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大谷刑部善継ってどんな人か知ってますか??
大谷刑部善継ってゆうひとはどんな人だったか教えてください。
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このページにある大谷刑部吉継ではないでしょうか http://www3.ocn.ne.jp/~hakutou/ohtani-yoshitsugu.html
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- monja2006
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豊臣秀吉の家臣で、らい病であったとも聞いています。 なので覆面をしていたらしいです。
- Kohki2666
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みなさんの解説で大谷刑部その人はよくおわかりになったと思うので、出自のみ補足です。 大谷の姓の通り、大谷一族の出の人で、血族が少なく敵が多かった秀吉が本願寺の支持をとりつけたく、ご機嫌を取るために大谷一族の中での秀でた者を取り立てて家臣にしたのが大谷刑部であったと思います。 秀吉は他にも、堺の商人だった小西氏から小西行長を取り立てて武将にして、堺を懐柔しようとするなど、僧や商人など既存の武士勢力以外から積極的に味方を取り込もうとしました。 秀吉の死後も石田三成に従って秀吉の遺勲を守ろうとした人たちの背景には、こうした本来武士ではなかった武将であるという背景もあったのです。
- marines-i
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少々個人的な感想も入っていますが、こちらもご参考に。
- Pinhole-09
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大谷刑部吉継の簡単な解説を。 秀吉の近習衆として登場、賎が岳の合戦で軍功を挙げ、天正十三年秀吉参内の折、従う大名十二人の一人に加えられた。 従五位下、刑部小輔に叙任、越前鶴賀五万石を与えられた。 慶長五年、家康の会津攻めに参加する途中、石田三成の説得で西軍に加わった。 関が原の合戦で四十一歳で戦死。 以上「関ヶ原合戦始末記」より 逸話として、吉継はハンセン病を患い顔に膿が出て、白布で顔を隠していた。 茶会(一つの茶碗を回し飲みする。毒入りでない保証)で吉継が口をつけた茶碗は、後の誰も口をつける真似をして飲まない。 三成はこれを飲み干して、茶碗を替え差した。 吉継に恥をかかせぬ為である。 ために吉継は病のため輿に乗ってでも西軍に参加した。 関が原の敗戦で介錯する部下に、自分の首を持って逃げて、見つからぬ所に埋めろと命じた。 醜い首を晒したくなかったのだ。