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なぜ日本は植民地にされなかったのですか?

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに なぜ日本は植民地にされなかったのですか? 日本の教育水準が高かったからですか? それとも単に運がよかったからですか?

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  • babel3
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回答No.12

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。 アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという… 江戸幕府も同じなのですが。 ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。 幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。 (ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは) ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮) これが砲台場、今の「お台場」です。 これにはペリーも驚いた。 あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで 「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。 こんな人他のアジアの国にはいなかった。 日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。 アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。 松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^ ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。 ・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった ・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである) ・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ 江川さんがいなかったら大変だったと思うよ ・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ 最後は大分大胆に物事運んだけど。 ・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^ ・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた (ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。 兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。 最初、不平等条約だったのもしゃーない。 しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。 まぁ頑張りましたね、当時の日本^^

その他の回答 (15)

  • Gantz10
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回答No.5

 日本人は手ごわいと思われたからです。  魅力が無いなんてことは100%ありません。日本は開国時点で世界有数の産金国で、貨幣経済をよく分かっていない幕府の無策のせいで、膨大な量の金が世界に流出してしまっています。  さて、蒸気船という動力船が開発された瞬間に、林子平が海国兵談で述べたように、海は防壁ではなく逆に「窃(ひそか)ニ思フニ江戸日本橋ヨリ唐土及ヒ阿蘭陀迄モ境目ナキ水路ナリ」(巻之1、2丁)という、侵略ルートに変わりました。  が、当時の日本はアジアで唯一蒸気船を見て「自分でもアレを作れる」と考えた国です。技術に関する教育水準が高かったことが、極めて効いています。  同時に、厳密に言えば違うのですが、一体の国家という意識も強くありました。だから、国内で倒幕運動が行なわれている中で外患の進入が防がれたのです。世界史でよく見られるように、一方の派閥がA国に助力を頼み、他方の派閥がB国に協力を願い、結局AとBに分割統治されるかAかBに占領されるというパターンになりませんでした。イギリスとフランスなどが、その打診をしたにも関わらず。これは、歴史についての教育水準が為政者レベルでは高かったと言えます。  その結果、日本は外患を誘致するのではなく、日本人を海外に留学させて学ばせるという手段をとりました。遣唐使や遣隋使もそうですが、このようなことを特に不思議とも思わず行なうのは、実は日本に特徴的なことです。  低開発国から先進国への留学が、現在は特に不思議な現象とも思われず世界中で行なわれていますが、この嚆矢は遣隋使と言ってもいいでしょう。  しかも、海外に学びに行った日本人の中には、「お前たちは何のために学ぶのだ」と聞かれて、「お前たちと戦ってやっつけるためだ」と平然と答えたりするエピソードが残っています。精神が負けていなかったのでしょうね。  類似の話で、外国人が日本人を評して、貧しくても礼儀正しく品格があるとして敬意を払っているケースが多々あります。そういう現場の評価が、いきなり攻め込んで植民地化するという方針があったとしても、足を引っ張るものになったでしょう。敬意とは実力があってこそ払われるものですから、礼儀や品格はいわば「仕上げ」だったのでしょうが、現場の人の心を動かすものとしては、この仕上げはかなり大事です。  まとめると、列強が日本を侮れないと思って様子見をしているうちに、日本が本当に実力を付けていったという経緯です。

  • m41
  • ベストアンサー率30% (346/1127)
回答No.4

ひとえに明治政府の頑張りでしょう 幕末列強諸国は幕府と朝廷に働きかけ多額の援助金等を送っていますので当然清国のような植民地化は考えていたでしょう。 アヘン戦争で清国は敗れていますので香港等を足がかりとし日本を攻撃する事は可能だったと思います 実際長州は負けていますし アメリカ等は日本近海で頻繁に鯨を取っていますし日本から大量の金が幕末諸外国に流れていた事を思えば 魅力が無かったとは思えません 只アメリカは南北戦争直後で日本を攻撃する余禄は無かったと思います フランス・イギリス・ロシア(特にイギリス)は かなり力を入れていたとは思いますが 明治政府の対応の早さ 勝海舟や小栗上野介等の活躍により幕府と薩長土肥の大きな直接対決が無かった為 国力をかなり残した形で政権交代が行われた事が大きな理由だと思います。 諸外国も軍艦での海戦では絶対の自信を持ちながら刀を持つ侍との陸戦には大きな犠牲が出ると考えていたようです。 確かに運も良かったのでしょうが やはり維新の時の有能な人材のおかげだったと思います 偉大なる祖先に感謝ですね。 大東亜戦争時にもし彼らのような有能な閣僚が居たら世界史が変わっていたことでしょう。

回答No.3

運がよかったという投稿には疑問を感じます。 鄭和の大航海以来、明からの鎖国政策を継承していた清国、庶民の民度の低かったインドと比較すると、オランダを通じててはあるけれど、世界の動きを探っていた江戸幕府や密貿易を通じて欧米諸国の情報を得ていた九州等の西国大名などでは、対処自体が違うでしょう。 実際、生麦事件以後の薩英戦争や下関事件など、結果として敗戦となったが、存在感を示し、欧米諸国をして、交渉相手として認めさせています。 また、ロシアによる対馬占領等の恫喝にも、毅然とした対応をとり、結果として取り戻した事など、当時の我々の先達の努力の結果だと思います。 数度に渡り領土を奪われた清、ムガール帝国とは違うと言えましょう。 当時日本列島は、アメリカにとり捕鯨基地、中国大陸進出の足場であり、良質の金銀等を産出することが知られていました。 アメリカの詐欺まがいの小判交換など、幾つもの傍証もあります。 その中で、独立を保ち、諸外国の干渉を排除したのですから、すばらしいと思います。 そしてその根源となったものが寺子屋、藩校といった初等教育から高等教育まで受けられた日本の教育水準の高さだと言えるでしょう。

  • fatpigs
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回答No.2

植民地にする魅力が無かったってのが正解でしょう。 実際、日本で一番美しい沖縄や小笠原諸島はアメ公にふんだくられましたしね。今でも居座り続けています、あの野郎どもは。すぐに出て行けといいたい。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

運がよかったということもないことはありませんが、 1.列強各国が競い合ってにらみあっていたので抜け駆けで手が出せなかった。また、アジアの端の日本に大軍を送るだけの力のある国はなかった。 2.日本の指導層もインドや中国の事例を知っていたので列強につけこまれないように努力した。 の2点が日本が植民地にならなかった大きな要因です。

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