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いわゆる「天壇憲法」について

いわゆる「天壇憲法」について、その成立の経緯(どのような人々がどのようにして起草したか)、その内容、その結末等についてお教え下さい。日本語の文献もお教えいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

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  • Pinhole-09
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回答No.1

天壇憲法は草案提出のまま審議されず、廃案になった。 1913年国会に勢力のあった進歩的な国民党は、旧社会勢力と北洋軍閥を背景として行政府を握っていた、臨時大総統袁世凱と対立していた。   国会で立法部優越の中華民国臨時約法があり、4月正式国会の召集され正式憲法の起草が始まり、国民党は民主主義実現のため、立法部優越主義の憲法草案を提出しようとした。   袁世凱は種々の手段で妨害したが、国会で優勢な国民党はそれを排除して、11月3日の国会の憲法会議に草案を提出した。 袁世凱は翌4日突如国民党解散令を下し、国民党議員の議員資格を剥奪し、定足数不足で草案を葬りさった。 しかしこの素案は1923年中華民国憲法が制定される時の重要な素案になった。 素案の概要 1.衆議院 参議院 の二院制    大総統の衆議院解散に対する同意権 2.国会の行政部監督の強化 3.大総統は任期5年、連任1回、  国会議員の総統選挙会が選出。 4.責任内閣制  石川忠雄 「中国憲法史」

iroiroiroiro
質問者

お礼

さっそくご回答ありがとうございます。ご紹介いただいた文献(慶応通信、1952年、1959年(補遺版))を探してみます。 ただ、古いだけに公立図書館ではなかなか見つかりそうな本ではない(そんな状態では「生涯学習」が聞いて呆れますが)ので、もしおわかりなら、起草に参加した主要な個人名を何名かお教え下さい。天壇憲法は、第二革命のあとの時期のものですから、国民党の中心人物である宋教仁が暗殺されていることはもちろん、孫文、黄興らの、旧中国同盟会系の、すなわち、革命系(急進派)の国民党員の多く(特に著名な人々)は、日本等に亡命していた時期です(国外でなくとも、北京からのがれて南方に潜んでいたはず)。その中で、(中国、しかも北京にとどまった)国民党員が中心になって起草されたとしたら、具体的にいったい誰が携わったのか、興味を持っています。おそらく、いわゆる「立憲派」(袁世凱からは遠い「国民党系立憲派」)ではないかと思っているのですが、その顔ぶれはどうなのでしょうか。そして、その内容は、袁世凱を国民党解党に駆り立てるような進歩的な内容であったいえそうですから、近年みられる「立憲派」の再評価の動きにもつなげることができるかもしれません。 個々人の紹介に限定されていない「立憲派」に関する網羅的な日本語文献は言うに及ばず、中国国民党とは違って、国民党に関してすら、網羅的な日本語文献があまりないので、素人にとっては、この道は険しそうだと思っているのですが、ご助言いただけましたなら幸いです。

その他の回答 (1)

  • Pinhole-09
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回答No.2

No.1です。  旅行でメールを見るのが遅れました。 私は抄録しか見て居ず、引用文献の石川氏の本は読んで居りません。 当時の国民党の有力者は、武闘派の黄興と民権派の宋教仁ですが、そのほか陳天華、胡漢民、黎元洪、陳其美などの同志がおりましたが、誰が天壇に集まり憲法素案を協議したかは分かりません。 孫文ー頭山満に関心があるのですが、中国の近現代史には弱いので私の知識はこの程度です。

iroiroiroiro
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。ご返事が大変遅れて申し訳ありません。天壇憲法起草の時期に、国民党に誰が残っているのか、ということすら、なかなか(日本語の)情報がありません。 (なお、ご紹介いただいた『中国憲法史』は、いろいろと調べてみたのですが、大学の図書館であれば、いくつかのところで所蔵されているようですが(一般人では、閲覧・複写させていただくのにもかなり手間がかかるのが一般的なようです)、一般の公立図書館ではなかなか見つかりません。しかし、国立国会図書館には所蔵されているようですので、時間を見つけて見に行こうと思っています。) 挙げておられる人名では、 1)陳天華は、1905年12月に日本の「清国留学生取締規則」に抵抗の意を表すために投身自殺(日本の大森海岸)をしているので、国民党には参加していません。 2)胡漢民は、第二革命ののちは、日本へ亡命し、そのまま中華革命等に参加しているようですので、天壇憲法起草の時期に北京にいるとは考えにくい状況です。 3)黎元洪は、国民党とは異なる、共和党からのち進歩党へと所属しており、国民党員ではありません。ただし、進歩党の党員として天壇憲法の起草には参加しているかもしれません。 4)陳其美は、第二革命ののちは、胡漢民と同様、日本に亡命し、そのまま中華革命党に参加しているため、やはり、天壇憲法起草の時期に北京にいるとは考えにくいのです。 これらの点については、さらに、調べてみます。重ねて、お礼申し上げます。また、ご返事が遅れたこと、改めてお詫びいたします。

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