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神は把握できないのに、なぜ宗教教義があるのか?
素朴な疑問なので教えてください。 神が人知を超えた存在だとして、その神を詳述する聖典の内容や様々な命令はなぜあるのでしょうか。もちろん人間がつくり、その後手を加えられて現在に至っているのでしょうが、 何か矛盾が起こると、「神のご意志」「神は人知を超えている」となってしまうことは、議論を避けているのでしょうか。 キリスト教は命令の宗教だそうですが、あれだけの命令を下しておいて、「神は人知を超えた存在で把握できない」と言われ、「はい、そうです」となりますか?
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神は把握できないのに、なぜ宗教教義があるのか 神を把握できないのは一般的な人の話です 宗教の天才がいてその人たちは神の意志や奥義を知ってるというのです そうして自分の教えを広めます=この段階では教義にはなってない カリスマ性による活動、まだ教えは詩や短い言葉やたとえ話です ただ、正しいか検証できないので世を惑わすものと 世の支配者や宗教の制度からその教えは批判されます 先駆者はいつの世も迫害されるものです 神の把握できない性質は世の体制からは危険です 一般常識や一般道徳を越えるものだからです 世の迫害を受けてもその宗教の信者が増えていくと 社会において一定の宗教または宗派と認められます こうして他の宗教や宗派と共存するようになって 聖典=教えの整理・編集、要するに正典化と 教義=体系化が始まります、それをするのが宗教学者などです 宗教学者は神学的な論争をして事細かな教義を作ります 聖典は権威、教義は守るものとなります こうして神の不可解性は聖典・教義という制度に閉じ込められて 社会的には穏健で安全なものへ変わります しかし、こういう煩瑣な教義を作ると現実と遊離してしまい 神の意志・奥義=煩瑣な教義なのか疑問が出てきます そこで、宗教天才が出てきて宗教批判から宗教改革が起こるのです 聖典の見直し、教義の見直し、制度の見直しなどです
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- MOG777
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関係性に注目すれば、神との関係も隣人との関係の延長に過ぎません。 注意深き者からは注意散漫な者は丸見えであり 注意散漫な者からは注意深き者は見えず 注意深き者からは注意散漫な者は丸見えであり 声をかけることはできるが 注意散漫な者からは注意深き者は見えず 誰も居ぬ間に声をかけるばかり 注意深き者は契約書を自ら読めるが 注意散漫な者は代理人を立てねばならず それ相応の手数料を払わねばならない。
お礼
私は、注意散漫な者ということになるやもしれません。 よって、相応の手数料を払うことになるのでしょうか。
- NemurinekoNya
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僕は、 「神は、原初的には人間の自然に対する畏れ・畏怖心のあらわれであり、同時に、人知を超えた(自然科学が発達する以前の、大昔の人間にとってという意味ですが)自然現象・自然災害、そして、時に不条理とも思える人間社会での出来事(殺人・戦争・貧困・身分的不平等などなど)に対する説明原理であった」 と考えています。 自然科学の発達する以前、突然、起きる雷や嵐などの自然現象は、その神秘と破壊力は、その当時の人間にとってまさしく人知を超えたものであり、驚異そのものであったことでしょうから。 しかし、人間は、なぜそのようなことが起きるのか、知りたいと欲する生き物です。そうした人間の知的探求心がうみだした説明原理・仮説が原初の”神”という概念であった、と考えます。人間、何が恐いかと言えば、未知なものですから。それがどのようなものであるか分からないまでも、言葉、もしくはそれを概念化してしまえば、人間はとりあえず安心できます。安心はできないまでも、「そうだったのか」と自分を納得させることは可能だったはずです。そうした人間の知的欲求から原初の”神”が誕生したと考えます。 しかし、人間の自然理解と統一的説明という知的欲求の進展ともに、不可知な自然現象・人間的現象(運命とか幸運などなど)の数だけあったはずの神々(の力・職能)はしだいに統合され、あるいは序列化・階層化され、ギリシア神話や日本の神話のような最高神(ゼウス・天照大神)が誕生、あるいはユダヤ・キリスト教、イスラム教のような一神教になったのだと考えています。(この考えは、宗教の進化史・発展史的解釈すぎるかもしれませんが…) なので、神や宗教は、ある意味で人間が創造した”被造物”と考えることもできるでしょう。 僕は、必ずしも、この考え方を否定するつもりはありません。そういう考え方も有りだと思います。事実、自然科学の発達とともに、”神”の機能・役割は縮小し、いまや、自然現象の背後に神の存在を仮定する人は少ないでしょうから。 しかし、これは自然現象の説明原理という神の機能の一面しか見ていないとも思います。道徳・倫理の発生源としての”神”という概念、これは言葉を変えて今もわたしたちの心の中に連綿として生き残っていますから。それを神と呼ぼうが、自然、真理、科学、権利・自由と呼ぼうが、それは名称の差にすぎない、と僕は考えています。 >>その神を詳述する聖典の内容や様々な命令はなぜあるのでしょうか? これは聖典編纂の問題だと思います。 「聖典を神(あるいは仏)から与えられた絶対的な教え」という考え方という見解の人からは異論がでると思いますが、 聖典はあくまで人が作った、あるいは、書いたものです。 イスラム教のコーランの場合は別ですが、神からの啓示(ユダヤ・キリスト教の預言者、イエス・キリストの)、あるいは、宗教的直観、ブッダの悟り等々の説教や伝説、神話を後世の人がテキストとしてまとめたものです。当然、そのテキストには書記者、記述者、編纂者の編纂意図・立場が反映されますし、教えの取捨選択などもあったでしょう。時には、自分たちに都合のよいように教えやテキストの改竄、教えの読み替えなどあったでしょう。聖典間に内容の矛盾があったとしても、それほど驚くに値しないと思うのですが… 大切なのは、「聖典から夾雑物を取り除き、そこから何を読み取るかだ」と僕は考えます。 >>何か矛盾が起こると、「神のご意志」「神は人知を超えている」となってしまうことは、議論を避けているのでしょうか? 矛盾が発生するたびに、「神のご意志」「神は人知を超えている」と強権的・教権的におしつけるのは論外だと考えます。僕は、神・あるいは神の意志の不可知論に与(くみ)しませんから。矛盾解決のために思索し、努力することこそ大切だと考えます。 >>キリスト教は命令の宗教だそうですが、あれだけの命令を下しておいて、「神は人知を超えた存在で把握できない」と言われ、「はい、そうです」となりますか? 僕のキリスト教理解では、イエス・キリストの教えは、ユダヤ教の律法否定から出発しているなので、キリストの命令というか掟は、他の宗教に比べても意外に少ないと思うんですけれど… キリストの教えを実践することは難しいですけれど、そんなに無茶な要求はしていないと思いますよ。理性で十分に納得できる教えだと思います。少なくとも、「神は人知を超えた存在で把握できない」という神の不可知論は、キリスト本来の立場ではないのではないでしょうか。キリストは、ユダヤ教の微に入り細にいる数多くの律法に従うことよりも、神と個人との直接的な結びつき・対話を最重要視していますから。
お礼
>そうした人間の知的欲求から原初の”神”が誕生したと考えます >神々(の力・職能)はしだいに統合され、あるいは序列化・階層化され、ギリシア神話や日本の神話のような最高神(ゼウス・天照大神)が誕生、あるいはユダヤ・キリスト教、イスラム教のような一神教になったのだと考えています。 なるほど。ひとつ前の回答者さんと同様に分かりやすいご回答ありがとうございます。 神が人間の被造物かどうか?に「YES」と答えてしまうと、キリスト教徒をやめることになってしまうかもしれません。 >キリストは、ユダヤ教の微に入り細にいる数多くの律法に従うことよりも、神と個人との直接的な結びつき・対話を最重要視していますから 確かに神との個人的な関係であり、宗教ではないと言い切る信者もいるくらいです。 でも新・旧約聖書数千ページにわたる命令は、私に取っては無茶苦茶な部分もあるのです。
>神が人知を超えた存在だとして、その神を詳述する聖典の内容や様々な命令はなぜあるのでしょうか。 神が人間を通してご自分の考えを伝える必要性があったことを聖書はこう言っています。これはモーセに導かれてエジプトから脱出したイスラエル国民が荒野で「十の言葉」を神の声によって直に聞いた時の出来事です。(つまり、イスラエルは神の声を直に聞いたのです。) さて,民は皆,雷,稲妻のひらめき,角笛の音,煙る山を見ていた。それを見て民はわななき,離れた所に立っていた。そしてモーセに向かってこう言いだした。「あなた(モーセ)がわたしたちに話して,それをわたしたちが聴くようにさせてください。神がわたしたちに話されることのないようにしてください。そうしないとわたしたちは死んでしまいます」。 (出エジプト記20:18,19) 人間にとって神からの直接の語りかけはあまりにも強烈であったため、それに耐えうる人間の代表者(ここではモーセ)が神の言葉を聞き、それを民に伝えることになりました。ですから、神が人間を用いて聖書を書かせたのにはそのような理由があるのです。そのような事情を考慮すると、神が人間にメッセージを送るのにこれ以上に理にかなった方法はないと思います。 ですから、聖書の場合、神の啓示を受けた人々が神の導きのもとに聖書の各書、各部分を記したということができます。その点を使徒ペテロはこう言いました。 なぜなら,あなた方はまずこのことを知っているからです。つまり,聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないということです。 預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです。(ペテロ第二1:20,21) 神と聖書を記した人々は社長とその秘書に例えることができます。つまり、社長が話す言葉を秘書がワープロで打ち、文章にするようなものです。このように確かに、聖書はモーセやその他の人間が書いたものですが、それは神の啓示を受けてのことであり、それゆえにその書物は神のお考えが反映されているのです。 >もちろん人間がつくり、その後手を加えられて現在に至っているのでしょうが、何か矛盾が起こると、「神のご意志」「神は人知を超えている」となってしまうことは、議論を避けているのでしょうか。キリスト教は命令の宗教だそうですが、あれだけの命令を下しておいて、「神は人知を超えた存在で把握できない」と言われ、「はい、そうです」となりますか? この疑問点については、キリスト教という名の付くものがすべて神とキリストを正しく代弁していないという点を挙げておきます。その点をイエスご自身がこう言われました。 羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです。・・・わたし(イエス・キリスト)に向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。 その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。 しかしその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と。(マタイ7:15-23) musket00さんがどの宗派の見解を聞いたのかは定かではありませんが、確かに全く聖書とは関係のないまがいものや単なる個人的な見解も多くあります。それらが神とキリストを代表しているものでないことは明白でしょう。きちんとしたキリスト教の見解であれば、必ずその裏付けとして聖書を引用するはずです。それで、そのような基準でキリスト教の見解の是非を見極めることをお勧めします。
お礼
>この疑問点については、キリスト教という名の付くものがすべて神とキリストを正しく代弁していないという点を挙げておきます。その点をイエスご自身がこう言われました。 以下、マタイからの引用、最もキリスト教徒的ご回答ありがとうございます。 yangmaskさん、キリスト教徒の方ですか。既成宗教にとらわれない回答の中で、妙に新鮮に感じられます。 >きちんとしたキリスト教の見解であれば、必ずその裏付けとして聖書を引用するはずです。それで、そのような基準でキリスト教の見解の是非を見極めることをお勧めします 私の基準も再検討していきたいと思います。
>>神が人知を超えた存在だとして、その神を詳述する聖典の内容や様々 >>な命令はなぜあるのでしょうか。もちろん人間がつくり、その後手を >>加えられて現在に至っているのでしょうが、 仏典では『この世界の一切は幻である』という真理を説いています。 新約聖書には『この世界は神のことばで造られている』という真理が説かれています。 この二つの真理を総合すると『この世界は幻の世界であり、催眠術のように神のことばで造られている。』ということになります。 つまり、唯物論の考え方とは根底から考え方が違うのです。 >>何か矛盾が起こると、「神のご意志」「神は人知を超えている」となっ >>てしまうことは、議論を避けているのでしょうか。 >>キリスト教は命令の宗教だそうですが、あれだけの命令を下しておい >>て、「神は人知を超えた存在で把握できない」と言われ、「はい、そう >>です」となりますか? 神は真理であるから、矛盾が起きることはありません。 もし、矛盾がある場合はその真理の理解が間違っているのです。 むしろ、唯物論の科学の方に矛盾があるのではないでしょうか。
お礼
>この二つの真理を総合すると『この世界は幻の世界であり、催眠術のように神のことばで造られている。』ということになります 仏教とキリスト教を合わせると、訳分からなくなります。 >矛盾がある場合はその真理の理解が間違っているのです 今迄は、真理の理解は解釈によると考えていましたが、真理とは宗教にないのではないか、あったとしても倫理のみだろうか、と思うようになりました。真理が何なのか、はっきりしなくなりました。 真理を説く、以前の福音派の教会の牧師が、ちょっとペテンに感じられてきました。
- Mokuzo100nenn
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神は想像上の存在で、多くの人が同じ神を想像するときには、共同幻想になるわけです。 共同幻想のうち、何十年何百年と継続するものが文化(の一部)になるものと思います。 共同幻想を漠としたままに放置すると、コントロールが利かなくなり、頂点に立つ者たちの利益が減少するので、自然発生的な共同幻想を文書化し、教義として固定しておくことが重要になります。 教義は難解であるほうが便利な側面もありますので、できるだけ難解にし、古代ラテン語で書いたり、サンスクリットで書くことにして、一般の善男善女が理解できなくしておけば、少数の専門家に頼ることになり、一層都合がよいですね。 しかし、依然として「はい、そうですか」と思わない知的な人が多いのだとおもいます。
お礼
>共同幻想のうち、何十年何百年と継続するものが文化(の一部)になるものと思います。 宗教文化の源流は共同幻想なんですね。 >教義は難解であるほうが便利な側面もありますので、できるだけ難解にし、古代ラテン語で書いたり、サンスクリットで書くことにして、一般の善男善女が理解できなくしておけば、少数の専門家に頼ることになり、一層都合がよいですね。 難解にしているのは、専門家・支配層にとって都合良くするためというのもあるんですね。
- take-on3
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そもそも宗教なんてのは人が人の為にでっち上げた物ですから。 本来の意味の神と宗教上の神とは別物です。 本来の神を崇め敬うには宗教なんて必要無いでしょ。
お礼
>本来の意味の神と宗教上の神とは別物です 教えてgooサイトで、上記のような主張を知り、宗教が以前と違って見えます。
- alterd1953
- ベストアンサー率20% (239/1173)
私は少なくとも全知全能の神は信じておりません。 罪の無い人達が大量虐殺されたり 凶悪犯の被害者になることを説明出来ないからです。 しかし、哲学的な欲求から、コーランや聖書を読んでおります。 今のところ、宗教を信じる人達からすると冒涜以外の何物でもないでしょうが 妄想としか思えません。 倫理的なことも書いてはありますが 論理的な荒唐無稽さに辟易とします。 ただ、現在もそうですが、この世の残酷さや狂気の存在を思うと 宗教に救いを求める気持ちも分かる気はします。 しかし究極の救いではないと思います。 私は徹底的に現実を観察するしかないと思っております。
お礼
>しかし究極の救いではないと思います。 私は徹底的に現実を観察するしかないと思っております ご回答ありがとうございます。 確かに、倫理的である一方、荒唐無稽な部分も多いです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 《ゼロ》という状態は 人間が経験しうる状態ではありません。いまさっきそこに有ったものが どこかへ行ってしまったので いまは無いというとき その《無い》は ゼロではありません。見えていないだけです。あるいは 別のものにかたちを変えただけです。 また《無限》や《絶対》は 概念として持たれていますが その内容は人間には経験し得ません。半分にしてももとのまま無限であり 三つに割ってもやはり無限のままであるというそのモノの説明内容を――想像の世界よりほかにおいて――経験しうることはありません。 《かみ》も同じです。 無限や絶対やゼロは じんるいがあとから持った言葉であり概念であるとしても 《かみ》は およそ元から持たれて来たと思われます。人間という存在にとって言わば絶対的な所与です。人間の自然本性にとって 存在そのものの欠かせ得ない条件となっています。 神の存在を証明することは出来ませんが 存在しないことを証明することも出来ません。 ですから この神と人間ないし《わたし》との関係は 人間なら普遍的に現象し得ています。(神を 《無い神》と言っても おなじことなのですから)。 ただし これを――つまりその関係としての信仰についてその内容を―― わざわざ言葉にして表わすかどうかは 人それぞれによっています。 たとえば《神は愛なり》というふうに言葉にして表わしたとした場合 まづこれをひとに説くという行為は これも表現の自由のもとにおこなわれ得ます。おこなわれ得ますが ひとつに神との関係をこの《神は愛なり》という表現に代えてしまってその《おしえ》をこそすでに神と見なすということは 明らかに神を勘違いしています。神とのマ(間合い)を違えています。 もうひとつに この教義の至上命令化はすでに マチガイですが しかもこの教義を人びとが群れてそこに権限の階層をともなった組織において持ち半ばそのオシエの実行を人びとに強いるということ これは 狂気の沙汰です。一人ひとり個人における良心・信教の自由を侵そうとしています。 ヒエラルキアをともなった組織が成ったその時点で――自然本性にとって絶対的な存在条件であるところの信仰にかかわって命令することがおこなわれるかぎりで―― 自由という人間性に違反しようとしており はっきりと神とのマもほかの人びととのマも ちがえています。マがくるっています。 ★ 神は把握できないのに、なぜ宗教教義があるのか? ☆ 《宗教》の起こりとしての《かみとひととのかかわり(つまり信仰)》は 人間にとって自由であり普遍的なことであるから 宗教批判がなかなか功を奏さなかった。のでしょう。 もうひとつに たとえばですが《なんぢ むさぼることなかれ》という教義は その概念内容として――確かに神の信仰に発していると思われ その思考内容としてなら――マは違っていないと考えられるからです。しかも このオシエそのものを神と見なすなら それは マが違ってしまいます。神を人間の思考力や精神と見なす勘違いを 堂々とおこなっていることになります。気もちがって来ましょう。(ころしあいを平気でおこなっています)。 このマチガイを指摘する批判も まだまだなかなか功を奏さなかったのでしょう。 ぼちぼち 宗教は根本的に批判し尽されるでしょう。宗教組織は――いまは結社の自由としてゆるされていますが―― すべからく自己解体へと向かうでしょう。
お礼
>この教義の至上命令化はすでに マチガイですが しかもこの教義を人びとが群れてそこに権限の階層をともなった組織において持ち半ばそのオシエの実行を人びとに強いるということ これは 狂気の沙汰です。一人ひとり個人における良心・信教の自由を侵そうとしています。 教義の至上命令化はマチガイで、権限の階層をともなった組織は狂気の沙汰を行っていること 宗教は根本的に批判され、宗教組織は自己解体すること これらは、教会の説教より、説得力があります。 欧州で教会離れが著しいのも、これらの理由かもしれません。ありがとうございました。
お礼
>そこで、宗教天才が出てきて宗教批判から宗教改革が起こるのです 聖典の見直し、教義の見直し、制度の見直しなどです 宗教改革に至るご説明、平易で分かり易く、勉強になりました。 確かに最初の教えは一般常識や一般道徳を超えていた筈です。 やはり、神の不可解性は、聖典・教義という制度に閉じ込められたのですね。 図書館で本を読むより分かりやすいご回答ありがとうございました。