理解できないのではなく、理解しようとしてないのだと想います。
だって、理解しようと本人がその気になったら、たいていのことは理解できると想うんです。(健常者なら)
仏教では「愚者」といいますよね。
人間は生まれから「愚か者」という性質を持ち合わせているという意味です。
なぜならば、我々の生みの親は因縁、つまり混沌であり、不安定だからです。
で、なんとか不安定な心を、安定させるためにタバコを吸ったり、酒を飲んだり、戦争をしたりしてるんです。
その中には間違った考えに固執するということもあるんです。
生贄を捧げたり、体に穴を空けたり、舌にピアスを入れてみたり・・・・それがなんであれ、そのようにすることで満足するのであれば、それは正当化されてしまうという傾向があるんです。
たとえば、タバコ好きの人は、タバコを一生懸命擁護します。
身体に悪いとわかっていても、なんとしてでもタバコを擁護するんです。
なぜならばタバコによって満足を得ていると錯覚しているからです。
そうやってなんとしてでも心の安定、満足を無意識に求めてしまうことを「渇愛」ということは釈迦に説法だと想います。
でも、ちゃんと説明してあげて、その気にさせてあげれば、きっと理解できると想います。また理解できる段階(心のレベル)に達していないという場合もあると想います。理解できるだけの安定が無い、胎ができていないのかも知れません。
「無知の知」という言葉がありますが、自分の能力に溺れている人は、自分が無知であることにも気づけなかったりするんです。仏教でも「自分が愚者だと気づいたら、もう愚者ではない」と経典にあります。
絵画の上手な人は、絵を書くことだけが好きで、それだけに夢中になってしまって、実は対象を全く見ていなかったりするのではないでしょうか。哲学の世界でも哲学することだけが上手で、実は、全くの戯論に終止している人もいると想います。
だから結論としては「愚者だから」ということになります。
お礼
自己正当化のための必死の思い込みですね。 直感的にはそうなんだろうと思ってはいます。 ただ、「普遍性否定派」は割合にインテリが多いんです。 したがっていわゆる「常識」がうそであることを暴いたり、論じたりするところまでは 話がとんとん拍子で進むのです。 (しかも本人にはインテリだという自負もあります) だからこそ、もう一歩のところがなぜ分からないのかが 不思議でしょうがないのです。 禅で「百尺竿頭進一歩」と言いますね。 やっぱり最後の一歩は、ものすごい差なのでしょうか? 丁寧なご回答、ありがとうございました。