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普遍性をなぜ否定できるか 3

 これまでの質問に色々な方にお答えいただき、まことにありがとうございました。  しつこいようですがこれで最後の質問にさせていただきます。  もう一回だけおつきあいください。今回は単純な問いにします。    普遍性などないと否定する人に、もしも  「でも、生まれた人間は必ず死ぬよね。これは普遍的な法則ではないのかな?」  と聞けば、(普遍性否定派は)どう反論可能なのでしょうか?   ※これまでの(前2回の)議論は全部いったん白紙にもどしてください。  したがって「宗教」や「神」や「数学」などという(錯綜しがちな)話題もいっさい  出ていない段階での素朴な問いだとしてください。  

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回答No.5

理解できないのではなく、理解しようとしてないのだと想います。 だって、理解しようと本人がその気になったら、たいていのことは理解できると想うんです。(健常者なら) 仏教では「愚者」といいますよね。 人間は生まれから「愚か者」という性質を持ち合わせているという意味です。 なぜならば、我々の生みの親は因縁、つまり混沌であり、不安定だからです。 で、なんとか不安定な心を、安定させるためにタバコを吸ったり、酒を飲んだり、戦争をしたりしてるんです。 その中には間違った考えに固執するということもあるんです。 生贄を捧げたり、体に穴を空けたり、舌にピアスを入れてみたり・・・・それがなんであれ、そのようにすることで満足するのであれば、それは正当化されてしまうという傾向があるんです。 たとえば、タバコ好きの人は、タバコを一生懸命擁護します。 身体に悪いとわかっていても、なんとしてでもタバコを擁護するんです。 なぜならばタバコによって満足を得ていると錯覚しているからです。 そうやってなんとしてでも心の安定、満足を無意識に求めてしまうことを「渇愛」ということは釈迦に説法だと想います。 でも、ちゃんと説明してあげて、その気にさせてあげれば、きっと理解できると想います。また理解できる段階(心のレベル)に達していないという場合もあると想います。理解できるだけの安定が無い、胎ができていないのかも知れません。 「無知の知」という言葉がありますが、自分の能力に溺れている人は、自分が無知であることにも気づけなかったりするんです。仏教でも「自分が愚者だと気づいたら、もう愚者ではない」と経典にあります。 絵画の上手な人は、絵を書くことだけが好きで、それだけに夢中になってしまって、実は対象を全く見ていなかったりするのではないでしょうか。哲学の世界でも哲学することだけが上手で、実は、全くの戯論に終止している人もいると想います。 だから結論としては「愚者だから」ということになります。

arakan
質問者

お礼

自己正当化のための必死の思い込みですね。  直感的にはそうなんだろうと思ってはいます。  ただ、「普遍性否定派」は割合にインテリが多いんです。  したがっていわゆる「常識」がうそであることを暴いたり、論じたりするところまでは  話がとんとん拍子で進むのです。  (しかも本人にはインテリだという自負もあります)   だからこそ、もう一歩のところがなぜ分からないのかが  不思議でしょうがないのです。  禅で「百尺竿頭進一歩」と言いますね。  やっぱり最後の一歩は、ものすごい差なのでしょうか?  丁寧なご回答、ありがとうございました。  

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  • hakobulu
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回答No.2

◇ ちょっと強引な流れに乗ってしまっているのでは? 人間同士の会話においては、以前どなたかがこのカテで指摘してもおられましたが、『言葉の定義』を曖昧にしたままの議論は不毛でしょう。 偉そうに言っていますが、私の場合はそれを曖昧にしているのかどうかさえ判断のつかないまま論理的だと錯覚したまま論議を進める場合も多々あります。(幸運にして後で気付く場合もありますが、気付かない場合があることに関しては気付きようがないわけです。) 真摯な相手であればそこを指摘してもいただけるのですが、呆れられて無視されることもあるのではないか、と推測しているような次第です。 若干横道に逸れたきらいもありますが、「普遍性などない、と否定する人」とは、この言葉の定義について再確認しながら論議を進める必要があるように思う、ということです。 ご質問の文面だけに限ってみても、普遍性に対する解釈、人の死とは何か、などが当面検討対象として重要ではないか、と感じます。 ◇ 『>「宗教」や「神」や「数学」などという(錯綜しがちな)話題もいっさい 出ていない段階』 で、 「生まれた人間は必ず死ぬよね。これは普遍的な法則ではないのかな?」という問いをarakanさんが(最初に)発したとします。 相手の反応が、 「そうだね」となれば普遍的法則の存在を認めていることになります。 「私は、それを普遍的法則とは解釈していないが・・・」となれば、 「では、この事実はどのように捉えているのか」というように話が展開していくでしょうし、その時点では必ずしも相手が普遍的法則の存在を否定しているとは限りません。 「同じ言葉に関して私との間に解釈の相違があるようだけど、君にとっての普遍的法則とはどういったものか教えてくれないだろうか」などのように問うことも可能なはずです。 例えば#1さんのように、現状を維持することが普遍的法則と考える方もいらっしゃるでしょうし、arakanさんのように、生から死への変化があること自体を普遍的法則と捉える方もいらっしゃるわけです。 「普遍的法則」という言葉自体にこだわり過ぎると、本来求めているはずの論議の端緒を開くことが難しくなる場合もあるように思います。 言葉は一種のツールだと思いますから、海を語る際に一人は海水浴場としての海を想定して持論を展開し、もう一方は漁場としての海について述べるような状況を招かないよう、最初の取り決めが必要になってくるのではないか、と愚考するわけです。 自分でもできていないことを偉そうに述べるのは恥ずかしいのですが、自戒の弁としてお読みいただければ有り難いと考えます。

noname#22222
noname#22222
回答No.1

ただ、議論を求める投稿のようです! それに、問いが成立していません! 「生まれた人間は必ず死ぬ!」 は、単に、宇宙の第2法則の確認にすぎません。 車も製造した瞬間から中古車への時を刻み、最後は、車としての秩序を維持できません。 人も、うまれた瞬間から老化を開始し、やがて、人としての秩序を失います。 これは、宇宙における法則として確認されていることです。 >これは普遍的な法則ではないのかな? 正に、普遍的な秩序は存在しないという法則の確認に過ぎません! それが、どうかしましたか?

arakan
質問者

お礼

ですから「普遍的な秩序は存在しないという法則」  を認める人は、そういう「普遍的な法則」が存在することを  理解できないのですかねと確認しているのですが?

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