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「愛」って何ですか?

お世話になっております。 こっぱずかしい質問ですが。 「愛」って何ですか? 与?求?受?認?赦?欲?奪?交?・・・?

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  • ruehas
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回答No.12

こんにちは。 やはり「欲求」でしょうね。 回答暦によりますと、質問者さんは心理学にたいへん広い知識をお持ちのインテリ・ママさんお見受けします。質問に参加させて頂くのはこれで二度目になりますが、また生理学の立場から回りくどい話を致します(すみません、また長いです)。 さて、それは我々動物が与えられた「報酬刺激」に対して適切な「接近行動(報酬行動)」を選択するための、主に「大脳辺縁系」に発生する「情動反応」に宛がわれた「概念」です。 反応を発生させる対象によって恋愛、母性愛、友愛、あるいは物質愛、信仰心などといったものに分類されると思います。それは食欲や性欲、親和欲など、生得的に定められた「一次欲求」を基盤に生後学習によって多様化されると共に、そこには個人体験や文化的価値観などが「個体差・個人差」として反映されます。 報酬刺激に対して大脳辺縁系に発生した情動反応が「腹側皮蓋野DA(ドーパミン)含有神経核」に出力されますと、前頭前野に対するDAの投射が行われますので、これにより「達成報酬」や、あるいは「未来報酬(期待)」に対しても相応の「満足感」や「幸福感」が伴います。そして、生後環境から学習によって獲得された多彩な「反応基準」によって本能行動を補佐し、個体維持及び種の存続という目的をより効率良く達成するというのが、その「生物学的意義」です。従いまして、高等動物にとって「愛」といいますのは生存手段のひとつでありますから、我々が肉親を愛し、恋人を守り、同胞を理解することによって、必然的に人類の未来は保障される、ということになるのではないか思います。 「摂食行動」といいますのは、「餌という報酬刺激」と「空腹状態」、このふたつの条件が整うことによって初めて実現する本能行動です。つまり、目の前に餌があっても、食欲という「欲求」がなければ摂食行動・接近行動は選択されないわけですね。 このように、我々の行動といいますのは必ず複数の条件の下で実現されるものであり、如何に生得的な本能行動といえども実際の反応や行動が選択されるためには、それを報酬刺激として受け入れるための条件がきちんと整っていなければなりません。 このため多くの場合、それは「外的要因」と「内的要因」の組み合わせということになるわけなのですが、報酬刺激とはこの名の通り「満たすため外的要因」であるのに対しまして、「欲求」とはその全てが「満たされるべき内的要因」に当たり、こちらは「行動選択の動機」として必須条件となります。そして、それが与えられた報酬刺激に対して接近行動を選択するための情動反応であるならば、「外的要因」としての知覚情報とは飽くまでその対象でしかありません。ですから、「愛」というのは決して環境や他人によって生み出されるものではなく、即ちその根源とは、すべからく己自身の「欲求という内的要因」ということになります。 ではこのように、脳内では知覚入力に対する「利益・不利益の価値判断」が予め定められているにも拘わらず、「欲求」というものが不足しているために実際の反応が発生しないということでありますならば、果たして愛というのは、飢えていなければ生み出されないということになってしまいます。 快情動を発生させた大脳辺縁系からの入力に対して脳内に幸福感をもたらす「A10腹側皮蓋野―前頭前野DA投射路)」は、「報酬回路(幸福回路)」などと呼ばれており、「達成報酬」や「未来報酬」が想定されることによってより強く反応します。「一次欲求」と異なりますのは、この反応はDA(ドーパミン)が枯れてしまわない限り幾らでも継続・反復が可能であり、食欲や性欲のように一定の物理的あるいは生理的条件によって終息・抑制されるものではないということです。つまり、我々は常に飢えているというよりも、愛というのは永続的に満たされるものではないというのが、少々微妙ですが妥当な解釈ではないかと思います。 逆に言いますならば、それは如何なる生理状態であろうとも常に受け入れが可能であるということです。ですから、特に性欲が伴わなくとも恋愛をすることはできますし、お金持ちに恋をしてしまうというのも然して珍しいことではありません。因みに、とある「高齢者カップルの支援団体」の話では、お年寄りというのは「幸福回路(A10腹側皮蓋野―前頭前野投射路)」を働かせて実際に恋をしているということだそうです。 「報酬回路(幸福回路)」と呼ばれる「A10腹側皮蓋野―前頭前野DA(ドーパミン)投射」といいますのは、確かネズミの実験が元で発見されたのではなかったかと記憶しています。心理学でも有名な実験ですから質問者さんもご存知かも知れませんが、ある意味では、我々が子供の頃に執り憑かれてしまったガチャンコのようなもので、レバーを押せば餌が出て来るという装置に実験ネズミがのめり込んでしまうという話です。果たして我々は、中身のおもちゃが欲しかったのでしょうか、それともガチャンコそのものに快感を覚えていたのでしょうか。やっていたことは実験ネズミと大して代わりありませんね。 出て来た餌によって食欲が満たされますと、それが達成報酬となって「報酬回路」を刺激します。やがて刺激の対象が単なる餌から脳内に発生する快感に代わり、実験ネズミは食欲が満たされてしまっても尚、無心にレバーを押し続けることになります。 このように、学習に伴い、行動選択の動機が間接的な達成報酬に代わってしまうというのは、私は我々人間の生得的な一次欲求が個人的価値観や文化的価値観に従った後天的な二次欲求に発展する過程と上手く対比することができるのではないかと思います。この発言にはあまり自信はないのですが、まず、報酬反応が生理的にも物理的も満たされるものでない以上、それには上限というものがありません。欲は幾らでも膨らみます。更に何よりも、単に食欲や性欲が消化されるのとは異なり、ひとたび反応の基準が獲得されてしまうのであれば、これを元に「報酬の大きさと」いうものがしっかりと評価されることになります。従いまして、我々は嫌でもそこに損得・好き嫌いといったものを学習することになるわけです。つまり何れにしましても、抜本的には贅沢になるわけですね。愛というのは「際限のない欲求」であると共に、たいへん自分勝手でわがままな側面を、本来の性質の中に持っています。 「三つ子の魂百までも」 「赤い糸の伝説」 「あばたも笑窪」 「恋は盲目」 このような昔からの言い伝えは、みな情動反応を司る大脳辺縁系の性質に基づくものです。 「食べ物の好き嫌い」や「異性のタイプ」など、「個人の好み」といいますのは生後三歳頃までの体験にたいへん大きく影響を受けると考えられています。生後三歳といいますのは脳の発達では「人格形成期」という特別な時期であり、古のひと曰く「三つ子の魂」といいますのはズバリこれに当たります。ですから、この頃の体験によって大脳辺縁系の扁桃体に獲得される「情動記憶」といいますのは、情動反応の基準として生涯に渡り末永く運用されることになります。 やがて成長し、好みの異性に心惹かれるのは、大脳辺縁系が過去の体験に基づいて強い反応を示すからなのですが、ひと目合ったそのときに、まるで運命の赤い糸で結ばれていたかのように思えてしまうのは、それは生後三歳では大脳皮質の方がその経緯を全く憶えていないからです。ところが、誰が見たってあれは笑窪なんかじゃない、とは言いましても、それは個人体験なのですから仕方がありません。当人の大脳辺縁系は「それがいい!」と反応しているのですから、他人が何と言おうと大きなお世話ですよね。 もちろん、この世の全てのカップルが生後三歳の情動記憶という赤い糸によって結ばれるわけではありません。ですが、何れにしましても恋愛感情といいますのは大脳辺縁系の情動反応であり、そのひとの体験・学習に基づくものです。そして、それが特定の異性に対して発生するためには、一緒にドライブをしたり食事をしたりといった、何らかの体験が報酬刺激として情動記憶に「上書き」されなければなりません。つまり、如何に赤い糸の運命といえども、愛というのは育むか、反復学習をさせなければ成長はしないということです。このため、私は実際に試したことはありませんが、相手に報酬刺激を学習させる「プレゼント作戦」といいますのは、小遣いが続くならばたいへん効果があります。 恋愛というのは理屈でするものではありません。つまり、それは大脳皮質で行われるのではなく、大脳辺縁系という無意識の領域に発生するものです。このため、それによって選択される反応や行動は、しばしば自分の意思では抑制することができず、昔から良く「恋は盲目」などと言われています。 愛とは育むものであります。我ながら上手いことを言います。それは成長・体験に伴い、大脳辺縁系の学習機能によって獲得されるものです。このシステムによって我々は、自分を生み育ててくれた両親に対する揺ぎ無い愛情を形成することができました。これには、次の三つの段階を経ています。 まず、生まれたばかりの頃、我々はおっぱいをもらうとか、苦痛や不快を排除してもらうといった一次欲求に対して反応を発生させていました。大脳皮質とは違い、大脳辺縁系というのは出生時にはほぼ正常に機能できる状態にあり、目や耳など、抹消神経系の特化機関は発達を待ちますが、空腹や痛覚などの知覚入力は既に始まっています。 とはいえ、快感や苦痛が生物学的に定められた反応であるにしましても、取り敢えず体験をしてみないことには報酬とも賞罰とも学習することはできません。これが第一段階です。もしかしたら、抱かれ方や乳首の感触などといったものは学習しているのかも知れませんが、目が開き、耳が聞こえるようになりますと、全ての欲求の対象が両親の姿や声に集約されます。このような経緯を辿り、この段階でそれが特定の刺激に対する反応、即ち「両親に対する愛情」と分類することが可能になります。 やがて成長を致しますと、おっぱいをもらったり、危険から身を守ったりしてもらう必要はなくなり、当然のことながら最終的には、両親は社会的にも法的にも保護者としての役割を終了することになります。ですが幾らそうなったとしましても、我々にとって両親が報酬刺激の対象であることに全く代わりはありません。 本来でしたら金の切れ目が縁の切れ目、それが物理的な欲求である限り接近行動はその場で解除されます。にも拘わらず、この反応基準が変更されないということは、それがおっぱいをもらったり、身体を支えてもらったりといった一次欲求の実現ではなく、生後三歳という学習のかなり初期の段階で既に「愛情」という、上限の伴わない「達成報酬」にクラスチェンジされているからです。そして我々は、この反応基準を生涯に渡って無条件に運用することになります。 このように、愛情といいますのは育まれ、成長するものであると共に、それは欲求の達成でありながら基盤となる一次欲求とはひとクラス上の状態で存在するものです。では、新生児が愛情の起因である一次欲求の達成を両親に依存しなければならないというのは当たり前のことですが、両親の子供に対する愛情というのは、いったい何を根拠に発現するものなのでしょうか。 ちょっとばかり前のことなのですが、とあるHPで「子供を可愛いと感じる遺伝子」というのが特定されたという記事を目にし、個人的にはこの疑問が解けました。なるほど、それは母性本能の因子ではないか考えられていますが、人間の場合男女を問わず存在し、「小さい」「丸い」「やわらかい」といった子供の特徴に触れることによって報酬反応をもたらすものなのだそうです。このため、子犬も子猫もみな可愛いと感じられるんですね。 子犬や子猫はともかくと致しまして、それを我が子への愛情として育むためには、新生児と同様に、親にも学習というものが必要であり、特定の対象に対して上限のない報酬を想定するための「クラスチェンジ」が行われなければなりません。 あれ以来、この遺伝子が母性本能の因子であるという事実を確認してはいませんが、少なくとも何らかの形でこのような、親にも一次欲求の達成というものが課せられているとしますならば、これを基盤とし、子育てという心労が返って必然的に、我が子への欲求を愛情にクラスチェンジし、鋼のように焼成させるのだという説明が可能になります。 では最後に、我々は最愛の子供や両親と生活を共にすることによって「A10腹側皮蓋野―前頭前野DA(ドーパミン)投射」を行い、常に至上の幸福感を達成させているのでしょうか。さもなくば、これが欲求の実現や満足感として自覚されることはないはずです。ところが、毎日がばら色のように燃え上がる熱烈恋愛中のカップルならばいざ知らず、実際の生活といいますならば、目に見えない当たり前の幸福でしかありません。ではそこでは、いったいどんな欲求が達成されているのでしょうか。 これもたいへん微妙な解釈ですが、我々は普段、それを鮮明な幸福感として自覚することはほとんどありません。ですが、少なくともこれが紛れもなく欲求であり、極めて強い情動反応であるということは皮肉にも、それが阻止されることによって初めて明確に推し量ることになります。 欲求の阻止とは「愛の苦しみ」です。 「何時まで経っても実らぬ私の恋は、どうしてこんなに辛いのよ」 「ちょっと帰りが遅ければ子供が心配で仕方がない」 達成できないと分かっていても逃れることが許されない、片思いとは拷問に近いですよね。また、目の届くところに子供がいないだけで不安になる。このようなものは全て、欲求が阻止されることによって大脳辺縁系に発生する「不快情動」です。 このように、「愛」といいますのは明らかに「欲求」です。何故ならば、欲求としてそれを持ってないのであるならば、何かによって阻止されるということはあり得ないからです。そして、その大きさというのは反動です。 失恋とは、どうしてあんなにも苦しいものなのでしょうか。あるいは、肉親を失うことの反動とは、いったいどのくらいのものなのでしょうか。帰らぬ肉親を想う心の痛みとは、それは、無限大の欲求が永遠に阻止されてしまうということではないでしょうか。 もうひとつウンチクを述べますと、大脳辺縁系の機能という観点から見ましても、「愛と憎しみ」といいますのは表裏一体です。 欲求の実現をもたらす刺激に対しては「快情動」が発生しますが、それが阻止されますならば大脳辺縁系は反応を一転させ、「不快情動」となります。大脳辺縁系に発生した不快情動は、それまでの快情動のように報酬回路の腹側皮蓋野DA含有核には送られず(厳密には受け取らず)、「中脳中心灰白質」に送られます。この「中脳中心灰白質」が、大脳辺縁系に発生した不快情動を「怒り」や「恐怖」「悲しみ」といった感情に分岐させる機関であるというのが、最近の脳医学の比較的新しい発見です。これにより、不快情動に基づく回避行動は、「攻撃」「逃避」「泣く」「諦める」といった選択肢を持つことになります。 このうち、「攻撃行動」といいますのは「回避行動」なのですが、物理的にはどうしても相手に接近することになります。これは、「攻撃」や「逃避」といいますのは、積極的に問題を解決するための「能動的回避行動」であるからと解釈されます。これに対しまして、「泣く」「諦める」というのは「受動的回避行動」ということになるわけですが、何れにしましても、選択肢といいますのは即ち「生物学的な状況判断」でありますから、後者では絶対に問題が解決されない、生き残れない、ということではありません。 愛とは欲求であり、それが阻止されますと憎しみが発生し、戦争が起こります。現代社会では欲求が多様化し、愛がたいへん複雑で分かりづらくなっています。このように考えますと、愛によって支えられる人類の未来といいますのは、あまり安定したものではないように思えてしまいます。 また長くなってしまいました、ゴメンなさい。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 今回も、脳内にこのようなシステムがあることに、かなり感激しました。 正直、欲求でよいのだ・・といいますか実際に欲求(しかも必須条件)なのだと思うと、安心して、少し笑ってしまいました。 私は、高校を出てから教育を受けたことがなく、学問的なことはまるで知りません。ねずみさんの実験のことも知りませんで した。生理学的に証明されていることなのですね。私は、このねずみさんと同じ病気で、この実験の続き(ねずみさんが学習 したことをリセットする実験が行われたのか、再学習することで、求める対象を「快感」から「満腹感」に戻すことができる のかなど)に興味津々です。後日、生物学のカテ(でよいのでしょうか)に、新しく質問を立てます。 >DA(ドーパミン)が枯れてしまわない限り幾らでも継続・反復が可能 >一定の物理的あるいは生理的条件によって終息・抑制されるものではない :なるほど。ありがたいことに「愛」は「ごちそうさまですもういりません」という状態にはならない(なったら困りますね) ということが納得できました。どんなに満たされている状態でも、与えられるとうれしいのも納得できました。 >「報酬の大きさ」というものがしっかりと評価されることになります。 :動物は常に(無意識だと思いますが)自分の利益になる情報をキャッチして記憶しているということでしょうか。 >生後三歳では大脳皮質の方がその経緯を全く憶えていないから :そうなのですか。「ものごころがついていない状態」のことですか。 もうひとつ、わりと切羽詰った疑問があるのですが、この頃に獲得される「情動記憶」を後から気に入らないと思った場合、 (リセットするのは無理としても)後から変化させることは可能なのでしょうか。 >この段階でそれが特定の刺激に対する反応、即ち「両親に対する愛情」 :対象恒常性のようなものでしょうか。常にそこにある報酬刺激というイメージが定着するということでしょうか。 親に必要な「クラスチェンジ」には、注意を払いたいと思います。 これがうまく行かずに、「愛」という名目の支配・依存が横行しているように思うからです。 これは、私にとっても他人事ではないように思うからです。 「愛」を確認するためにわざとイタズラをする子どもの行動もうなずけました。 大変参考になりました。ありがとうございました。

neutral
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。前回もお世話になりありがとうございました。 こういうの生理学っていうんですか。 おもしろそうなので、また時間をかけて読解してみます。

その他の回答 (16)

  • luune21
  • ベストアンサー率45% (747/1633)
回答No.6

人間は群れて社会を作っていきる生物です。単独で行動すると生命の危険がとてつもなく高い率になってふりかかってきます。 社会というものが成立するには、他者への●●というようなものがなくてはなりません。人と人との間に秩序ある組み合わせが築けないからです。社会が成立しているところには、きっと他者への●●や他者への認識があることになります。 旧石器時代の遺跡から、幼い頃に両足がなくなっているのに、20歳過ぎるまで生きていたと思われる人骨が見つかっています。当時、両足がないにもかかわらず、ひとりで生き延びていくことは不可能です。そこには社会、つまり他者の●●があったに違いありません。●●は人間の生来的な感性の一つなのです。 この●●のことを、儒教では仁、仏教では慈悲、キリスト教では愛、と呼んできました。このような概念をあらわす語は世界各国にあるようです。日本語にも「慈(いつく)しみ」というものがありました。「大切にする」「めぐむ」「あわれむ」などといった意味があります。 「いつくしみ」は「うつくしぶ」から転じたもので、元は、「かわいい」「あいらしい」「うつくしい」「りっぱだ」「うるわしい」「円満だ」、というような意味を全部ひっくるめた語感のことばなのです。この語感の「うつくし」には美のほか、慈、愛もあてられていました。字は違いますが、もともと同源の概念なのです。 しかし、現在、日本で語られている「愛」にはそういった伝統的な道徳の型は、明示的には意識されていません。日本人が語る「愛」は、明治維新以降の欧化政策と西洋文化大流入による無自覚な模倣にすぎません。羽の黒いカラスが他の鳥の羽を拾い集めて色つきの鳥気取りでいるのと同じような極めて軽薄な概念です。映画の真似程度です。このことは男女の「愛」における重要な儀式である結婚式でキリスト教の神の立会いのもと、指輪を交換したりすることによくあらわれています。 (羽の黒いカラスは、その羽自体もじゅうぶんに美しい羽であると知る必要があります。色付の鳥は黒い羽をうらやんでいたりするものです) キリスト教文化を持つ地域の人々は、人と人の交流において「愛」の概念の整理の仕方は、ほぼ定型的になっています(教義・学問ではいろんな理屈がありますが)。 それは「人にされたいと思うことは人にしてあげばさい」ということです。これは聖書に表現されています。 この考え方は、他者を自分と同様なものと考えることによって、個人を尊重し、交際・協力をしあっていうという行動を生み出しています。そしてそこには、常に「神の立会い」というものが常に感じられています。 一方、日中韓などでは他者を自己のように愛するという感覚はあまりなかったようです。どこかに自己のようには他者を愛せないというあきらめが前提にあります。このことは、源氏物語や金瓶梅などの日中の古典文学を読めばよくわかります。 そこで、どこかで他者と同じ感覚にはなれないと感じる日中韓の人たちは、「憐れみ」「いたわり」の気持ち持って、本来自分が持っている冷酷さを減らすという方向で愛を発揮しているような気がします。 これは孔子の「己の欲せざる所 人に施すことなかれ」という言葉によく表れていると思います。ちょうど、聖書の「人にかくせられんと思うことは人になせ」と表裏の関係にあります。 この東洋と西洋二つの「愛」を総合すると 「人にされたくないことはするな、人にされたいことは人にしてあげろ」 ということになるでしょう。

neutral
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。かなり感激しました。 宗教によって呼び方が違うことも知りませんでした。 仁・慈悲・愛、という言葉はそれぞれ「聞いたことがある」のですが、同じものをさしているのですよと言われると、驚き です。正直、違和感を感じます(私の先入観の仕業だと思うのですが)。 >「かわいい」「あいらしい」「うつくしい」「りっぱだ」「うるわしい」「円満だ」 :なるほどです。ここから自然に発生する「他者への●●」だと思うと「●●」の感覚がぼんやり分かります。 「慈」の意味も語源も知りませんでした。ありがとうございます。 >羽の黒いカラスは、その羽自体もじゅうぶんに美しい羽であると知る必要があります。 :いたく同感です。 文化・習慣の違いについても興味深く読ませていただきました。 私のイメージでは(あくまでイメージですが)日本人は「集団・協調」を大切にしていて、空間を共有することが多く、他 人の心を汲むこと・おもんぱかることに長けていて、「以心伝心」が成立しやすいように思います。なので「己の欲せざる所 人に施すことなかれ」ができやすいのかな~と思いました。 一方、欧米人は、「個人を尊重し、交際」することを大切にしていて、言語コミュニケーションに長けていて、欲求・感情を 「伝える」「受け取る」ことがスムーズに行われているように思います。なので「人にかくせられんと思うことは人になせ」 ができやすいのかな~と思いました。 同じことを言っているようにも思えるのですが、日本人は「与えるのが得意」で、欧米人は「受け取るのが得意」という印 象があります。あくまでイメージですが。 長くなってすみません。ありがとうございました。

  • bossnass
  • ベストアンサー率44% (176/394)
回答No.5

愛は、 忍耐強く、情け深い。 ねたまない、自慢しない、高ぶらない、礼儀を失せず、 自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。 以上、新約聖書より抜粋。 私はクリスチャンではありません。仏教徒よりの人間です。 でも、上の「愛についての定義」は世界で20億人近くの人々が 知っている有名な一節です。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほどです。すばらしいお言葉です。 私もどちらかというと仏教寄りかと思いますが、すばらしいお言葉は、どこから出たものでも、いただいておこうと思います。 これを書いた人は、理想として書いているのではなくて、実際そんな感覚になったっぽいところがすばらしいのですが・・。 それにしても、これを実行するのは、とんでもなく困難そうですね。 「信」「礼儀」「喜」は、とても大切なことなのにすっかり忘れていました。 ありがとうございました。

noname#31063
noname#31063
回答No.4

恋は過去に従わせたがる。 愛は未来を育み創らせたがる。 です。 自称「愛の評論家」なので、 出ました!という感じしましたです!? ありがとうございます。 愛を語るのが好きな奴は 愛に飢えているということも現実として 正解です(泣)。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 愛の評論家さんなのですか。 >恋は過去に従わせたがる。  愛は未来を育み創らせたがる。 これはなるほどです。 恋は自分を悦ばせるもので、愛はお互いを悦ばせることを考える共同作業という感じでしょうか。 そういえばこんなことを聞いたことがあります。  結婚するとき、男性は、女性に対して、「変わらない」ことを求め、  女性は、男性に対して「変化する」ことを求める。 男性のほうが「恋体質」でロマンチストなんですかね。 「愛」って何?とか聞くヤツも、分かっていない→飢えている・・のだろうと・・。

  • G131
  • ベストアンサー率26% (195/746)
回答No.3

存在ですね。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 何の存在ですか?存在に対してどうするのですか? すみません・・うまくイメージできないのですが・・。

  • rosquilla
  • ベストアンサー率35% (261/740)
回答No.2

う~ん、愛とは。。。 愛を与える、求める、受ける、などなど 質問者様の文章にある言葉などに【愛】という言葉が合わさって意味をなしていますよね。 私流に考えると【愛=心+自分に関わる大切なもの】かなと思います。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほどです。

  • MACHSHAKE
  • ベストアンサー率30% (1114/3601)
回答No.1

見返りを期待しない慈しみの精神です。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「期待しない」というのはものすごく難しいことだといつも思うのですが、 これができる人は、何を持っていてどんな状態なんでしょうね・・。 ありがとうございました。

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