やあ、こんにちは。
すでに詳しい御回答が続々挙がっておりますし御質問者自らも下調べはなさっていることと思います。念押しのような形になるかもしれませんが御容赦のほど。
Philosophyの直訳:Sophia=智をPhilein=愛す の意
(スペルは、うろ覚えです、御容赦!)
賢哲を愛し希求す、または智恵を愛し求むという意味で「希哲学」なる訳語を元 津和野藩士、西周氏が造語のちに哲学と改められ固定した。
それまではギリシャ語の音訳しかなかった西洋にもない画期的意訳であると同時に日本において哲学への誤解が生じることともなった。
ちなみに主観、客観、観念、概念、演繹、帰納、命題、理性、悟性、現象、芸術、技術等々の日本語訳も西先生が生み出されたそうです。
さて哲とは
名詞ではなく形容詞であり、あきらかというようすを示すコトバ(→事理に明らか、物事を深くわきまえている、賢明で智恵がある)であって学問の内容や対象を表現しているのではない。
このように日本で造られた訳語であるが、中国人留学生が明治時代に自国へ持ち帰り、いまは中国でも、そのまま使われているそうです。
と、以上は「哲」の語源に関して以前、自分も疑問に思ったので検索して調べた結果です。
ウィキペディアの哲学の項も御参考にしていただけるとお薦めします。もう御覧になっているのかもしれませんが。
付け足しです。(これが一番言いたかったりして)
別のスレッドのことを、こんな所へ持ち出して申し訳ないが例の心理学カテゴリでの御質問、〆られましたが補足等で質問者が反論的意見を述べて直後に締めるという行為はいかがなものかと。
ここは質疑の当事者だけではなく閲覧者もいて過去スレ「検索」システムが売りでもあります。
当方が述べたつもりの真意を理解しておられませんでした。つまり「そもそも同調や共感を求めるのが第一の目的であること自体が思考停止」だと言いたかったわけ。
締めるタイミングも熟慮しないと思わぬ争いに繋がったりするので御注意くださいね。(前例があります)
ついで。
>やはり言語が絶ち切れるということなんですね。
この解釈も、なんかおかしいです。
後半機微〆になったでしょうが敢えて申し上げます。
ゴメンなさいよ。
お礼
luune21さんお礼が遅れ申し訳ございません。 精神もようやく落ち着いてきましたところ、 詳しく教えていただき勉強になります。 ますます言葉というのは色んな摂理を含んで使い分けていたりで関心しますね。 哲の「先の成り行きを見抜く知恵」というのは やはり思慮深くなる経験をした、 真価や儚さを知っても自分を見失わないなどの 知恵で、天地がひっくり返っても 大丈夫?っていう 見抜いたではなく、 動じなくなった(想定内だった)のとも 言えそうに思います。 同訓異議のものも興味深く知れて嬉しいです。 興味深いURLを何度も読んで、 私にはすぐ理解するのは難しかったのですが; ようやく解ってきました。 「賢」と「哲」はほぼ同義で、 東洋思想の宋学的思弁(儒教的理想?) とは一線を引いて避ける用法としたかった 意図が「哲学」の訳者、西周さんにあったようです。 「理」は物質的なことの根源や法則を探るもので、 理工学を指す意味の方向に収束したのであるようです。 解釈に間違いがあれば訂正してください;。 >聖人は文明と制度を人々に作り与えてくれた存在として 崇め尊ぶものであり、 いわば人の本性を越えたところにある理想的な人格 だったのである。 だが、人間というものは、 自らの本性の働きを正しく発露させるならば、 まず賢なることを目指して動かされ、 ついで賢に至った者はさらに聖なる者への向上を目指し そして聖人は天地のごとき 公平な私なきありかたに向かい、 ついに究極的にそこに至るものである。 (参考URLからの引用) 人としての生き方の方法を探るのが哲学 ということになるでしょうか。 聖人、賢人でなくても「人として学んで向上を目指すなら誰でも学問の方法(哲学)を習得する」 ということみたいです。 「私は良い人間か」 そう自問しながら自覚を得る、 そして覚悟を決めることが哲学かもしれませんね。 私はよく悩み、方法を探ってばかりです。 賢くなったかどうか成果は今もって謎ですが。 賢い人の存在を知れることはミーハー的に 私の幸せでもあります。 哲学する過程は悩みながらも、 悩むのが一つの生きる実感でもあり あり難いなと思います。 本当に勉強になりました。ありがとうございました。