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クンダリニーヨーガと禅定の関係
クンダリニーヨーガと禅定の関係について教えてください。 私の考えでは、クンダリニーヨーガは欲界レベルの経験だと おもっています。同じものだという意見もあるので、 教えてください。
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- kigurumi
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師と仰がれている人の理解によって、まちまちな気もします。 が、調べてみました。 <禅定> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A 『心を統一して瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなり、安定した状態。』 <禅定道> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%9A%E9%81%93 『禅定道(ぜんじょうどう)とは、禅頂(山頂)に登ぼるまでの山道を言う。 富士山・立山・白山などの霊山に登って修行することを禅定という。』 <ヨーガ> 『個体魂の、神への結合及び結合を実現する方法を指す。』 <クンダリニー・ヨーガ> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC 『ムーラダーラに眠るというクンダリニーを覚醒させ、身体中の気道やチャクラを活性化させ、悟りを目指すヨーガ。』 こうやって比べてみますと、禅定とは動揺の無い安定した精神の【状態】のことを指し、クンダリニー・ヨーガは禅定にいたるという目的で行われる【手法】を<主に>言うような気がします。 いづれにせよ解脱という最終目標があり、その目的に至るまでの方法が、派閥?によって「これが正道」と言っているだけのような気がします。 >クンダリニーヨーガは欲界レベルの経験だと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC 『クンダリニーの上昇を感じたからヨーガが成就したというのは、全くの誤り。また、火の呼吸=クンダリニー・ヨーガというのも誤り。チベット仏教のトゥモ・ヨーガ、完成のヨーガや、中国の内丹術などとも内容的に非常に近い。 クンダリニーが一旦上昇を始めると、本人の力だけではそれをコントロールできなくなることがある。 具体的には、クンダリニーが上昇して頭部に留まってしまい、それを再び下腹部に下げることも、頭部から抜けさせることもできなくなり、発熱や頭痛、またそれが長期に渡ると、脊髄を痛めたり、最悪の場合精神に異常を来すことさえあるということである。 従ってこのヨーガは、自己流又は単独実践は絶対に避け、然るべき師に就いて実践すべきである。 「然るべき師」と書いたのは、単に知識豊富で多少の呼吸法ができる師ということではなく、自身がクンダリニー上昇の経験を持ち、且つそれを制御できる師ということである。 そうでなければ上昇を始めた他人(弟子)のクンダリニー制御など全く不可能だからである。 』 ↑ 精神異常をきたす危険をはらむものなので、自宅で一人では絶対にやってはいけないってわけですね。 『自らクンダリニーを制御出来る等と口外する人物はその時点でそうした事柄に対するこだわりを棄てきれない、ヨーガの精神と全くの相反する生き方をしていると世間にアピールするようなものであり、そうした人物に対して師と仰ぐのは危険 』 ↑ こういう自称コントローラーとする人が、「自宅で気軽にできるクンダリニー・ヨーガを本にまとめてみました。 今ならたったの5千円。」 とか 「クンダリニー・ヨーガの修行会。今なら夏休み特別企画キャンペーン期間中につき泊り込みで3食つきでたったの40万」 など言う師は避けるべきですね。 このような自称覚醒者が世の中に反乱しているので、【俗界レベル】という印象を持つのではないでしょうか。 ヨーガはそれを指導する人に国家資格や免許が必要無いので、詐欺で裁判を起こされない限り、誰でもやれますよね。 仏教系の修行会だと、お寺が開いていると思うし、そのお寺も総本山の意向を仰がないと勝手に開けないと思うので、誰でも気軽に参加できるという敷居の低い講座を開けないようなシステムになっているように思えます。 逆にヨーガは民間団体が開催できるし、免許が無いので、誰が募集をかけても違法ではないし、現実ビジネスとして成り立っていますし、その講師料で生活をしている人もいるわけですから。 しかも「うちこそ真のヨーガ道場」など広告しても、誇大広告としてJAROから摘発されることは無いでしょうし。
補足
方法と結果の違いだという見解のようですが、仏教とヨーガで 方法が違って結果が同じというのはちょっと納得がいかない ところです。 仏教の禅定にクンダリニーに対応するものはないですし、クンダリニー ヨーガの熱や光の体験が禅定と一致するとはとても思えません。