>物体を片目で見た場合、XY平面でのみとなり、形と色で識別できる。
物体を両目で見ると、XYZ空間となり、形で識別できる。
では、物体と背景が、セパレイトしているといかに認識するのですか?
そのものが個別の物であると言う認識は何処から来るのか?リンゴと机が、引っ付いていないと言う確証がなければ、「リンゴ」「机」と出来ません。「それ」の指すものが、リンゴと机を合わした形でないのは何故か?それは、すでにあなたがそのように見ていることが前提で、色や形を言っているからです。王冠と、ビール瓶が一体の物体があったらどうしますか?開けようとするでしょう。でもあきません。その王冠はふたではなく瓶の一部だからです。トリックアートのレヴェルです。
>色や形は、光線の屈折によるものだから、識別作業は、脳内において、屈折角の比較および対照により、物体を識別できると思います。
上記の事から、その言う識別は、後天的知識による思い込みであると言う事です。
それでは、王冠と瓶はもとより、瓶と机、机と床、床とあなた、あなたと背景が別物であると言う認識はえられない。
>・・・掘り下げた先がわかりません。
掘り下げた所から上は見れるんじゃない?
何か一点に向かうのではなく、以下に思考の守備範囲が広いかって事です。守備範囲とは、知識量のことではないですよ。言葉を適切に操れるのかということ。
>何を持って知識とするのでしょうか。
記憶としますか?深層の記憶もふくめ。受けた影響も含め。
そうすると、MBではかれるんではないですか?
ただ、思考しているときには記憶が捏造されたり、変形したり、新しい概念の原料になったりするので、モニターに表示すると、メーターのように数値が色々動いているんだと思います。
私は、ある大学のエースで、金も払わず学校に行っています。でもね、いくら論理、分析ができても、幾らアタマがよくっても、大切な事って言うのは全く関係ないところからやって来るんです。時間のレスで魂について触れられていますが、もっと深い考察が、それを語るには必要です。
>順位付けがなされないと量は量ることができないと思います。
そうかな?リンゴとミカンとにんじんと、全部で幾らですかって時は、別にどれが一番重くたって関係ないのでは?また、MBの量もはかれるが、質も分ければそれなりに分けれると言う点があります。夢、文字、経験。この中で、経験に属さないものが何かありますか?
知識はたくさんの経験、夢や思考は経験の一部。こうします?
>エデンについて
>神は想像、エデンも想像。どこかのホテルの名前。
つまらん。ジョーク?ラブホですか?私と彼はラブホには行きません。
だいたい、想像です。って、だから何?想像だったら何かあるんですか?
ブラックジャックだって想像です。政治演説だって想像ですよ。
ですが、ブラックジャックは現実のわたしに影響を与えます。想像は想像でいいじゃん。映画だって想像ですが、表現されているんです。だから私たちがその想像に触れれるのです。エデンにしても同じ。文字で表現されている。エデンの絵も一杯ある。表現された文字をさらに絵画で表現してるんですよ、その人の想像なりに。
現実、真実、虚実と、色々ありますが、だからなんですか。
私は真実から現実を見たいと思います。
お礼
ランチさん、ありがとうございます。 >では、物体と背景が、セパレイトしているといかに認識するのですか? 視覚で認識できるのは、経験からだと思います。盲目であろうとなかろうと、事物が認識できるのは、事物が自己と違うからだと思います。モノを触れることによって、自分の思い通りにならないことを知る。ストレスこそが自と他の区別ではないでしょうか。 >何か一点に向かうのではなく、以下に思考の守備範囲が広いかって事です。 守備範囲を広げるのは、なんのためですか。 MBとは何ですか。 >リンゴとミカンとにんじんと、全部で幾らですかって~ 値段がついてることは、価値が順位付けされていると思いますが… >>エデンについて 親父ギャグ見事外してしまいました。。。想像なら、想像で止めていただきたいと思います。現実にあるかのように表現するから誤解を生むと思います。