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人は悲しむとき涙する。
1)人が悲しむとき涙する。 2)人は悲しむとき涙する。 上と下の文の違い。(1)の「が」は主格をあらわす格助詞。問題なし。 (2)では、「悲しむとき」と「涙する」の間に「が」が省略されてると考える。これは英語のit を使った強調構文に似ているが、それよりも「人は(といえば;人の話をすれば)」と捉えたらわかりやすい。 このように解説しようと思います。なにか不都合か可笑しい点があればご指摘ください。
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副助詞「は」は、結構なくせ者。 古語では、はっきりと副助詞なのですが、主格をあらわす、格助詞のようになってしまっています、現代語では。 ということで、古典の有名な言葉、枕草子より 春は曙 これを、思い出すと、「は」が格助詞ならば 春=曙 となりますが そんなわけない。 曙は元横綱 これは 曙=元横綱 (正確に言うと、元横綱という集合に曙が含まれる) 春は曙 の 「は」は、「春っていえば、曙よね」と現代語になります。○は△ と言うとき、○っていえば、△よね というのが、解釈になります。 質問者の 1)2)で言うと 1) 悲しいという条件下で 人=涙する 2) 人っていえば、悲しいという条件下で 涙するものよね という事になります。 説明する相手によりますが、枕草子を知っている程度の日本人なら、上記の説明でいいのかと。
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- 06miyachan
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再度の投稿を許してください。 たとえば、子供がシネコンの映画(幾つもある)を観に行ったとします。その内の映画の一つを選ぶ形で、「あの映画が観たい。」というのは自然だと思います。つまり、「が」の用法は「選り分け」にあると考えるのです。 ですから、次の文の場合はの「象は 鼻が 長い」という文は、「全体像である」象の特徴の内の「一つの特徴」を選ぶ形で「象の鼻は長い」という言い方になるといえましょう。これを英訳してみると、A elephant has a long nose.であることからも、「が」のつく語がかならずしも、主語になるとは言えないと思います。また、「映画が観たい」という文での「映画」は主語でなく、目的語であることからも、「は」と「が」との違いも説明できるのではないでしょうか。(詳しくは「くろしお出版」の本を参考するといいと思います。) つまり、「が」が<いま・ここ>に対する判断(よりわけ判断)を下すときに使われ、「は」は普遍的概念を述べる形になり、「それは」というような中立的な判断を下すと考えられませんか? ですから、「人が悲しむとき涙する」という文は、同じ生き物でも、「猫が悲しむとき鳴くが、犬は吼える。」というような分別判断が含まれていると考えられ、「人は」と言うときは、ただ、人類の「人」だけ考えているとするのです。 長い説明でかえってわかりにくくさせていたとしたら、お詫びしたいのですが。。。
- 06miyachan
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英語学からの参考意見として聞いていただけば幸いです。 これは、「は」と「が」との使い分けの問題でしょう? 外国人からどう使い分けるのか?という質問に対しても使えると思います。これは、時間論から説明できるのです。すなわち、「は」は過去の続きとして述べるのに対して、「が」は<いま・ここ>に発生した事柄に対して使うというものです。たとえば、次の例文を見て、時間の差があることに気づいてもらえたらうれしいのです。 ・ああ、おっか(お母さん)「は」相変わらず、畑仕事だよ。 ・てへんだ(大変だ)おっか「が」野原で倒れた。脳卒中かも? 上の文(「は」)の意味は、過去からずっと同じ事(普遍的な事柄)を述べているのに対して、下の方は目撃した視点での新しい事柄を示しているのです。 ですから、「人が悲しむとき涙する」というのは、親類の人を見かけて、「子供を失われて悲しんでいるのだな」という特殊なことを述べていると考えられます。 これに対して、「人は悲しむとき涙する」というのは、普遍的な事実を述べているわけで、どんな人でも悲しいことがあれば、きっと涙するのだろうという言い方である点で、異なっているわけです。「が」を主格を表すものと説明すると、次の文を説明するときどうするのでしょうか? ・あの映画「が」見たいの。 ・あの映画「を」見たいの。 長い投稿は認められていないようなので、この辺で打ち切りますが、「が」が新しい事実を述べるのに対して、「は」は分かり切ったこと、普遍的な事実を述べるときに使われると考えてみたらどうでしょうか。
こんばんは。遠い昔に助詞について、授業で習ったはずなのですが、あまり覚えておらず、私が文章から感じたことで良ければ、ご覧になってください。 1)人が悲しむとき涙する。 「が」は格助詞と辞書にありました。 「人が」は「悲しむ」という言葉にかかっています。(悲しむ、それは誰か) また、「悲しむとき」と「涙する」の間に、「誰が、何が」涙するのかが、省略されています。 「人が悲しむとき」何がどうなるかを、説明している文章に思います。 この文章に他の言葉を追加するならば、 「人が悲しむとき、この大地も涙する。」とか、「人が悲しむとき、人は涙する。」とか。 2)人は悲しむとき涙する。 「は」は副助詞と辞書にありました。 「人は」は「涙する」という言葉にかかっています。(涙する、それは誰か) また、「悲しむとき」と「涙する」の間に言葉が省略されているとすれば、「が」ではなく「に」では。 「人は涙する」それはどういうときか、を説明している文章に思います。 この文章に他の言葉を追加するならば、 「人は悲しむとき涙する。そういう生き物だ。」とか「人は怒ったとき、悲しむとき、喜んだときにも涙する。」とか。 日本語は、深いですね。考えていたら、わからなくなってきました。 ご参考になれば、幸いです。