もともと、「人権」という考え方は
大変に「イデオロギー的」なものです。
生まれた経緯からいっても、完全に「政治的イデオロギー」あるいは「プロパガンダ」の産物です。
まず、「人権宣言」の元ともなった、米国の独立宣言ですが、
その中には、
創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。
とあります。
ここで注目して欲しいのは、「創造主」という言葉です。
「創造主」とはだれか、、、。
もちろん、「キリスト教の神様」です。
つまり、「キリスト教の神様」によって与えられた権利な訳です。
ということは、「キリスト教」の信者でない人には「権利」は与えられていないという論理が成り立ちます。
そして、この論理のもと「キリスト者以外の人」の「人権」は、たとえ侵害しているようでいても侵害していないのです。なぜなら、キリストの神を認めなないなら、そもそそ「権利」自体発生しえないのですから。
もちろん、これに続く「フランス人権宣言」もあくまでも「キリスト者」のための「権利」の主張です。
では、「世界人権宣言」はどうでしょうか?
宣言内容を読む限り、キリスト教色は大分薄められているように思います。
しかし、前文に「国際連合の諸国民は」という文言があることから、やっぱり「国際連合の加盟国」で無ければ「人権」は認められないことになります。
また、「法の支配によって人権保護すること」とあり、「法の支配」がなければ「人権」はあり得ません。
と、以上のように「イデオロギー的でない人権」なんてあり得ないと思います。
>人権には本来持ち備えた人権とは別の人権が存在し、後者を人権と呼んでいるのか、前者を対象としているのか?もしくは融合したものが望ましいのか?
人権は、最初は「キリスト教の神」が与えるモノでした。
それが、国際的合意を得て、「法」が与えるモノとなったわけです。
つまり、「本来持ち備えた人権」などなく「法」が与えているに過ぎません。
では、「法」とは何か?
もちろん、国連が定める「国際法」でしょう。
そして、この「国際法」が及ぶ範囲は「国連加盟国」までです。
それ以外は及ばないのではないでしょうか?
少なくとも「法治国家であることが最上である」と僭称するのであれば、「法を超える」ことは許されないはずです。
では、「国連加盟国」ではどうか?
これは「国際法」と「主権国家の法」がどちらが上位に来るかでかわるのではないでしょうか?
勉強不足なため、そこまではまだ調べ切れていませんが、もし「主権国家の法」が「国際法」に勝るのであれば、いくら北の国が「自国内」で「拉致」をしまくってようが、言論弾圧してようが、「人権侵害」とはいえないでしょう。(「日本人の拉致」は、日本国内で行われているので「日本の法」が適用されるでしょう)
逆に「国際法」が「主権国家の法」より上位にくるのであれば、北の国が行っていることは「人権侵害」になり得るでしょう。
長文になってしまいましたが、もともと「人権」とは「イデオロギー的」であり、現在の「人権」といえば「法」が定める「人権」です。
つまり、「生まれながらにしての権利」を与えるかは「法」しだいとなります。
お礼
結論にいたる過程のディテールにこだわれば、若干の相違はあるものの、「なるほど」と素直に感じました。 個人が生きようとすればするほど、隣人との関係を無視できず、合理性、利便性などの知恵を働かせた方が生活の安定が望めることが検証され、この共同体は国家になる。国家はその運営上、法律を定め円滑な運営に努めるが故人権を与える。と考えたほうが、やはりスッキリします。 国家>法律>人権としたほうが、矛盾が少なく感じます。が、しかし、恐らくはこの状態に「普遍性や絶対的真理はない」ように感じますが、そうであっても、気づく気づかない、思う思わない(または思いたくない)にかかわらず、大衆に浸透したものなのかと感じます。 人権>法律>国家であると捉えれば、人権運動によって明日にでも国家が変わりそうなモンですが、その限りでない現状を考えたら、なおさらです。 大変参考になりました。 秀逸なご回答ありがとうございます。