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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:フランク王国と東ローマ帝国(再質問です))

フランク王国と東ローマ帝国の関係

このQ&Aのポイント
  • フランク王国と東ローマ帝国の関係について調査する中で、教皇との関係が主な焦点となります。
  • フランク王国は、ラヴェンナ占領以来、教皇から信頼を得て東ローマの代わりに教皇の保護者となりました。
  • 一方、東ローマはフランクに対して歩み寄りを見せたのはメロヴィング朝の終わりの時期であり、敵対関係にあったと言えるでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

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  • nacam
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回答No.3

1番、2番です。 >レオ3世を継いだ幼い皇帝は、母に実権を握られ これは、おかしいです。 皇帝レオ3世を継いだ、コンスタンティヌス5世は、719年生まれで、皇帝となったのが、741年ですから、21歳~22歳です。 幼い皇帝とは言えません。 多分、レオ4世を継いだコンスタンティヌス6世が、10歳で皇帝となり、母親イレーネが、摂政として統治を行っていますから、その事を勘違いされていると思われます。 この時は、フランク王国は、カロリング朝となっており、ビザンツ帝国は、ブルガリアとイスラムの挟撃に遭い、滅亡の危機に瀕していました。 そのため、偶像崇拝問題で、カトリックと和解し、カール大帝の西ローマ帝国皇帝を認め、支援を求めます。

gatetsu38
質問者

お礼

あ、そうなんですか。 その本が間違えているのかも知れませんね。 カロリング朝になってからでないとビザンツとの関係が 良くなることはないと。 コンスタンティヌス5世の治世では、 ビザンツはフランク王国と睨み合っている状況だったのですね。 とてもよくわかりました。 ありがとうございます。

その他の回答 (2)

  • nacam
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回答No.2

1番です。 >ビザンツとフランクの歩み寄りの部分もギリギリ範囲内ですね。 歩み寄りではなく、ここから対立が始まります。 特に、モラビア宣教、ブルガリア宣教などで、ビザンツ帝国とフランク王国の対立が表面化するようになります。(カロリング朝になって) モラビア、ハンガリーに関しては、フランクの勝利、ブルガリアは、ビザンツの勝利となります。

gatetsu38
質問者

お礼

レオ3世を継いだ幼い皇帝は、母に実権を握られ、 フランクとの関係を改善した、という本があるのですが・・・ (一時期かも知れないですね) 又、ピピン3世が王位につき、カロリング朝に 入ってしまうと範囲外になってしまうので、 出来ればメロヴィング朝存続期の間のことを 教えて頂けないでしょうか? 何度も申し訳ありません。

  • nacam
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回答No.1

gatetsu38さんの、ご質問そのままが回答だと思います。 >フランク王国は、ロンバルト族のラヴェンナ占領以来、教皇から厚い信頼を得て、役に立たなかった東ローマに代わり教皇の保護者になりますよね? これが答えです。 >東ローマがフランクに歩み寄るのはレオ3世の死後で、 ここで言う、「レオ3世」は、教皇レオ3世(795-816)ではなく、ビザンツ帝国の皇帝レオ3世(717-741)で考えてみてください。 (カロリング朝成立751年) ビザンツ皇帝レオ3世と、教皇とは、「偶像崇拝問題」で対立しており、その事が、東西教会分裂の原因となります。 ビザンツ帝国と手を切るためには、教皇には、ビザンツ帝国に代わる保護者が必要でした。 その保護者が、フランク王国です。

gatetsu38
質問者

お礼

>>ここで言う、「レオ3世」は、教皇レオ3世(795-816)ではなく、ビザンツ帝国の皇帝レオ3世(717-741)で考えてみてください。 (カロリング朝成立751年) そうですか、ビザンツ皇帝の「レオ3世」とは違う、ということは知って いましたが、死去したのがいつかは知りませんでした。 そうすると、ビザンツとフランクの歩み寄りの部分もギリギリ範囲内ですね。 どうもありがとうございます、本当に助かります。