• ベストアンサー

ルイ14世がパリを逃れた理由

フランスのルイ14世がパリを逃れて、ベルサイユの城?を宮殿に変えた理由は、 一般的にフロンドの乱の記憶があり、パリを嫌った為だと言われていますが、 パリの街の不衛生な状態を嫌ったというのも大きいのですか? パリだけではないと思いますが、2階の窓からは汚物が捨てられ、川には死体が流れ、 疫病も流行りやすそうな環境だったようですが、ベルサイユもトイレがなく、 住んでいる方はおまるを使っていましたが(これは、華麗なソース入れのような柄のおまるを見たことがあります)、 他は「薔薇摘み(この言い方が本当かどうかは存じません)」といって、庭でしていたと読んだことがあります。 やはり、どちらも不衛生だとは思いますが、パリを逃れた時の理由には、どういう理由が挙げられているのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.5

マリー・アントワネットの専用トイレは ベルサイユ宮殿に今でも展示されてあります。 他人のブログですが写真です。 http://static.flickr.com/9/12772780_77b393a9fd_o.jpg 現実的にはトイレもオマル/尿瓶も両方利用していたと思います。 ベットの脇で用を足せるのは、歩かないでいいので楽だし、 脱ぎにくい邪魔な服も気にせずできるし、ずぼらな王侯向き。 下僕が後処理もしてくれるし、まさしく貴族の特権といえるでしょう。 ちなみにセレブな王侯のお尻ふきは絹きれです。 水洗トイレは18世紀に飛躍的に発展しました。 初期のタイプは排便した跡が残って、 召使いが手で洗わなければなりませんでしたが 水をためて弁を開いて一気に汚れともども流す 形式ができたのが1777年。 陶製の便器で現代のと変わらないのができたのは さらに百年後の1870年代ですが ルイ16世の頃は人手が必要な部分があるものの 王侯にとってはもう十分に実用に耐える トイレが完成していました。 ちなみに発明された水洗トイレはズバリ金持ち用であって 公衆トイレに水洗が用いられるようになるのは もっとずっと後。

platina-angel
質問者

お礼

再びありがとうございます。 ルイ16世が水洗で、王妃が水洗でないという差別?がどういうことなのか分かりませんけど、 絹切れは使い捨てでしょうね。 どちらにしましても、今のような下水道完備、あるいは古代ローマの主要都市のような衛生的な生活からは程遠そうですね。 詳しくどうもありがとうございました!

platina-angel
質問者

補足

皆様、色々詳しく教えていただき、どうもありがとうございました!

その他の回答 (4)

  • ikazuti
  • ベストアンサー率27% (130/469)
回答No.4

治安上の理由もあったかと思います。 パリというのは、とにかく道が入り組んでいる町でした。新しい建物は全てが場当たり的、道は狭くて左右に建つアパートによって日は遮られて昼でも薄暗く、肉屋や下水道(まともに整備もされてない)、墓場(共同墓地は土もかけられないまま死体が放り込まれていたそうです)のお陰で空気さえも濁っている、という有様。 そんな乱雑な町ですから、一度市民が武装蜂起すると手がつけられない状態になります。 軍は移動に難儀するような町で、誰が反乱者かもわからず闇雲に探し回るのに対して、武装反乱者は逆にその道を利用して散り散りに逃げ、追っ手を交わすことが可能になります。 また、こんな町ですから衛生状態も極悪で、ひとたびコレラでも流行ろうものなら死体の山が築かれていたそうです。 そんな町に、誰が住みたがるかと思っても不思議じゃないというか何というか。無論、当時の人たちにとってはそれも普通だったんでしょうが、ちょっとでも頭が回る人なら脱出したがってもおかしくないです。 このパリが近代化された都市となるのは、ナポレオン三世の時代を待たなければなりません。割と評判悪い皇帝ですが、やることやってるんですよね、この人。

platina-angel
質問者

お礼

ナポレオン3世についてはよく知りません。興味はオーストリアその他ドイツ語圏に移ってしまって…。 以前、大火以前のロンドンが木製の家屋ばかりで、やはり不衛生になりがちな街だったと読んだことがあります。 パリも木製家屋が当たり前だった時代もあったのでしょうか。(疑問) もっと昔、エレアノール・ダキテーヌの最初の夫の兄(生きていたら、世界が変わっていた?)が亡くなったのは、 パリの街の凶暴なブタが、彼の馬にぶつかったから…ということがあったそうですが、 本当かどうか知りません。 本当でしたら、パリは何百年も猪豚?のようなブタを飼っていたり、その後は死体が溢れていたり… 大変な街だったのかもしれませんね。 コレラやぺスト、チフスも度々流行したのがヨーロッパ中世~近世ですが、 無理ないような気もします。 ベルサイユは、パリよりは衛生的だったのかも知れませんね。(貧民窟がない分) ありがとうございました!

回答No.3

現在の衛生観念で、17世紀を判断するのは如何な物でしょうか。 その時代に生きる人として、同じ目線で彼ルイ14世を見る必要が あると思います。 それに彼の父ルイ13世、趣味の狩の為に、1622年からヴェルサイユの 土地を買い求め始め、十年後の1632年にその一帯全て(領主権をも)を 手に入れて、ルイ13世が亡くなる1643年でもヴェルサイユは人口千人程で 土壌に多くの砂利が含まれており魅力のない不衛生な寒村です。 其処とパリを生活の利便性で比較するのは、全く意味をなしません。 では、なぜにルイ14世は、選んだのか??? 彼は、パリでは、le Palais-Royal, le Louvre, les Tuileriesで 生活したり時には Vincennes , Saint-Germain-en-Laye そして Fontainebleauでの滞在をし、比較検討をして自分の好みにかなり 大改修をするも、気に入らなかった。1651年に初めてヴェルサイユを 訪問した時に、フロンドの乱の記憶があり、パリを嫌っていた彼は この地に一目惚れしたとあります。それから9年後の1660年10月に 王妃 la reine Marie-Thereseと初めて訪問をした。 ここからです、彼の心に燻ぶっていたヴェルサイユに宮殿を との思いが具体的に実現して来るのは。 1661年3月に枢機卿で実質宰相のマザランが死去すると、ルイ14世は 直ちに親政を宣言し、絶対王政へと踏み出した。これで重石がとれて 自分流にことが運べる環境が整った。 同年8月には大蔵卿の大蔵卿ニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet)は 完成したヴォー=ル=ヴィコント城祝賀会にルイ14世を招いたが ルイ14世は彼に嫉妬を覚えて、同年9月にフーケを失脚させている。 (王が好みの住まいが見つからずに悶々としているのに、部下が それも自身が親政を発表した直後に華麗なお城で大宴会では、怒りますよね) つまり、長年埋火であった思いが、重石が無くなり、嫉妬心で 一気に燃え盛りこの1661年にヴェルサイユへの移転を決意するのです。 この嫉妬心は、形を変えて、単に宮殿の大きさだけでなく その周りに宮殿を引き立てる邸宅街を建設させて、総合的な 都市作りを目論んだことです。具体的には彼のヴェルサイユの 土地を非常に安く賃貸する手法を提示して多くの貴族達を 引きつけたことです。無論邸宅にはルイ14世が決めた建築協定が あり、皆それに従って建築されました。 このようなヴェルサイユの都市計画はアメリカの都市ワシントン のモデルになりました。 こうして、ルイ14世が世を去る1715年には約30千人の大都市に なっておりました。

platina-angel
質問者

お礼

元々ベルサイユは、狩りに使われる小城だったと読んだことがあります。 ニコラ・フーケについても色々な説がありますし、フーケ擁護側、国王擁護側の概説のようなものを読みましたが、 しばしば家臣の方が裕福、下手すると商人が一番裕福という事はありますよね。(メディチ家?) 何故ベルサイユか、何故パリがいけなかったのかは、正確なところは分かっていないのでしょうか。 詳しいご回答、どうもありがとうございました!

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.2

憶測ですが 当時の国王はそのような下々の衛生状態などしるわけがありません。 便器の使用は普段の習慣ですからそのようなものだと思っていたでしょう。 パリを逃れたのは純粋に警備のためだったとおもいます。 パリでは群衆の蜂起があると直接押し掛けられますから危険度は高いと考えられたのでしょう。 ベルサイユはパリの郊外ですから警備に便で、ここまで押し掛けるには時間もかかると考えたとおもいます。

platina-angel
質問者

お礼

パリの街を馬車で行く時、馬車道のフンも多かったでしょうし、 路地から臭ってくる?ニオイも悪かったのではないかと思っていました。 便器というより私には大きなピッチャーのように見えました。 今の介護用のポータブルトイレとは遠く、おまるに近い高さだったと思います。 結局、ルイ16世の時代には大蜂起でパリから民衆が押しかけてきましたね。 不便なような、悲しいような場所ですね? ありがとうございました。

  • caesar-x2
  • ベストアンサー率46% (251/542)
回答No.1

まずベルサイユにトイレが無かったというのは誤った俗説です。 日本で広まっているガセネタと言っていいでしょう。 1595年にはすでに水洗トイレ(英)が発明されていて 1668年にはフランスでも各家に汚水層を作ってトイレを設けるように 通達がだされています。 当然、ベルサイユ宮殿にもトイレがあり、 ルイ15世は寝室の隣部屋に蓋式の便器を持っていて ルイ16世は水洗式のトイレを使用していました 問題はそれ”以外”の来客用のトイレがなかったということです それで貴族たちは携帯用の便器を所持していたり、庭でしていました。 またオマルでするのはある意味、貴族の特権です。 部屋、特に寝室で簡単に用を足せるわけですから便利なのです。 パリを離れた理由は、居住環境の悪さ、狭さ、 上下水道の不備がまず挙げられます。 ルイ14世当時のパリ市は中世城郭都市で、 石造りで冬寒く、夏じめじめする住み心地の悪い場所でした。 広さも、現在のパリの10分の1程度しかなく、非常に狭く、 川を真ん中にして半分に分割された町で、 自由に拡張する空きスペースもありませんでした。 上下水道の不備は、都市の寿命を意味しますが、 ベルサイユの狩猟小屋を大宮殿の敷地としたのも、 ここに豊富な地下水を引くことができたからです。 周辺の豊かな自然、景観もすばらしく、広い敷地を庭園として 思い通りに設計できたというのは、帝王であるルイ14世にとっては 大きな魅力だったでしょう。 彼の大好きだった花火もし放題ですからね。 とにかくパリは古臭く、手垢の付いたお古の城だったわけで、 ルイ14世はここで育ったわけでもないので愛着がそもそもなかったのでしょう。 あとパリが不衛生な都市だった/であることのは言うまでもないことです。

platina-angel
質問者

お礼

ありがとうございます。水洗トイレ説にはびっくりです。 もし本当でしたら、何か根拠のようなものはあるのでしょうか? 過渡期だった訳でもないと思いますが、王妃はおまるで、王は水洗トイレということですか? それとも、王妃も晩年頃には水洗トイレを利用していたのでしょうか? セーヌ川も不衛生で、死体が流れていることもあったと読んだことがあります。 また、王宮だけでなくヨーロッパの水洗トイレは、古代ローマならいざしらず、 中世~近世まで聞いたことがありませんので、よろしくお願いいたします。

関連するQ&A