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ホラーとギャグがミックスした映画があったら
- ホラーとギャグがミックスした映画が存在するとしたら、人々はどのような感覚を抱くのだろうか。
- 架空の作品であるが、商業的にはありえない組み合わせであることがキーであり、それによって人々の意識や行動がどのように制約されるのかに興味がある。
- このような作品を見た場合、人々は一種の悪夢のような状況に陥り、現実とのギャップを感じることになるだろう。
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1つ目の質問の回答を書いていたら、締め切りになっていましたので、以下に添付します。2つ目の質問については、やはり、シュルレアリスムと関連させて考えると面白いかもしれません。 ------------------------------------------------------------------------------------------- おもしろい質問ですね。 ご質問の通りですと、既成のビデオを持って来て、同時に見るという話ですが、既成のビデオだと、登場人物やストーリーが全く異なるので、見る人は、筋を追うことができず、どちらにも集中できなくて混乱するように思います。要するに、全く、関係のない2つのものが同時に流れていると思うだけで、それ以上の効果を期待するのは難しいのではないでしょうか。 そこで、一定の効果を挙げるためには、何らかの加工をする必要があると思います。例えば、ホラーに出てくる主人公とコメディーに出てくる主人公を同じ人物・衣装で登場させるとか、あるいは、ストーリーが展開する舞台を同一にするとかの工夫をすることにより、「えっ? 何だこりゃ?」という興味が引き出されると思います。そして、やはり、最後には、何故、そのような異質なものが同時並行で進行して来たのか、その意味がわかる、あるいは、暗示させるようなストーリーが必要では ないかと思います。 要するに、2つの異質なものをただ機械的に並べるだけではなく、その2つのものが並ぶことにより、今まで気付かなかった新たな視点による2者の「関係」を引き出すような「しくみ」が必要だと思います。ホラーとコメディーの例では、「パロディ」にすると面白いかも知れません。 ホラー映画には、ホラー映画の「約束事」があるわけですが、それを「コメディー」と合体させることにより、踏み外してしまうことも可能です。例えば、不気味で恐怖感を感じさせるホラーの主人公がたまたま横を通り過ぎた美女に、つい、目が行ってしまったり、まさに凍りつく恐怖の瞬間に「プーッ」と放屁をしたりするなどすると、結構笑えます。 ただ、それだけだと、「コメディー」そのもになるので、「プーッ」と噴出したガスは、実は、特殊催眠ガスで、幻覚を生み出すとかいう話にして、また、本来の「ホラー」に引き戻す必要がありそうです(なかなか難しいそうですが)。 「パロディ」に関しては、「パロディの理論」 リンダ・ハッチオン 未来社 などがあります(ご参考まで)。 >違う要素を持った2つのものが出会うとき、何か生まれないだろうか? これは、まさに、シュルレアリスムのキーコンセプトの一つである「デペイズマン」という考え方です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%B3 本来、異なった環境や場所に置かれていたもの、あるいは、言葉であれば、元々、異なった文脈に置かれていたものを同じ場所や文脈に持ってくることで、新しいイメージ、印象、美などを生み出す手法です。
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- kobarero
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あれっ? 私の早とちりで、質問を読み間違えたみたいです。済みません。ちりばめるんではなく、グラデーションですね。 >グラデーションのように、はじめホラーが最後にギャグあるいはその逆になっている、という作品があったら、人はどういう感覚を抱くのでしょうか? 「先ホラ後コメ」は「コメディ」になり、「先コメ後ホラ」は「ホラー」になってしまうのではないでしょうか? そして、そのような手法は、必ずしも新しいわけでなく、怖さや笑いを強調するために比較的よく使う結構常套手段のような気がします。 私は、SF系が中心で、その他の映画はあまりみないので、詳しくはわかりませんが、「初めは、何だか、ふざけてばかりいたのが、最後には、深刻な結末を迎える」というようなTVドラマや映画は何度か見たように思います。同様に初め、ぎゃはぎゃは笑っていたのが、段々、怖くなって、ついには、笑いが凍り付いて恐怖のどん底に落ちるという映画もあったと思います。
お礼
やっぱり時間的に後のほうが利いてしまうんでしょうね。じゃあやっぱりもう一度最初の雰囲気に戻るという感じでないとだめだったかもしれません。しかし、あるんですねこんな映画も。
- kobarero
- ベストアンサー率29% (106/361)
あー、この方が、さらにおもしろいかも知れませんね。 「ギャク」は「笑うもの」という常識があるのですが、その常識を破壊して、「ホラー」の中にちりばめると独特の効果が生まれるような気がします。 例えば、「ホラー」映画の中で(決して「コメディ」映画ではなく)、心理的に異様なキャラや不気味な存在者が、互いに「ギャグ」を飛ばすのですが、両者とも、一切笑わない、あるいは、作り笑いをする。そして、その場には、ただただ乾いた空気が流れるだけ。にも関わらず、 何故か一所懸命パラノティックにギャグを飛ばす、そういう状況を作れれば、我々常識世界に住む住人とは、別な異界の住人の雰囲気が出てきて、こわさが増すかも知れません。 また、「コメディ」をやりながら、今度は、本当に大笑いしてながら、何気なくテーブルの上の果物ナイフを取って、相手の首をゆっくり切り落とす。切り落とされている相手は、意に介せず、大笑いしがら、床の 上に頭だけ転がり落ちる。そんなのも結構、怖いかも。 これに近い実際の映画で、ちょっとタイトル忘れましたが、食事中に、自分の頭蓋骨を上だけスパッと切ってもらい、脳みその一部をスライスして、それをフライパンで炒めて、おいしいおいしいと食べるシーンがでてくるのがありました。あれも、結構、こわかったです。 この種のものは、商業的に有り得ているので、質問者の方の考えているものとは異なるかも知れませんが、ご参考までに。
お礼
私の映画知識なんてどうしょうもないものなので、いくらでも商業主義にのっとってグラデーションがある作品とか、ご回答のようなちりばめてあるものがあるのでしょう。これはたとえてみると、ラーメンと懐石を同時に食べるようなものですよね。それは確かにパワーがあるものだと思います。なんというか、隠し味的に「異質なもの」が出会ったとき、やはりそれなりの効果があるのでしょうね。 しかし、私の見た悪夢のようなものもどうやら#4の方によると、あるようなのですよね。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
私はほとんど映画を見ない人間なのですが、フランス映画を好む方というのはかなり変態度が高いですね。また、コメディー映画とホラー映画を交互に見るなんて相当の変態プレイですね。 さて、ご質問に真面目に答えますが、たぶん、ほとんどの方が「つまらない」と感じると思います。はじめホラーで最後がコメディーになってるとコメディーが笑えないでしょう。なぜなら「これはコメディーで笑っていいのか、それともホラーなのか?」と判断できないからです。またその逆だとホラーがつまらなく感じると思います。 「いやいや、俺はホラーとコメディーを交互に見ると面白いぜ」と思われるかもしれません。それは、質問者さんが変態だからです。世の中では女性がウンコしているビデオを見てオナニーする奴がいます。でも、大部分の男性は女性がウンコしてるところを見ても興奮しません。興奮する人を変態と呼びます。 善意に解釈すれば、新しすぎる人は世間の理解を得られません。現在最も高値で取引される画家のひとりであるゴッホがその存命中はたった1枚しか売れなかったことは有名な話です。もしかしたら、数百年後の世界ではそんな映画が普通かもしれませんね。 なお、新しい質問をするときは、以前の質問を締め切るのがここでの礼儀です。
お礼
以前の質問とは趣旨が違うので違う質問という設定にしています。フランス映画の「リュミエールの子供たち」というのがあって、これは別にホラーとコメディをモザイクにしたわけではないんですが、ありとあらゆるフランス映画100年分の作品を、それなりに関連性がある所をつなげてモザイク作品になっているというやつがあります。これとちょっと関連性はあるかなという気がしました。 しかし、交互鑑賞は実際にはやったことはありません。思考実験でどうなるかみたいな段階です。 しかしご回答の中に下線を引くべきところがあります。 >「これはコメディーで笑っていいのか、それともホラーなのか?」 つまり、何かを提示されるとその提示物に対してのあらかじめ心構えというものを作るということなのです。これは純粋でない!そう社会規範がこんなところにもはびこっているのです。なんだかわからないが見てみて、面白かったら笑えばいいし、こわかったらこわがればいい、いっそ、ビデオの福袋のように真っ黒なパッケージがあってもいいかもしれません。
お礼
ご回答のように制作された作品というのは、おそらくダダ的ではないでしょうね。十分商業主義にのっとった姿勢だと思います。それは面白いんだと思うけれども、なにか破壊力がいまいちというか。しかし人口に膾炙するというためには必要な措置なんでしょうね。 シュルリアリスムのデペイズマンですけど、これは非常に民主主義的なんじゃ内科という気がしていました。というのも、階層化しない、あるいはおのおのの構成要素の世界を開いて、多と交流するという姿勢ですよね。これは貴族社会というようなものとの対です。非常に私的には共感できるんです。岡本太郎の「大局主義」なんていうのもこれの亜種なんじゃないかという気がします。