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暗示的な出来事
カテがよくわからず、ここでいいのかと思います。 主に、人間関係(恋愛関係)や所属集団との関係についてです。 上のような新しい人間関係が開始されるイヴェント的な出来事と同時に起こることが、どうもよくない場合があります。女性に告白された告白した日に、外で親子丼を食べたら肉が生煮えだったとか、すしにあたったとか、面接に行って採用手続きをしたら、駅のトイレで人の排泄物に不快な思いをしたとか。そういう、明らかに日常的でないイヴェントがあった事柄があって、そういう関係は大抵よくない結果に終わる感じです。もちろん、そういうことがなくても、よくない結果に終わることもあります。しかし、不快な印象を残す出来事とともに始まった何かは、ことごとくうまくいっていません。 これはどういう風に考えたらいいのでしょうか。本当に何か暗示的なもの(やめておけと言うような天の声的なもの)があるのでしょうか。
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要するに「予兆って、本当にあるのか?」ってことですよね。 疑似科学の領域だと思います。 だから、どちらかというと信仰の問題。 あなたは予兆を信じますか?ってことですよね。 あなたは占いを信じますか?とほとんど同じだと思います。 まあ、よくある話だと ■昨夜、田舎のおばあちゃんが息を引き取った。 そういえば昨晩、裏の神社で烏がさかんに鳴いていた。 思えばあれが予兆だったのかも知れない。 ってやつですか。 昨晩の出来事は何も「烏が鳴いていた」だけではない。 でも、人はえてして不幸に遭遇したとき その前にあった「不吉と言われる出来事」に結び付けたがる。 烏の鳴き声を聞いたとき、その人は庭に咲いたキレイな花を見ていたのかも知れない。 でも「キレイな花が咲いた→もしかして田舎のおばあちゃんに不幸があったのでは?」 と考える人はいない訳で。 つまり常識的に考えれば予兆は単なる迷信ですが この世の全てが常識で計れる訳じゃない。 超自然の力はあるかも知れない。 でも、これは我々の常識を超えた領域の話ですから > これはどういう風に考えたらいいのでしょうか 個人個人の考え方や価値観に任せるしかないと思います。 少なくとも私は、駅のトイレで人の排泄物に不快な思いをしようが 面接に行って無事採用手続きに至ったコトの方が嬉しいです。 もし神様に「ちゃんと火の通った親子丼」と「女性からの告白」 どちらをとるか?と言われたら、そりゃぁ・・・
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NO8,9の方、自由意志(意思決定の自由)というのは原理上の自由の問題であり倫理的自由とは違います。 倫理的自由は行動の自由に含まれ、決定論と両立しうるものです。 自信有り気にしては随分といい加減ですね。 もう少し勉強されてから投稿した方がよろしいのではないでしょうか(笑い。
ANo.8です。 些細なことですが訂正。 ×人はえてして不幸に遭遇したとき その前にあった「不吉と言われる出来事」に結び付けたがる。 ↓ ○人はえてして不幸に遭遇したとき その前後にあった「不吉と言われる出来事」に結び付けたがる。 折角なので、少々追加。 今日、何を着ていこうか?なんて迷ったとき その日の占いのラッキーカラーを参照する、ぐらいのことなら 何の問題もないと思うのです。 ただ、もっと重大な決断をするとき 占いや迷信、予兆などに委ねてしまうと 万が一、失敗したときに責任が取れなくなっちゃうと思うんです。 会社の社長が経営判断を占いに頼って失敗したとき 社員や株主に何て言うの?ってことです。 一方で、全ては自由意志、自己決定というのも 行き過ぎるとある意味、生き方が傲慢になってしまうと思います。 自分の意思だけで、自分の力だけで、生きている訳ではない筈です。 何か支えられ、生かされている部分もある筈で その部分に対する畏怖や感謝の念も忘れてはいけないと思うのです。 そういう意味での「天の声」というか 直感とか身体感覚みたいなモノを、ある種の戒めとして 機能させる必要はあると思います。
お礼
私はつくづく疑問です。いまだに民間信仰というのは健全というか、衰えを見せませんね。建設のお祓いとか、魚供養とか、そういうものが幅を利かせています。これは人を「戒め」の方向に保っているのか、それとも、意味のない迷信に入り込ませているのか、なんともいえません。 これは「心理的」な面であって、客観的減少としての偶然性とはまた別問題なわけですけども、真理的な姿勢でもって随分見方が変わるものですから。 心理的には心霊と友達になるくらいで行けばいいと思います。客観論は人知を持って検討しなければならない課題でしょう。
- kigurumi
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フラシーボ効果というものをご存知でしょうか。 http://www.ntv.co.jp/FERC/research/19980201/f0313.html <暗示にかかる>というのをご存知でしょうか。 例えば、「この人はよく当たる占い師」と紹介され、占い師に「あなたは今日は階段に気をつけなさい」といわれたとします。 暗示にかかりやすい人は、注意したにも関わらず、階段でコケます。 フラシーボ効果です。 コケなかったのしても、駅でいつもは階段を昇るのに、なんか調子が思わしくないと思って、エスカレータにしたところ、階段に方でキャーという声。 横を見ると、女性がコケたようだ。 その場所は自分が階段を使っていたら、そこにいた場所。 「占い師に言われていたので助かった。」 果たしてそうでしょうか? 階段でつまずく人、ちょっとけつまずいてバランスを崩す人はたくさんいます。 私たちはそれらは日常起っているので、気にもとめません。 ですが、占い師に言われた後だと、とてもとても気にとめるのです。 「助かった!」 ほんとうにそうでしょうか。 毎日こけている人たちが回りにいるのに、全く気にもとめないのに、この日ばかりはすごくコケた人に注意を集中し思考してしまう。 人間はいい事を言われるより、悪い事を言われたほうが強烈な印象を持ちます。 以前テレビである占い師がタレントに「あなたは 死ぬ!」と言いました。 ものすごい形相でにらみつけました。 催眠です。この一瞬にして脅すことで催眠にかけるやり方を驚愕法と言います。 一瞬にして相手を補足し、催眠をかけ自分が言ったことを信じ込ませる。 この死ぬという単語はとてもインパクトを持ちます。 誰だって死ぬと言われたらとてもいやです。 言った人に意識を集中し、その人の言うことを信じやすくなる人も多いでしょう。 よく当たる能力の高い占い師? この人は職業は占い師ですが、占い師じゃあありません。 実際やっているのは占いじゃなく催眠術です。暗示です。 催眠を使って占いという名目で金を稼いでいる詐欺師です。 暗示にかかりやすい人は「この人はよく当たる占い師です」と言われた時点でもう暗示にかかっています。 さらに暗示にかかりやすい人は「あなたは今日コケる」と権威ある占い師とさらた人に言われたら、どんなに注意してもコケます。 だって「コケろ」という暗示にかかってしまったのだから。 後は実際にコケるので、当たる占い師とすがり、詐欺師にどんどん金を吸い取られる。 逃げることは難しい。 だって相手に暗示で補足されてしまったのだから。 金が尽きてやっと暗示を受けに通えなくなり、暗示から解ける。 (催眠術 暗示は時間の経過とともに解けます。だから通いつめるように誘導されるのです。 暗示が解けると操るのを最初からやらなければならないので詐欺師もめんどくさいんでしょう。強い暗示にかかっている人は、詐欺師が言わなくても、時間をかけずとも、カモの方から勝手に金を貢ぐためせっせと通ってくるので、簡単な言葉をかけるだけで、毎回がっぽり儲けられる。) メカニズム おわかりでしょうか。 病は気から。 気にしないことです。 100あって、99のいい事を無視し、1の悪いことのみに集中し、「当たった」など思わぬこどえす。 99のいいことを無視し、たった1つの悪いことを重要視しないことです。 暗示にかからないことです。 (といっても体質なので、かかりやすい人は「かからないぞ」と思った時点で既に自己暗示にかかってしまいますが) この自己暗示を有効活用する人がいます。 スポーツ選手や芸能人です。 オリンピック選手でも強い人は、これを自分で操れる人です。 ジンクスってご存知でしょうか。 迷信です。悪い自己暗示です。 自分が作った悪い自己暗示により不幸になっているにしかすぎない。 普段気にしないことを、自己暗示により気にしてフラシーボ効果により、どんどんひどくなっていく。 いい方を見ないで、悪い方に釘付けになり集中してしまうと、どんどん悪い方に流れていく。 目を背けなければダメです。 悪い方から目を背け(思考を切り離して)、いいイメージを持つ。 そうすれば悪い自己暗示にかかって実質以上のダメージを受けるという無駄なことをしなくてすみます。 悪いことに関連づけるのではなく、いい事にさらにいいイメージを関連づける。 って人に言うのは簡単なんですけど、、、、私 暗示にかからないので、いいイメージを空想しても、簡単にお気楽な心にはなれないんですよね。 笑 暗示がかかりやすい人は、簡単にできるんでしょうけどね。 見る方向を変えるだけで、ハッピーになれこともできる。 それが、暗示にかかりやすい人の徳ってものでしょうか。
お礼
「あなたは死ぬ」というのは「当たり前じゃないか」とはねつければいいんですよね。気持ちを強く持って、この茨の世の中で、ななんとか自分を確立するのだというオプティムズムを持って進む事が重要ですね。そのさい、いい暗示を強いて自分にかけることは、異端ではなく、常道なのでしょう。
おはようございます。 天の声があるということは、われわれに自由の意志が存在するということでもあります。 というのもすべてが決定されているとするならば、わざわざ我々に何かを暗示する必要が無いからです。 だから天の声が存在するということは、我々に選択の自由が赦されているということであり、我々は自分の力で未来を決定することができるということです。 そして運命や宿命という言葉はまったく無意味なものとなるでしょう。
お礼
天の声の利用法ですね。
- kobarero
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「性格=運」だと言います。 暗示的な出来事を「どう解釈する」かは、性格によります。 親子丼の肉が生煮えなら、「もっと良く煮れば良い」わけで、”女性に告白された告白した日に”という「意味のよくわからない日本語」に悩むより、もっとよく煮詰めれば、問題は解決されます。 また、「面接に行って採用手続きをしたら、駅のトイレで人の排泄物に不快な思いをした」としても、そもそも普通の人は、そこに何らかの暗示があるなどとは、思い付くことさえないと思いますが、譬えあったとしても、現代日本における「排泄物」の特徴は、「きれいサッパリ流れ去る」ということですから、採用問題も、きれいさっぱり流れ去ると思います。あるいは、今回の面接に失敗するかも知れませんが、「悪いものが流れ去る」わけですから、自分でも気付かなかった、もっと別の人生の可能性が切り開かれるということです。
お礼
なにか暗示的なものに出会ったら、意志の力で吹き飛ばすというのが正しい行動のような感じがします。
暗示的な出来事ですが、それが暗示かどうか見分けるのは難しいですね!ようは自分がどう感じるかでは? 私は質問者様と同じように何かが起こるタイプです。主な原因は、そそっかしい性格からくると自分では考えています。それだけではないかも知れませんが・・・。正夢よく見るし。 今年に入り、交通事故を起こしました(--)運転する前主人に散々止められたり、他の出来事もあったのですが、人生初の交通事故です。 それ以来無理をするのをやめました。 何か一つ引っかかる悪いことを感じたら、偶然かも。 次に何か感じたら、これは”やめておけという天の声” そう自分の中で位置付けしてます(^^)
お礼
不可思議に感じることをどう処理したらいいか、難しいところですよね。なかなかためになるお話です。暗示的なことがあってそれをきっかけに何か習慣をよいほうに変えるというのは、いい利用法ですね。
- judas_2006
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あくまでご参考ということで(参考にもなっていないかも)。 参考URLに挙げた本が、bossambaさんの疑問に多少応えてくれるかもしれません。私は(健忘症のせいで?)内容の殆どを忘れてしまったのですが、例えば、過去にあった出来事Aが、時が経て起こった出来事Bと本当は関係なくても、意識の中で結び付けてしまい、Aを運命的出来事と思い込むみたいなことが、本書の前半に出てきたように記憶しています。bossambaさんの例では、「親子丼を食べたら肉が生煮え」という出来事は初めてかもしれませんが、外食で、オーダーをちっとも取りに来ないとか、オーダーと違ったものが出てきた/出るのが異常に遅いとか、テレビでベタボメだったレストランに行ったけどまずかったとか、他にも色々なトラブルをご経験されているはずですが、たまたま「イヴェント」がなかったから忘れ去られ、、「親子丼を食べたら肉が生煮え」はたまたま「イヴェント」があったから運命じゃないかと意識してしまう、というようなことだと解釈しています。本書ではさらに深く思索が進んで行くのですが、前述のように大半を忘れてしまったので、URLに載っているカスタマーレビュー等をご参考になさって下さい。 因みに私は、自分に良いことがあったら亡くなった人(私の大切だった人)がプチ幸運を届けてくれたように思いますし、良くないことがあったらあまり調子に乗り過ぎないようにと注意してくれたように思います。そういう風に思っていると(本当は全然違うのかもしれないなぁと思いつつも)、亡くなった人に見守られているように感じます。
お礼
そうですね。確かにイヴェントがなくてわるいことはあまり覚えていません。しかし、悪い事の頻度は非常に低いです。それがイヴェントと重なっている事にやはり疑問を感じます。
>本当に何か暗示的なもの(やめておけと言うような天の声的なもの)があるのでしょうか。 このようにお聞きになっていますが、この場で「そうですよ、それは天の声ですよ」と回答する人などいるでしょうか。 非科学的な話題は、人によって宗教観など違いますし、ここでお聞きになることではないと思います。 非科学的でなく、現実的に分析して考えられることは、日常的でないイベントがあった時というのは、印象にも記憶にも残りますよね。 だからそれと同時に起きたことも強い印象を持って記憶されるとは考えられませんか。 つまり、不快な出来事が起きている確率としてはいつも同じだけれど、非日常的なイベントとか自分にとって大切な日というのは、「不快なことが起こって欲しくない」と「意識」することによって、不快なことが起きたことが特に強く印象に残る、ということではないでしょうか。 よく、自分が興味を持ってよく知りたいと思っていたところに、本屋に行ったらまさにその本が目に飛び込んできた・・・というのと同じです。 その本はいつもそこにあったし、視界にも入っていたのです。 でも自分が意識したから視界に入ってきたときに「認識」したというだけなのです。 よく考えてみてください。肉が生煮えだったり寿司に当たったり駅のトイレで不快な思いをしただとか、そういうことに出くわす確率は、いつも同じではないですか?普段だって不快なことに遭遇することはありますよね。 それによって人間関係が悪い結果に終わることが多いというのは、あなたがそういう意識を持っていることが人間関係を無意識に悪化させているか、あるいは単に人間関係の作りかたに何か欠点があるのかもしれません。
お礼
それは考えすぎというか、過度な公平主義、あるいは科学的思考の行き過ぎではないでしょうか。やはり「非日常」的な出来事だから印象に残っていて、また暗示的なんですよね。
小説の中の文学的暗示を思わせる内容ですが、みんなたまたまではないですか。 意味ある偶然なら、不運の予兆とか、凶のきざしとか思えますが、運勢があまりよくないときに、節目が来たというのが、本当でしょう。 私でもありますよ。子供の学校説明会の日に貧血になりました。そのとき、ここは受からないんじゃないかなぁという気がしました。昨日、私立の個別相談会に行ってきて、ほぼ内定を戴きましたが、やっぱり貧血の起きた学校には縁がなかったですね。 私もそうですが、あなた自身とても勘が鋭いのではないですか。だから、予感や予兆を感じるのです。 あまり気にしない人には、不運や不幸を結び付けて考えることはないし、暗示にかからないのだと思います。 今度、そういう運命を感じたら、何か跳ね返すおまじないを考えておくといいですよ。気にしないのが一番、運命など、好転することもあり得ます。
お礼
感ということと実際起こる事とは、ちょっと違うような気がするのです。もちろんよくないことを拡大解釈している嫌いはありますね。しかし、もし「貧血」になった学校に受かってしまったら、回答者さんの論理は根底から覆ってしまいますよね。 で、やはりこれが不思議で、よくない印象があったことで成功に導けた事があればまた新たな考えができそうなんですけどね。
お礼
どうも、不幸な前兆というのをいやなことと結び付けるんですよね。いいころを幸運な前兆とはあまりみなせない。どうも悪いほうを重視してしまいます。これを克服しなくては生きていけません。 予兆とか前兆とかに心を尖らせない事が重要なのだと思います。そんなものへだと思えば。