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思考するのに言語は必要か・・・
言語学に関することなのですが、 私たちが物事を考える時に言語は必要か というテーマでレポートの課題が出ていて大変困っています。 やはり思考する上で言語というものは必要不可欠だと 思うのですが、それをうまく立証できないのです。 例えばどんな時に、どんな風に私たちは言語を利用しているのか、 皆さんの意見を聞かせていただけないででょうか。 大変抽象的な質問で申し訳ないのですが もしよろしければ回答をお願いいたします。
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はじめまして 言語学的な回答かどうかは分かりませんが… 物事を考える、という行為の前提にある我々の行動について考えてみます。 一般に、思考を含めた我々の全ての行動は、入力→処理→出力、で成り立っています。思考するだけにしても、材料となる条件・仮定等が入力要素としてあり、結論となる事柄を文字や声といった形で出力しなければなりません(結果を脳内にとどめておくにしても、思考した結果を「記憶」という形で脳内の海馬(?)に出力しているわけです)。思考した結果をダンスや絵画で表現する方も、まれにいるかもしれませんが…他の人には分からない、ひどく分かりづらい出力になるでしょう。 つまり、我々が一般的な形で思考する場合には、言語的な入出力が行われているといって、差し支えないのではないでしょうか。 質問者の方の問いかけは、 A「入力や出力に際し、言語が必要となるかどうか」 B「思考自体を、非言語的に行えるかどうか」 という問いかけにも受け取れます。 まずAの場合。 「入力や出力に際し、言語が必要となるかどうか」 考える対象にもよるでしょうが、全く不可能ではないと思います。 少なくとも、言語をすっ飛ばしたような(言語による出力が補助的な形でとどまるような)処理・出力の仕方もあるはずです。 例えば、コントでテレビのディレクターがカメラのカット割りを説明するのに「こっちからバーンときて、ガーン、ガーン。で、ドーン! よし、これでいこう!」みたいなことを身振り手振りで表現するシーンがありますが、あれはどちらかというと視覚的なイメージの伝達がメインで、言語自体はサブというか、雰囲気を伝える程度の利用だと思うのです。 料理を作る際も、材料や道具をいちいち言語的に理解しているというよりは視覚的イメージのレベルで処理しているでしょうし、作曲家が作曲する場合にも音を言語的に処理しているとは言えないような気がします。やはり音楽的イメージのレベルで処理しているのでしょう。 あくまで、こういったものも思考と捉えるならば、です。 つぎにBの場合。 「思考自体を、非言語的に行えるかどうか」 語彙の発達を考えると分かりやすいのですが、ある言語の語彙は、社会的な生活の中で必要な分野や状況で増加しやすいと考えられます。 はじめは「手」と言うだけで十分だったのが、「指」「手の平」「手の甲」「手首」「腕」「ひじ」「二の腕」といった形で分化していったのだと。解剖学的には、さらに細かい名称が各部についているのでしょう。エスキモーの言葉には「雪」を示す言葉が、状態などによって数十の語彙に分けられている、と読んだことがあります。 物事を細かく考えるためには、前提となる条件がより細かいレベルで分けられている必要があると思うのです。 例えば「嘘をつくことは○か×か」という命題に対し、○とか×を決める前に、「やむを得ずついた嘘」「だますための嘘」「自分もだまされていて結果としてついた嘘」などの分類がなされれば、より細やかな思考ができるでしょう。また、「嘘」という言葉の定義がより明確になされれば、これは嘘をついたことにはならない、といったケースもあるかもしれません。 こういった思考活動を支えるために、言語による条件設定や場合分けが必要であると考えます。それが不十分だと、「大人はみんな嘘つきだ」という中学生みたいな結論しか導けなくなってしまうのだと。 …と、ここまで書いた時点で、重要なことを思いつきました。 「思考」とは何か? 「言語」とは何か? という定義の問題です。 私は、思考とは仮定・条件をもとに論理的に結論を導き出す行為であり、思考における言語とは、語彙による意味定義、文法による論理構成のことだと、暗黙の前提として考えていました。語彙がなければ定義ができない、文法がなければ論理にならない。 思考するのに必要なのは、仮定や条件といった意味定義と、論理的説明であるから、思考に言語は必要である、と。 上記の前提が崩れれば、料理も作曲も思考であるとすれば、言語は不要になりますね。つまり、そういった混乱を防ぐためにも、定義をしっかりさせることは重要であり、それが最も効率よくできるのが言語だと思うのです。 私の中では、なんとなく結論が出ました。 少しでも私の思考が伝われば幸いです。 失礼しました。
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- jayoosan
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最近アジア関係の書籍を読むことが多いのですが、その中で多くの人が歴史や教育に絡み、使用する言語について述べています。 拓殖大学(たしか)の呉善花先生は韓国の済州島出身ですが、1970年代になってから政策で漢字の利用をやめ、表音のハングルだけになって、韓国人の語彙や文献の理解力に大きな変化があったと述べています。 ハングルはかなのようなものなので、同じ発音のものにあたった場合、文から推測する形だそうです。しかし、その語源(もともと漢字で書いていた意味)がわからなくなっており、さらに読むのに時間がかかるとのこと。 年配の日本語教育を受けたかたや、呉善花先生本人でさえ、文献などをよむときは漢字とかなの両方がある日本語のほうが読みやすく理解しやすいとのことでした。 日本にる台湾人作家の黄文雄さんは、中国語は漢字ばかりで、同じ内容でも文字にすると文章量としては日本語の半分くらいにおさまるが、読むのは日本語のほうが圧倒的に早いといっています。 台湾人留学生で日本に住み着いた作家の謝雅梅さんは、台湾で育ったころ、外では国語(中国国民党がもちこんだ北京語)、家では親は日本語もはなせるが家族としては台湾語(地元言葉)ではなしていたとのこと。 しかし台湾語には文字はなかったため、書く必要があるときは中国語や日本語から文字を借りて当てているとのことでした。 現在は英語を日本語のカナのように台湾語にまぜて書く書き方もあるとのこと。 昔沖縄(琉球)では、一般民にはやはり文字がなかったそうです。ただ会話は成立しており、必要な情報は縄に結び目をつくったりして、他人と情報を共有していた地域があります。 いろいろ読んでみると、文字や文法としての言語が必要かはわかりませんが、地域でコミュニケーションのため言語があったことは間違いないですし、原始時代ならともかく、ある程度生活を計画的におこなうには言葉は必要であったと考えられます。 参考まで。
お礼
そうですね!私もいろいろな地域に注目してみたいと思います。 大変難しい分野ですがご回答のおかげで興味が広がりました。 どうもありがとうございました。
カナダで育児しています。子供達を、バイリンガルを育てるというよりも、 日本語を維持向上させるために、日夜がんばっております。同じ環境で 育児する母親達の間でいつも話題になるのは、『基本となる言語をいかに 確立させるか』です。どちらの言語発達も不十分だと、考える力が育たない というのは、私達の間で最も恐れる事だからです。 ご質問の、『思考する上で言語は不可欠な要素か』という点について、 子供の言語発達や、バイリンガル育児の観点で探すと、その子供の成長の 姿から、良いデーターが見つかるのではないかと思いますよ。 まわりで、日本語と英語の両親を持つ子供たちの成長を見て来ましたが、 バイリンガルな環境で、一つの言語が年齢よりも遅れて発達してくる ような子供の場合は、その行動面においても、なかなか年齢とに伴った 成長発達も平均より遅れるというケースがほとんどです。 これは私の経験上の実例で、そういう子供達もちょっと遅ればせながらも 確実に発達を認めますから、ある特定の期間に限っての事という事で、 実際にその時期をピンポイントで研究結果報告しているような研究者は いないかもしれませんが。 また興味深い研究結果では、他言語を操れる人は、様々な問題を多角的に 考える事が出来るという結果があるそうです。日本語で考えても答えが 出ないけど、英語で考えると答えが出たとか、そう言うような感じ でしょうか??? 同じ物を見ているのに、その捉え方が全然違うという事ってありますよね。 言葉だけではない物が関わっているとも思いますが、言葉というのも かなりな部分で影響しているという事の様ですね。 そうそう、一つの有名な例では、オオカミに育てられた少女達や、 ヘレンケラーなんかもそうかもしれませんね。 動物や赤ちゃんの思考に着いて触れられている回答ありますが、私が 言いたいのは、基本的な(というよりは、ちょっと原始的なかな?)思考 というよりも、もっと深い思考、人として社会生活を営むための色々な 思考という意味で書いてみました。 なんかご質問からずれているでしょうか??? 参考になれば幸いです。
お礼
なるほど、バイリンガル育児といった観点からも見ることができるんですね。 大変貴重なお話ありがとうございます。 私は回りにそのような状況にいる知り合いがいないので 考えたこともありませんでしたが、T6H2W8さんのお話を聞いて納得しました。 ご回答どうもありがとうございました。
思考というのは理論的な考えのことを言うのでしょうか。 脳には右脳、左脳とあることは知られていますね。 右脳はイメージの脳、左脳はいわるゆ理屈を考える脳です。 わかりやすい例を出します。 アナウンサーが生放送でしゃべる時、アナログの時計を見ながら時間を調整するそうです。 つまり、あと30秒しかないという場合、秒針が作る面積がどんどん狭くなっていくのを見ながら、「だいたいこれくらいしゃべれる」という判断をしていくのです。 これがデジタル時計が「30、31、32、33・・」と秒が進んでいくのを見ながらだと、さっぱりイメージがわかず、混乱してしまうそうです。 イメージによって判断する、ということも「思考」とするのか否かで、このテーマの答えは違ってくるのではないでしょうか。 思考する上で言語が必要不可欠であることを立証するなら、まず「言語なしで思考はできるのか」ということを考えてみてください。 動物が思考しているかどうかは動物学の分野も入ってくるので難しくなります。 人間の場合、言語を覚える前の赤ちゃんは思考をするか?と考えてみてください。 これは統計的に見ても「思考していた記憶」のある人は、かなりの数になります。 ただそれが本当に正しい記憶なのか、思い違いなのかを立証するのは、簡単ではないでしょう。 ちなみに私自身、1歳の頃の思考していた記憶はあります。 オムツが取れるのが早かったのですが、兄がトイレにまたがる姿を見ていて、自分もそうしたいと、トイレを指差して母親に訴えました。 母親は私を、便器の上に、大人が座るように座らせましたが、その瞬間に私は「違う!そっち向いて座ったら便器の中に落っこちる!」と考え、自分で逆方向に向きなおし、兄がしていたように前を向いてまたがったのでした。 言葉はまだ覚えていなかったので言語で思考していたとは 思えないのですが、トイレの座り方を「絵的に」思考していたのだと思います。 単なる経験談ですが、参考になさってください。
お礼
eppさんご自身の経験談、とても興味深く拝見いたしました。言語なしで思考はできるのかという観点から見ると確かに色々と浮かび上がってきますね。私はイメージも思考の一部であると考えます。eppさんのご意見も是非参考にさせて下さい。本当にありがとうございました。
- apple-man
- ベストアンサー率31% (923/2913)
ここしばらく、動物の感情と意思伝達の方法について悩んでいて、いろいろ本を読みました。ソシュールもご本人の一般言語学講義はまだ読んでいませんが、その入門書くらいは読んだところです。 言語は広い意味の記号であって、意思伝達の手段とみなした場合、思考するだけなら言語はいらないと思います。 牧場に行って、大きな森を見つめる馬や羊をジーと観察してみたりしたんですが、彼らにも明らかに感情があり、何かを見たとき考えていると思います。 ★人間にもありますよね。言葉にできない感動みたいのが。すごいとか、すばらしいとか、言葉なしに 何か考えている状態。 人間はなぜ鳴き声だけでなく、複雑な音を出して 喋れるのかという事に関する答えは、複雑な思考を 伝達するために母音を子音と、それらをつなぎあわせる 能力、つまり音の組み合わせの拡張という手段で 言語表現を広げる必要があったためという説明がよくされています。 言語とは何かという定義付けをはっきりすれば あなた自身の答えがはっきり出てくると思いますが どうでしょうか。
お礼
なるほど、確かにそうですね。 言葉に表せないような感情を抱くことあります。 必ずしも言語が必要ではないのですね。 色々な意見が聞けて本当に光栄です。 参考にさせて下さい。ありがとうございました。
- hamakkotarou
- ベストアンサー率24% (222/908)
下記の本をお読みになってはいかがでしょうか? 『思考と行動における言語 』 S.I.ハヤカワ (著), 大久保 忠利 (訳)
お礼
とても勉強になりそうです。 是非呼んでみたいと思います。 ご紹介ありがとうございます。
- phj
- ベストアンサー率52% (2344/4489)
思考する。という概念を先に考えたほうがいいと思います。 思考する=考えることですが、 考えるためには、なにが必要だと思いますか。 テーマですね。 ではテーマを認識する、またはテーマを分析する場合に言葉なしでその内容を把握し、思考することが果たして可能でしょうか。 またテーマを認識するという場合、内容を限定的にします。(たとえばこの質問の内容は「思考」と「言語」ですね) これを行うのに、言語的な規定、制限をせずに思考することが出来るのかを考えていていただければいいと思います。 言語は認識と深くかかわりのあることを、意識されるといいのではないでしょうか。 (多分この次は、別の言語による同一意味の定義 「言語」と 「language」の違いなどに、いくような気がします)
お礼
納得しながら読ませていただきました。 phjさんのおっしゃるように論理的に考えていくと 言語と思考との関わりが見えてきますね。 参考になりました。 本当にありがとうございます。
- maa45ki5g
- ベストアンサー率31% (49/158)
うちの猫は、ときどきちょこんと座って、 明らかに何かを考え込んでいるようすで 小首を傾げて真剣に何かを見つめていることがあります。 思考しているようにしか見えません。 たとえそれが、人間からしたらしょうもない、 「あっちの部屋に行こうか、やめとこうか」 「このまま座っているか、飼い主の膝に乗りにいくか」 「この小さい虫はなんだろう。もてあそぼうか、観察していようか、食べてみようか」 を迷っているだけなのであっても、いちおう思考ではありますね。 そしてその場には、いわゆる人間がいうところの 文法を持つ「言語」は介在していないのでは。 人間だって、寒いから布団をかぶりなおすときやふとふりむくときに、いちいち 「気温が低いようだ」「なにかの気配がしたような」とか 言語化して考えていないような気がします。なんとなく。 うまくいえませんし、直感で思っただけですから根拠はありませんが、 思考そのものに言語が必要というよりもむしろ (「寒い」「あれ?」とかの単純なことならともかく) たとえば時刻のことを考えるのであれば数字が必要だし、 手紙の文を考えるのだったら日本語の表現方法をあれこれ思い出さないといけない、といった 目的しだいで言語が必要になってきてるだけなのじゃないのか、と。 何がいいたいのか自分でもよく分からなくてすいませんが 思考と言語とは完全にどちらが先でどちらが後、と きっぱり分けて考えれるようなものでもないのかもしれないけど あえて言うなら言語はおまけなのではないかと。 無責任な私見です!
お礼
丁寧なご回答どうもありがとうございました。 maa45ki5gさんのご意見参考になりました。 確かに目的次第で言語が必要になってくるのかもしれませんね。 反射的な行動には言語を要してない気もします。 難しいところですね。 せっかく回答して下さったのにうまく私の意見が伝えられなくて 申し訳ないですけど、とても参考になりました。 本当にありがとうございました。
- yuukinosuzu
- ベストアンサー率28% (17/60)
ご質問とは若干、趣旨が異なりますが、 藤原正彦さんのおっしゃっていることが少しは役にたつかもしれませんね。
お礼
早速の回答どうもありがとうございます。 是非参考にさせて下さい。
お礼
詳しいご説明どうもありがとうございました。 やはり深く考えれば考えるほど難しい問題ですが 私の中でも結論が見え始め皆さんのおかげでいい論文が書けそうです。 baka_inuさんのご意見しっかりと伝わりました。 本当にどうもありがとうございます。