛い」「嬉しい」「嫌だ」に加えて、
今度は「好き」「嫌い」「欲しい」などと格段に賢くなります。
やがて友達など他人とのコミュニケーションを体験しますと、
「好かれたい」「誉められたい」「可哀相」
更に成長しますと、その社会の道徳感といったものに対しても反応できるようになりますので、
「恥ずかしい」「間違っている」から、
これは誰もが経験します通り、
「バカらしい」「無駄だ」
などと、両親や社会などに対して反抗することもできるようになります。
このように、生後体験に伴い、大脳辺縁系に新たな反応規準が獲得されてゆきますと、情動反応の選択肢は桁違いに膨れ上がってゆきます。単純な反応を繰り返している幼年期と比べますと、これだけでも「情動の起伏」はめっきり目立たなくなるわけですが、更に、ここに知能行動や計画行動といったものの選択肢が加わりますので、情動行動が選択される比率そのものが低くなります。また、より価値の高い規準が獲得されますならば、それまでの反応は発生しなくなりますし、当然のことながら、欲求が高くなれば刺激は相対的に弱くなりますが、このようなものは「価値観の変化」として誰もが必ず体験します。
そして、このようにして成長した我々は、ある日突然、少年時代のあの純真さや思春期の頃の豊かな感受性を、あたかも忽然と失ってしまったよう思えてしまうわけですが、これがいわゆる成長に伴う「感受性の喪失」であります。大人になるというのはこのようなことであり、体験したひとはみな口を揃えて「それが代償だ」と言います。
取り留めもなく長くなってしまい、たいへん申し訳ありませんが、最後にひとつ、
質問者さんと同じで、私も最近、新しいヒット曲を聴いても中々昔のような感動は味わえません。これは仕方のないことですが、誰の心の中にも「懐メロ」というものがありますよね。
この「懐メロ」といいますのは、まだ感受性の高い時期に大脳辺縁系に発生した情動反応が学習・記憶されたものです。ですから、その曲を聴けば、誰もが学習された通りの情動反応を発生させることができるんです。従いまして、大脳辺縁系にこの「情動記憶」がある限り、我々は例え幾つになっても在りし日と同じ感動を再現させることができるというわけなんです。そして、心の中にこの「懐メロ」があるということは、取りも直さず質問者さんにも私にも、かつては豊かな感受性を余すことなく発現させていた時期があったということの、動かぬ証拠になります。
感受性というのは失われたわけではありません。外に表れなくなっただけなんです。
お礼
丁寧な回答ありがとうございます。非常に参考になりました。「成長」の代償としての「感情の喪失」なんですね。スムーズに納得できてモヤモヤがすっきりしました。誰もがある事なんですね。ありがとうございました(^^)