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毛利と吉川

毛利輝元の長女は二代岩国領主吉川広正の正室となっています。 その一方、毛利本家は岩国吉川家が幕末まで大名となることを認めていませんが、徹底的に吉川を排除・冷遇するでもなく、かといって支藩の支藩にあたる清末藩は認めていても吉川家を諸侯と認めることはなかったのはどうしてなのでしょうか? 関ヶ原の内通が原因だとされていますが、吉川を大名と認めなかったり一国一城にかからない岩国城を破却させりと幕府は問題としていない事で冷遇している事と、その反面、吉川広正に輝元の長女を嫁がせたり、一門家老6家のうち2家も吉川の系統、それもかなり血縁の近い家だったりすることが、どこか矛盾しているというか、腑に落ちません。

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  • yakyutuku
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回答No.3

毛利家の戦国晩年を見ると覇権思想はなく割拠しそうと思います。関が原で毛利全軍が西軍として戦えば勝ちは必定(陣立てから)その後秀頼を出陣させ豊臣恩顧の大名を引き込めば尾張以西は家康から守れると考えたでしょう。そうした戦略を崩した吉川家は毛利本家からすれば西国八カ国を失う原因を作った張本人であり、許しがたい存在ではないでしょうか?

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 2カ国となった時、すでに百二十万石分の年貢を徴収した後だったので、それを新領主の福島左衛門などに返還するのに相当苦労していますから、そういうのも影響しているのかもしれないですね。

その他の回答 (3)

  • ymyt
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回答No.4

私の生家の遠祖は、吉川ときいています。広島県の安佐地区にあたりますが 毛利の騙し討ちにあって、正当な後継ぎが殺されたようです. 初期の毛利は諸々のことを考慮して、吉川の縁を表面的に利用してきたのではないでしょうか。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね。もともと毛利は吉川を半ば乗っ取ったみたいですね。 元就は権謀術数・謀略を駆使して安芸の小領主から120万石の太守となった、これぞ戦国大名という生き様な感じがします。

  • teccrt
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回答No.2

確か、関が原の後の論功行賞では、もともと徳川家康は毛利家を完全に潰し、防長2国を吉川家に与えようとしていました。吉川広家は慌てて家康の下に直訴し、吉川家は大名の地位でなくてよいから、宗家である毛利家は残してくれと嘆願したと記憶しています。 そういう経緯から、毛利宗家としては、吉川家は憎いが、当時毛利家内で幕府とパイプを持つのは吉川家だけだったので表向きは無下に扱えなかった、ということではないかと思います。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 当時幕府とパイプがあったのは吉川だけだったのですか。 結果的に防長2カ国といえど御家は存続できたけど、本家の方針に違背して内通した行為はいつまで経っても許しがたかったのでしょうか…

  • yakyutuku
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回答No.1

想像ですが、対内的には一族内での発言権が強い吉川をきちんと処遇しないわけには行かないが、いつ又本家と違う意思を持つかわからないので、対外的に公式な立場を与えたくないという判断かと思います。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 本家としてはそういう方針だったのかもしれませんね。 吉川のおかげで防長2国といえど御家が存続できたけど、主家の方針に背いて内通した行為はやはり許しがたかったのでしょうか。

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