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心にグサッと突き刺さる「一言」
小説やエッセイなどを読んでいると、(私などは)数年に一回くらいの頻度で、雨上がりの新緑に宿るキラキラ光る水滴のような表現に出会い、しばしこちらの時間を止められてしまうことがあります。天の配剤による出会い、僥倖という言葉が頭を横切ります。そして、太く硬く長い釘にでも頭から全身を射抜かれたように身動きもできず、呼吸すらもままならぬまま心地よいダメージに身を晒します(ちょっと大袈裟かナ)。 そこで、「教えてgoo」をご覧の皆さんに質問です。 皆さんのとっておきの「言葉」を教えてください。主に文学作品(小説、エッセイ、戯曲他)からの言葉を作者の名を添えて教えてください。 わたしのとっておきの「言葉」は、シモーヌ・ヴェイユという若くして亡くなったフランスの哲学者の『重力と恩寵』という主著のなかにあることば 純粋で、どんな不純物もないために、苦痛になるぐらいのよろこび 純粋で、不純物がないために、心をやわらげてくれるような苦痛 (田辺保訳) です。いまだににやられちゃっています。
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- pi-hyoro41
- ベストアンサー率16% (36/220)
茨木のり子さんの詩の「自分の感受性くらい」の中の 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 背筋がぴんと伸びて気を付けの姿勢で「はい!」と答えそうになります。 いい年になってきた娘が母親に至らない点を指摘されて叱られてる気分です。 これが何度も心の中に湧くのを繰り返していたら 自分で守るものは感受性だけではない気がしてきました。 自分の中にあって自分で守っていくものはたくさんあると思います。 人の手なんかあてにしてちゃいけないし守れない。 あてにしちゃって甘えてる自分もたくさん見つけました。 でもあてにしないでいく方がいいやり方なんだってわかって じぶんはいろいろと甘えてるなってわかったのも収穫だと思うんです。 グサッというよりチクッと突き刺さってくるかんじです。
- koita
- ベストアンサー率23% (32/137)
言葉自体は日常でも使われるような表現ですがストレートだからこそグサリとします。 重松清さん『エビスくん』のラストの二行です。 会いたいなあ、ほんま、ごっつ会いたいわ。 どこにおんねんや、きみはいま。 言葉自体が美しいわけではないのですが大人になってから日常の生活に追われる中でふと感じる昔を懐かしむ気持ちをピッタリの言葉で表現されたなとう感じでした。
汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる 汚れちまった悲しみは たとえば狐の皮衣 汚れちまった悲しみは 小雪のかかってちぢこまる 汚れちまった悲しみは なにのぞむなくねがうなく 汚れちまった悲しみは 倦怠のうちに死を夢む 汚れちまった悲しみに いたいたしくも怖気づき 汚れちまった悲しみに なすところもなく日はくれる
お礼
ご回答有難うございます。 中原中也は、すぐれたものを追い求めてあれこれ読む青春期に出会いますね。私は「思えば遠く来たもんだ」で始まる『頑是ない歌』も好きですよ。
- toko0503
- ベストアンサー率36% (886/2437)
三好達治で思い出しました。 小学校の教科書にも出てくる詩「雪」です。 太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。 二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。 雪国育ちの私の心にグサッときました。
お礼
ご回答有難うございます。 ご文にある三好達治の詩は、僅か二行の中に、静かな雪国の長い夜を表現しきっている稀有なものですね。何でこんな短い文の中に「一つの宇宙」が結晶しているのか。詩の不思議さとすばらしさを感じさせます。いつまでも手垢のつかない表現ですね!
- n34156
- ベストアンサー率15% (53/352)
三好達治の詩に、「大阿蘇」というものがあります。その一節の「雨が降っている 雨が降っている 雨は肅々と降っている」。ここに出てくる「肅々と」という言葉は、当時の私は知らない言葉でしたが、阿蘇の、あの雨の降り方を最も的確に表しているなあ、と感じました。「やられた!」って感じでした。
お礼
ご回答有難うございます。 「肅々」ですか。そういうことってありますよね。読書の喜びの一つに、知らない言葉を教えてもらう、というものがありまね。難しい画数の多い漢字だと、少し鼻高々になり、「明日、学校に行って自慢しよう」などと不純な動機に突き動かされたりします。確実に言えることは語彙の豊富さは人生の豊かさに結びつくということですね。
- sophia35
- ベストアンサー率54% (637/1163)
こんにちは。 「グサッ」の意味が色々あるのですが・・・ 先ず、私の心臓を貫いた一節と言えば、高校の頃に読んだショーペンハウエルの「読書論」に出てくる、あまりに有名なこの言葉 「読書は他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。」 自他共に認める「活字ジャンキー」だった私とって、これは暫く 立ち直れませんでしたね。心臓に太い楔を打ち込まれたような衝撃を受けました(苦笑) 内容を自分の中で消化する事も無く、ただ鵜呑みにする・・・と言う読書の仕方は、結局他人にものを考えてもらっている訳なのだから、自分で思考するとと言う大切な作業を怠り、無能にする危険性があると言う、誤った読書法に警鐘を鳴らす目的で書かれている訳ですから、その後の自分の読書の「意義」の様なものに、少なからず影響はあったと思えます。余談ですが、これって、今の時代の「安易に色んな情報が溢れているけれど、そうして検索して出てきた事例を丸飲みしてしまう」今のIT文化にも通じるところがあるような気がしますね(苦笑) 切なく刺さる言葉とすれば、一つは高村光太郎の「智恵子抄」の一節、 「わたしの手からとった一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」 なんて言うんでしょう。死の凄烈さ?死に往く者の生命力?上手くは言えませんが、死の床にあって、死を全く目前にしながら、「がりり」と噛んで迸るその香気に、「ヒト」の「生命力」の壮絶さと言うものを見せ付けられたようで、「生き様」「死に様」を深く考えさせられた言葉です。 谷川俊太郎の詩にも、心迫るものが多い。二十歳前後の頃、今までの自分の軌跡を全て消し去りたかった頃、「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」の一節、 「ぼくは自分を鉛筆の落ちた音のように感ずる カチャンコロコロ・・・・ 過去がないから未来もない音だね」 これを見たとき、ただただもう涙溢れて止まず、何に対してかひたすら「ごめんね」と、連呼していました。 同じ詩集の中の 「見も知らぬ奴がいきなりヘドを吐きながら きみに倒れかかってきたら きみはそいつを抱きとめられるかい つまりシャツについたヘドを拭き取る前にさ ぼくは抱きとめるだろうけど 抱きとめた瞬間に抱きとめた自分を ガクブチに入れて眺めちまうだろうな 他人より先に批評するため」 ・・・一瞬 こちらを指している指が見えた気がしました・・・
お礼
ご回答有難うございます。 ショーペンハウエルのこの有名な「読書論」は、確かにストレートに胸に突き刺さりますね。誰だか忘れましたが、「一時間読書したら、一時間考えよ」というのもハードルの高い言葉です。「そういうふううに考えていたら、今よりましな脳みそになっていたかも知れない」と、時々思いますね。(「書痴」「書豚」という言葉もあって、「こっちでいいや」などと思うわけです) 谷川俊太郎も平易なことばの中に鋭さを織り込みますね。
- ytokoji
- ベストアンサー率37% (6/16)
演劇では、名セリフなどといいますが、詩や、ある言葉が長く人生の支えになることがありますね。つらくなると思いだす言葉など。 三好十郎という劇作家の作品、「廃虚」という芝居のなかで、 「分かる、分かるけれども、アッラーの神は曰く、一切は過ぎ去る、すべてはほんの一時さ」というセリフがありますが、私にはなにかのときに、 思い出して気をとりなおしたものです。この芝居に若き日に出演しまし た。自分のセリフではなかったのですが、心に焼き付いてしまったことば です。
お礼
ご回答有難うございます。 「一切は過ぎ去る」ということばに、かつて読んだ稲垣足穂の『実存哲学の余白』(潮出版社)中の「二十五歳までに決定すべきこと」にある 私は若い人々に向かって云いたい。死ぬるにしても、生きるにしても、二五歳までに決定したまえと。ヨットの大洋横断であろうと、又、ヒマラヤ登攀でも、飛行機の冒険でも、革命運動でも、二十五歳を過ぎたならば世間は相手にしてくれなくなる。そのあとは各自はその方面のプロかボスかになるより他はない。何故なら、人生における最も高貴かつ純粋な内容が、その本質を喪失して、「本当に生きてはいない状態」に下落してしまうからだ。 という文を思い出しました。当時二十五歳にはまだ間があったわたしは、この言葉に影響を受けて、二十五歳までの何事かをなそうなどと美しい決意をしたものです。
- zephyrus
- ベストアンサー率41% (181/433)
垂直に襲ってくることばの恩寵は詩である場合も結構多いですね。 いま、現代詩と呼ばれるものの中から、いくつか思い出してみました。 田村隆一氏が自身の詩の中で、少年が書いた詩の題名を引用していました。 毎朝 数千の天使を殺してから というのがそれ。一読、しびれました。 天使を殺すのはやはり朝が爽やかでいいし、 スウヒャクでもスウマンでもなく、スウセンという数がいいし、 なにより、天使を扼殺できるのは少年の時代の特権というべき。 鼻や口にあふれる天使たちの血は真っ青に違いない。流れ出すおびただしい蒼穹。 いったん否定(殺す)することで新しさを獲得する。美しいと思いました。 水 わたしのなかにいつも流れるつめたいあなた 八連作からなる詩、その名も「オンディーヌ」(水の精)の冒頭で吉原幸子氏はこう歌いました。 女性という性を持つ人の悲痛な叫び。天性の抒情詩人の声だなあ、と感じます。 「花火」という別の詩では、こんな風にうたっています。 黒い眠り黒い眠りまっしろな夢 まっぴるまのまっしろななにもない夢 天沢退二郎氏がラジオのために書いたらしい詩劇「わが断食週間前の物語」 (この題からカフカの「断食芸人」という短編を連想してしまうのですが) で、「静かに。私たちはまもなくすべてをきくのです。」というナレーターの声のあと、 断食者は次のように語りはじめます。 ぷふー、わるい牡蠣をのみこんじゃった、ぷふー、気色わるい! どうもあまり愉快な話ではないらしい(笑)断食者はすぐ続いてこう語ります。 もう10日も前のことなのに、まだ生唾がわくわい。(……)してみ ればあのわるい牡蠣の正体みぬくことこそ、あんたたちの義務でも あるのだ。何を云うか、見つけるのは私だ、(……)しかしそれを 見ぬくのはあんたたちだ、なぜなら、すべてはあんたたちの問題だ からだ。ぷふー、いやな味だ。まだゲップがわきやがる、 この<わるい牡蠣>(腐りかけたナマガキでしょうね)とは一体全体なんなのでしょう。 物語はこのあと紆余曲折、支離滅裂に続きますが、明確な答えは最後まで明かされません。 まさに<見ぬくのはあんたたち>とばかりにおっぽりだされて終ります。 ヒントはたぶん「言葉」です。 ひょっとして、言葉なんて覚えるんじゃなかったと言っているのかもしれません。しかも詩人が。 何かわからないながら、 ぷふー、わるい牡蠣をのみこんじゃった、ぷふー、気色わるい! というセリフは、つまらない事態が出来したときの私の口癖になりました。
お礼
ご回答有難うございます。 田村隆一さん!懐かしいですね。20歳前後、自分の感性のありかを求めて書物の森をさ迷っているときに、様々な詩人の言葉に出会いました。荒地派の田村隆一の鮎川信夫とともに読みました。 田村隆一の『四千の日と夜』中の「腐刻画」にある この男 つまり私が語りはじめた彼は 若くして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した が一時期いつも頭の中で響いていました。 カフカの『断食芸人』はいいですね。いっぱい考えさせてくれます。天沢退次郎の詩劇は存じませんでした。教えていただいて、ありがとうございます。
- kageru-hash
- ベストアンサー率25% (96/376)
みたばかりの死に茫然として、 卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。 (死別の翌日 中原中也) 言葉では上手く説明できないのですが、「卑怯にも似た感情」にやられました。
お礼
ご回答有難うございます。 中原中也、いいですね。詩のことばは読み手の心の中にいきなり無定形の塊として侵入してきて、時間を止め、それまで石ころ同然と思っていた「文字」が不意に眩く輝きだします。 その感動を言葉で説明すれば、言い表しえた言葉の背後にこそ、本物の感動が残るという憾みが残ります。
- London88
- ベストアンサー率12% (6/50)
『恥の多い人生を送ってきました。』 ・・・太宰治 『人間失格』 この言葉、および、この小説は、当時の自分の姿そのものでしたので、本当にドキッとしました。 自分のことを見透かされた気分でした。 『太宰という人は、何で俺のことをこんなに知っているんだろう?』 と、不思議でしょうがありませんでした。
お礼
早速のご回答有難うございます。 太宰治は嵌りますね。わたしも大学生の頃に新潮文庫を20冊ほどを一気読み(?)をしました。 『生まれてきてすみません』というのもありましたネ(^.^)。
お礼
ご回答有難うございます。 ラストの二行ですか。それまでのストーリー展開が分からないのでなんとも言えませんが、ひょっとして、作者はその二行のために長々と話を作ったのかもしれませんね。