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子供が母語を話せるようになるしくみと大人の外国語学習の類似点

子供が母語を習得するのと、大人になってから外国語を習得するプロセスはたぶん根本的に違うのだろうなとずっと思ってきました。 しかし、私自身子供を育てた経験から、子供が言葉を話し始めるときに、かなり「言いたいことが言えなくて自分自身もどかしい」という時期があるように思います。コップの水が、いっぱいになって初めてあふれるように、ある一定の時点にならないと言葉をスムーズに組み立てて話せるようにはならないように感じます。 私自身、外国語を学んでいて、どうも同じようなことが大人でもあるのではないかなぁと感じるのです。飽和点に達するまでにある一定の時間がかかる気がするのです。(もちろんそれまでに語彙をインプットしたり、文法を学んだりすることも必要だと思いますが) 飽和点に達しないとペラペラと話せるようにならない。 それに反して、飽和点に達するまで運用能力を鍛えたら、きっとペラペラになるような気がする。 子供がとにかく上手に話せるようになるまで行う「へんてこりんな会話実践」を、大人が外国語を学ぶときもかなりしないと飽和点に達しないのではないかと思うのですが、これは少し違うでしょうか? (もちろん間違ったまま話しまくっては逆にいけないと思いますので、自分で常に正しい表現をするように心がけてが前提です) 教えてください。

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回答No.6

Gです。 こんにちは!! 私なりに書かせてくださいね。 確かに大人と子供の外国語(幼児にとっては母国語)の習得方法は違うと思います。 >飽和点に達しないとペラペラと話せるようにならない。 それに反して、飽和点に達するまで運用能力を鍛えたら、きっとペラペラになるような気がする。 も正しい理解だと思います。 飽和点と言う部分がどういうものなのかと言うと私には疑問に思えますが、運用能力を鍛えたら、と言う部分は100%同意いたします。 この運用能力の鍛え方が結局英語をしゃべれるようになる、英語力を高める、と言うことに直接繋がると私は信じます。 その鍛え方にはたくさんの方法がありますね。 学校英語の「100%正しくなくては英語とは言えない」「正しい英語を知らなくてはいけない」「発音もきれいでなくてはいけない」と言う鍛え方では結局ぺらぺらしゃべれるようになる鍛え方では無いでしょう。 しかし、正しい英語をつけるようになりたい、発音も相手が聞き取れるような発音ができるようになりたい、など具体的でなくても第一歩を進む「心構え」のようなものがあれば、それは自分の容量を増やすと言うことに繋がるでしょうね。 つまり、正しい表現(文法的に)をしようとするのではなく、社会的に認めてくれる様になりたいと感じるようになればもっと前向きに自分を向上させることができると言うことに繋がると思います。 試験で満点を取ることがぺらぺらにしゃべれると言うことに繋がっていれば、試験への勉強をすればいいわけですね。 しかし、残念なことに今の試験方法ではぺらぺらになるとは決して限らないと言うことが証明されています。 では、どうしたらいいでしょうか。 ひとつには、大人だから子供のように習うことはできないと言うマイナス思考を壊す考え方を鍛えればいいと言う方法があります。 間違いを気にしない、勇気をまずもってしゃべる、自分に自信を持つ、などかなり精神的な要因を大人として有効化すればいいのです。 三つしか書きませんでしたが、これらすべて子供たちが無意識にやっていることなのです。 それを意識的にもすれば効率を高めることが出来る、と言うことであり、大人として「自分を誘導する」と言うことなのです。 学校を卒業した時点で新しく日本語をぺらぺらになろうと思ったことは無いと思いますか? 社会人としてのしゃべり方、はどうですか? ビジネスマンとしてのしゃべり方ですね。 今まで、~じゃん、で通してきた学生が、~ではございますが、当社といたしましては~~~、は学生にとっては外国語です。 少なくとも私にとってはまだ外国語です。 日本の文化に合わせて大人としての社交辞令的表現をぺらぺら言える人は私にとってはうらやましい限りです。 でも、皆さんちゃんと習っていっていますね。 社会人としてしなくてはならない、と言う「自覚」が目覚めた、と言うことでもあるでしょうね。  これを英語習得に使うと言うことは考えたことがありますか? 留学生が、このままじゃまずい!と思った人はそれだけ挫折寸前に陥る時がありますね。 そして、真剣にこのままではだめだ!と思い「大人として」の運用能力を鍛えよう!と決心することで今まで作り上げてきた(無意識にでも出来た)物を使うことでどんどんうまくなるわけです。 だめだ!と子供は思いませんね。 思わないように意識的にするのが大人のやることと言うことになります。 「人間として生まれ持った本能」ではなく、大人として気づきあげてきた意識的な向上欲がここで生きるわけです。 このカテで5年間言ってきましたが、向上は向上欲と比例する、と言うことなのです。 そして、自分を向上させるにはどうしたらいいか、という事が自己啓発と日本語で訳されているモチベーションを自分に持たせることなのですね。 自分に自信を持て、と言うことは言うのは簡単だがいざ自分に持たせるとなると話が変わってくるのです。 何故でしょう。 それは、自信を持つ、と言うことには、自分がよしとする基準を下げる、と言うことも必要だと言うことなのです。  つまり、自分が今できることに対して、俺はだめだ、ではなく(「俺はだめだをモチベーションの原動力として使うのではなく)、今までの向上を自分で認め、この向上の存在を認識し、これだけ出来ればもっとできるはず、と自分を持っていくことですね。 つまり、自分の今までの向上を、ゼロから始まったんだ、と認識することで、今できることは今までどうり向上するんだ、と分かるわけです。 つまり、これは自分の容量(器の大きさ)を今日もまた増やし、余裕を持って満たしていけるわけです。 「もうこれが限界だ!」と自分に「言い聞かせれば」自分の容量は大きくなりませんね。 日本語では、病は気の持ちよう、と言いますね。 私は、英語習得は気の持ちよう!と言うわけです。 子供では出来ない事のひとつで有効なことに、自分を意識的に「高望み」をせずに、「いつか必ずその頂点に届くのだから今は頂上は見えなくてもいいから、自分に負けずに一歩一歩進めば必ず着く」と「考え方を変える」事で自分にも挫折しないで習得することが出来るわけです。 大人としてできる(してしまう、と言った方がいいですね)思考能力を自分に対してどう有効に誘導していくか、と言うことなのです。  それが日本的な昔からの武道のやり方でもあるし、こちらで開発されたmotivationでもあるわけです。 自分が英語に対して外国人である以上、日本にいる外国人が使いこなしているレベルでいいじゃん、と器の口を広げることも自分の英語に対しての自信がつくことになり、「間違い」がプラス思考的に自分を向上させていくいい機会になるわけです。 (うまくなってからしゃべろう、なんていう考えはおかしいと思いませんか?) 下手だから習う、なんですよ。 うまくなってもまだ下手だからもっと習う、とプラス思考的能力を持てば死ぬまで自分を向上させていくことができるということなのです。 英語がしゃべれる人がこれでいいと思ったらそこが最後になるわけです。 しかし同じ人が、じゃもっと説得力をつけよう、と思えば、しゃべるだけでなく、英語と言う言葉を「こなしていく」ことになるわけです。 富士山の頂上へ行って「俺はすごい登山家だ!」なんていう人はいませんね。 エベレストの方が高いということを知っているからですね。 でも、どれだけの人がエベレストに上ろうとなんて思いますか? 富士山に登ったら「俺はすごい登山家だ!」と思わずに、「さて次はどこに登ろうか、それとも今度は違う登山口から登ろうか」と気楽に考えて、登れたらひとつの向上を認識できるイベントとして使うだけでいいわけです。 Success is accumulation of small successes.なんです。 つまり、習得には終わりが無いのです。 無いからこそ終わり(完璧な英語)なんて無い、と考え、無いならあせることは無いな、と自分を誘導することもたまには必要なわけです。 スランプを感じる時がありますね。 スランプは球根が植えられても芽を出さないのと同じなのです。 発音が聞き取れない、と言うのも同じ球根なんです。 芽が出て来ない、から、こりゃだめだと言う人はいますか? 芽が出るのは根が出て土の中で芽が「向上」しているのです。 目に見えないから自分で向上していないと思い込むからそれをスランプだと感じて自信がなくなるわけです。 いろいろな発音を聞いて脳が一生懸命それに慣れようとしてして芽を出しているのです。 ただ地面からまだでない、と言うことに過ぎません。 ほとんどの人が感じることがあります。 ある日突然聞き取れるようになる、聞き取れる!と意識的に感じるのです。 その日が芽が地面を割って顔を出す日なのです。 へんちくりんな会話実践、大人が「(大人しか出来ない)見栄を捨てて」やれば身につくことに繋がる、ということになり、できるようになった人たちが一様に「恥ずかしがらずにしゃべらないと!」と言うアドバイスをするわけです。 これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。 

参考URL:
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=2264075
minnnanouta33
質問者

お礼

本当にいつも励ましていただいています。 回答をありがとうございます。 今後つまづいたときに、何度も読み返したい回答です。 私はときどきとてつもなく自暴自棄になってしまうことがあります。 自分がとても小さく感じて、自分のやっていることが 全部何の役に立たないことに感じてしまう。 でも今度こそは諦めないでがんばるつもりです。 土の中に眠って、じっと出られるのを待っている芽が いつかきっと出てきてくれるのを楽しみに待ちます。 うちの二女は左利きのせいか、右利きの他の娘よりも言葉を話すのも遅く、 小学生になってもなかなか時計の読み方を理解できませんでした。 普通親ならとても心配になるものですが、「大人になって時計が読めない人はいない」 とどこかで聞いたかして、結構それほど心配せずにいられました。 結果今は高校生ですが、もちろん問題は何もありません。 普通に冗談を交えて話をするし、時計も読めます。 ちょっとお話が逸れてしまったかも知れないけど、 そういうことだと芽が出るのが遅くてもなんとかなると思えるのに、 こと自分が学んでいることだとどうしてこんなに心配になってしまうんだろうなぁ・・って思います。 でも、できるようになった今だからこそ、過去を懐かしく思えるのですよね。 待った甲斐があったと思えるようになりたいです。 なりたい・・・ではなく、なります。 Ganbatteruyoさんの言葉をよく噛み締めて、 前向きな気持ちを持ち続けられるようがんばります。 本当にありがとうございました。

その他の回答 (5)

noname#47281
noname#47281
回答No.5

私も子供と大人では言葉を覚えるプロセスは違うと思います。それに「言いたいことが言えなくて自分自身もどかしい」というのは子供よりも大人がの方がはるかに顕著に現れますよね。それに飽和点というなら、 大人の方が溶媒の量が大きくなりますので、当然のことながら それに比例して溶質の量も増えますよね。

minnnanouta33
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 おっしゃることその通りだと思います。 確かに大人と子供では、違うプロセスをたどるものですね。 ああ、子供のずうずしさが羨ましい(笑)。 回答参考になりました。 ありがとうございました。

  • jayoosan
  • ベストアンサー率28% (929/3259)
回答No.4

普段海外サイトでいろんな情報をみていますが、言語習得に関しては、次の2つの説(意見)をみかけておもしろいなと思いました。 1つは、脳の研究者の言葉で、人間は子どもの頃には、目から耳から得た情報から、脳が周囲で話されている言語の、構造やルールごとを自動的に組み立ててしまうとのことです。 ですので語彙はともかく、1年もしないうちに子どもどうしで話せるようになるとのことでした。 しかしこの能力は、おおよそ9歳くらいで消える傾向もわかったそうです(人によるのでしょう)。 それ以降時間がたてばたつほど、自分を納得させる文法や理屈が必要(と思い込んで教材を買い求める)ようです。 もう1つは教育関係の人とおもわれる人が書いていましたが、赤ん坊は、やはり目から耳から得た情報から、大人が言語というものをつかって他人とコミュニケーションをしているのを知り、自分もそれをやってみたいもしくは試してみようと思いはじめます(思わない子どもは話しません)。 それで大人の話しかける言葉を、「口まね」しはじめるとのことです。最初は単語の羅列、そして次第に短いセンテンスをくりかえします。 子どもはその意味がわからなくても、とりあえず短いセンテンス、例えば「水(みじゅ)」を発したとき、周囲が水をほしがっていると思い、水をどこかから調達してコップにいれ、目の前に置いてくれると、「水」という言葉で「水」が入手できることを体験します。 このくりかえしで、言葉を覚えていくとのことです。 また子どもは1人で遊んでいるとき、相手もいないのに、単語を意味不明にいっぱいくっつけたり、あーうーといいながら、長い一人言をいっているときがあります。そこでは会話のまねごとを自分の中でしているようです。 いつかそれを親に対してつかったとき、親に伝わるセンテンスと伝わらないセンテンスがあることを覚え、親から「今度はなに?ミルクがほちいの?」と教えられたりして、どれが言語として有用であるかを、具体的に体感していくそうです。「ミルク」で「ミルク」が出てくれば、それはからだで覚えます。 飽和点というのは、未熟な自分の語彙のなかで、どれが相手に伝わり、どれが結果としてほしいものを入手できるかを、必死で探しているのかもしれません。 これに似てると思われるのが、トロイ発掘で有名なシュリーマンが13ヶ国語以上話せたという話ですが、彼が自伝で「自分でいくつかセンテンスをつくり、それを聞いてもらうために現地の人を雇った」と述べています。 彼の時代は130年も前なので、教材が抱負とはいえなかったと思いますが、自分で文をつくりそれをネイティブに対して話す。たぶんネイティブは、聞いたことに対して、いろんな短い質問や返答をすると思いますが、それを聞いてシュリーマンは「ああ、これは伝わったんだな」とか「こういうことを言うと、こう聞き返されるのか」と学んだに違いありません。 私は彼の本を読んだあと、中国に仕事でとばされ、現地で中国人女性をやとって同じことをやってみましたが、文章をまず自分で発し、相手にランダムな返事を返してもらうと、そこで自分の発した音声が「言葉」として相手に通じた快感と、ケースによって返って来る返事や結果が異なるスリルを味わい、これは短い間に体得するには有効だな、と感じました。 CDから受け身で聞いたり、音声を合わせてリピートするより何倍も効果的であると実感します。相手に通じた文や返答は、間の前の相手の表情とともに忘れないからです。 やはり赤ちゃんと同じく、「自分の頭で言葉を探し、選んで発した言葉が相手に伝わる」。この快感が、上達の鍵なのかもしれません。 最初は間違ってても大丈夫だと思います。 なぜなら世界の大半の人は、たいした教育もないが英語を話さざるを得ない環境にあり、実際話しています。また、自分の過去をふりかえっても、商談や契約でもないかぎりは問題ないですし、間違いはいつか自然に気づき、治り治されるものです。

minnnanouta33
質問者

お礼

とても興味深い回答をありがとうございました。 じっくり拝見しました。 「自分の頭で言葉を探し、選んで発した言葉が相手に伝わる快感」が、今までの私の外国語学習の励みになっていたようにも思います。 思えば私が3人目の子供を妊娠していたときに始めた英語の最初のきっかけは、「今からでも勉強すれば通じる英語が身につくようになるんだろうか?」という単なる興味でした。 一年ラジオ講座で勉強をして、なまじできると勘違いした私は、2年目にネイティブの先生がいる英語サークルに参加して、毎回「これだけは言おう」というフレーズをいくつかノートに書き出してあらかじめ練習をして行ったものですが、本当に「言ってみると通じる」ということを体感して、本当になんて面白いものなんだ!初めは単なる暗号でしかなかった音が言葉として生き始めるなんてすごい!と感じたものです。 これと同様の感動と喜び、面白さを、現在英語を10代になってから勉強し始める学生さんたちが体感することができたら、英語はもっと自発的に勉強したい教科になるでしょうね。 英語を勉強していると本当にいろんなところで知らないうちに役に立つものですが、英語は言葉である限り、学ぶ必要性に興味を持てない人がいてもそれも何ら不思議なことではないと思うのです。だから、やはり「選択制」にすべきかも知れません。 でも私自身、学生の頃英語が苦手だったという体験すらなかったら、大人になって違う方法で挽回してみようとは思わなかったかも知れない点を考えると、一応でもいいからかじっておくのも悪くない気もします。 本当に面白いお話をありがとうございました。 とても参考になりました。

回答No.3

私も質問者さんに基本的には賛成です。 子供の母語習得と大人の外国語習得は、巷で言われているほどは違いません。 >子供がとにかく上手に話せるようになるまで行う「へんてこりんな会話実践」を、大人が外国語を学ぶときもかなりしないと飽和点に達しないのではないかと思うのですが、これは少し違うでしょうか? そのへんてこりんな会話(発話)を「中間言語」と言います。 私は長年外国人に日本語を教えていました。外国人学習者は「私は漢字が書けられます。(正しくは、書けます)」みたいな変なことをよく言います。日本語の文法を色々推測しながら自分なりの文法で話しているのです。 「明日公園で行く」(「に」と「で」の区別が難しい) 「犬がにぴきある」(「なんびき」や「いっぴき」につられて「にびき」または「にぴき」と言ってしまう。「ある」「いる」の区別も難しい) 「明日デパートに行くです」(「行きます」と言うべきところ、「名詞+です」の言い方に引っ張られて、一応通じるし基本形を活用させる必要もない「行くです」を使ってしまう)等… 子供を産んで本当に驚いたのですが、子供も、外国人学習者が間違えやすいところを同じように間違えるのです。間違えながら中間言語に変更を加え、次第に一人前の日本語話者になってゆくのです。 ただ、大人が外国語を勉強する場合、「中間言語」を脱却してその言語の完璧な話者になるのはかなり難しいと思います。 大人になってから日本語を学んで完璧な話者になった人なんて、見たことあります? テレビに出ている日本語うまい外人タレントも、日本生まれ日本育ちの人ほどは話せません。 ほとんどの大人は、外国語を勉強しても永遠に中間言語の話者です。 そこが、子供と大人の違いでしょう。 あと、母語習得と外国語習得では、使っている脳の部位も違うらしいです。 質問者さんがおっしゃる「コップの水があふれるように」は、おそらく、ある程度のヒアリング力、ある程度の語彙量、ある程度の文法力がそろって少し自信もついた段階だと思います。 この「自信」が重要なんです。 自信さえあれば、どんなにド下手な人でも、ペラペラしゃべります。 自信がなければいくらペーパーテストがよくても、まるで話せません。 私の経験から言って、ちょっとうぬぼれ強いぐらいの方が、外国語の会話力は早く伸びます。

minnnanouta33
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 とても興味深く拝見しました。 今私は「中間言語」にいるんだなぁと自己認識できました。 日本語を勉強している外国人の方のお話、とても興味深いですね。 とてもいじらしくて応援したくなりました。 私もそんな風に映っているんだろうかなぁ・・と思いました。 確かに私も子供を育てているうちに、子供が言語を覚えるのはとても面白いと感じました。 そして、左利きの二女などは、なかなか言葉がきちんと話せるようにならず、彼女自身自分が保育園時代に、言いたいことがうまくまとまらなくて本当に辛かった、ときどき言いたいことが言えないストレスから、話しながらカーテンにまるまってごまかした・・などと現在過去を振り返って話しますが、左利きの人は右利きの人と脳の使い方がちょっと違うせいかなと思ったりもします。 しかしながら、大人になってからでも、ほぼ完璧に日本語を話す人がいるというのは認識しています。たぶんそれはまれに見る才能かと思いますね。大人になってからの言語習得には、母語習得のときとは違う「センス」がかなり影響しているのではと感じます。 完璧でなくても、押さえるところを押さえてあればいいと思いますね。 私はもうかなり英語を勉強してきて自信を持ってもよい段階だと思うのですが、なかなかまだ運用能力が鍛えられておらず尻込みしがちでした。 しかしながら使わなければ一向にうまくなるわけはないのです。 だからがんばってこの「中間言語」を乗り切ろうと思います。 (乗り切れるようなものではないのかな・・) がんばってみます。 ありがとうございました。

noname#158736
noname#158736
回答No.2

それは誰にもわからないことです。 ただ言えるのはご存知かもしれませんが、子供と大人では言語習得の 過程が違うということです。 外国語学習は日本語で考えながら、日本語に置き換えながら外国語を 考えることができます。言葉を何も知らない子供はそれができません。 そもそも子供は脳の言語野を使っての習得になりますが、もはや10歳を 過ぎて言語野に何も入らなくなった大人は右脳を使っての言語習得に なります。 この2点を考えると、子供と大人の言語習得には大きな違いがあり、 同じ土俵で比較できないと思います。感覚の問題です。

minnnanouta33
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 確かに、大人と子供の言語習得の過程は違うようですね。 正反対かも知れないと知ってから、ちょっとがっかりもしましたが。 しかしながら、大人だからこその言語習得の道もあるとわかり、希望が見えました。 回答とても参考になりました。 ありがとうございます。

  • Mu-tsu-ki
  • ベストアンサー率39% (25/64)
回答No.1

「言いたいことが言えなくてもどかしい」時期は、大人にもあると思います。 子どものそれとは、違うのかもしれませんが(子どもがいないので、違いが 何とも説明できないのですが)、大人の場合、リスニング力の方が、会話力 よりも先に身につくと思います。だから、言ってることは何とか解るんだけど、 返事ができない…という状態でしょうか。 間違ったまま話しまくっても、ある程度はいいと思います。失敗を気にしてたら、 伸びるものも伸びなくなってしまうかもしれないので。 今、アメリカに住んでいますが、最初の6ヶ月くらい、話せない自分に ものすごくストレスでした。それが、いつの間にか(これが飽和点かな、 と思います)、話せるようになってました(ぺらぺらではもちろんないですが、 思ったことが、すっと出るような感じでしょうか)。そうやって話しているうちに、 自分の文法の間違いなども、気づいて直せるようになってました。 minnnanouta33さんのように、「自分で常に正しい表現をするように心がけ」つつ、 「へんてこりんな会話実践」で、失敗を恥ずかしがらずに話していけば、 すぐに飽和点に達すると思います。

minnnanouta33
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 私はまさに、 >最初の6ヶ月くらい、話せない自分に ものすごくストレスでした。それが、いつの間にか(これが飽和点かな、 と思います)、話せるようになってました(ぺらぺらではもちろんないですが、 思ったことが、すっと出るような感じでしょうか)。そうやって話しているうちに、 自分の文法の間違いなども、気づいて直せるようになってました。 というような「もどかしさからの脱却」をした方のお話を聞きたかったのです。たぶん続けていけばどんなことも体に馴染み(頭でわかっていても体が覚えなくては自然にできませんからね)いつか楽に何も考えなくても(自転車の習得や車の運転など)できるようになるとはぼんやりわかってはいても、こと外国語となると、日本語が楽にできるだけに、できないフラストレーションというのはすごいものがあります。なまじいろんなことについての知識や余計な意識があるだけに、子供のような返答しかできない自分に本当にイラつくのです。 でも勇気が出ました。 「へんてこりんな会話実践」で、失敗を恥ずかしがらずにがんがん話して、きっと飽和点にたどり着きたいと思います。 回答をありがとうございました。

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