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怒るというのは哲学的に言うと何?
自分はよく怒られるのですが「怒る」というのは哲学的に言うと何?
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何かに対して「怒る」つまり、「怒り」を感じるというのは、そのもの(事)が自分の「予測」又は「理想」に反した(結果になった)からだと思います。 ですから全く同じ状況でも怒る人と怒らない人が出てくるわけで、その人の人生観や、人や物事に対する許容量とも関係すると思います。 許容量の少ない人は、ちょっとでも他人が「こうあるべき」という理想からずれただけで怒りを感じることがあります。 一方、寛大な人は少々のことでは怒らず、相手の状況と感情を理解しようとし、相手の力量(レベル)に合わせてものごとを考えようとします。 幼児に限らず、大人でさえ被害者になっている昨今流行りの虐待も、許容量の極端に狭い人が引き起こしている可能性が高いです。 彼らは皆口をそろえたように「しつけのためだった」と言います。 勿論、躾のために怒って見せることはあると思いますが、そこに自分の思い通りにならないために引き起こされたストレスを発散するための動機が入り込むと、途端に虐待の危険性が増すので要注意だと思います。 怒る方は常に自己の感情をコントロールして感情が暴走しないように気をつけなければならないと思います。 又、怒られる方は、一方的なストレスのはけ口にされない様に自分を守らなくてはならず、さらに怒られる原因をよく見極めて、相手のストレス発散のための不当なこじ付け的な理由をすべて自分のせいと思い込まされないように、客観的に状況判断できなければ、損をすると思います。 しかし、怒られる側が自分が悪いにも関わらず全て他人のせいにする場合もあります。 ですから真実(これも不確定なもの)を見極めるのは大変むづかしいですね。 各々自分に出来る限りの努力をするしかないのでしょうね。 怒る側は常に相手を理解しようと努め、自分の考えを強制しないよう気をつけること。・・・ 怒られる側は、常に相手の立場を理解するよう努力し反省しつつ、自分の人としての価値を大切にする。・・・ ということでしょうか。 又、人によっては、同じことをしていても、何時も他者よりも沢山怒られる場合があります。 こういう場合は、自分に自信を無くしてしまっている人が多いように見かけます。 その自信の無さから来る、一見優柔不断そうに見えてしまう動作と行為が、怒る側のイライラとストレスを誘うことがあると思います。 これを防ぐ為にはイメージコントロールでもすることがすすめられます。 仏教でもヨガでも瞑想、観想、呼吸法によって自己のイメージを新しく作り上げていき、自分自身に定着させる方法が色々あるので試してみることが有効だと思います。 自分に自信を持つことが、自分のみならず、他者にも良い影響を与え、トラブルを減らすことにつながると思います。 参考になれば幸いです。
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- chindon
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怒るということは感性の働きの一つ。人間の認識の仕組みは感性、悟性(分析的悟性ともいいます)と理性(総合力)で出来ています。哲学敵知識があろうとなかろうと同じだと思います。三者はその人において常に統一されています。それが人格として他者に見えるのでしょう。感性は常に他の2者に規定されます。従って、同じ人でも時間の経過とともに対象に対する認識が変われば、怒りの感情も変わります。誤解だったということになれば怒りも消失することになります。 怒るということも含めて感性が乏しい人は悟性と理性に片寄りがちです。左脳人間です。右脳も鍛えていないと将来のぼけ老人の可能性が大きいといわれています。私もそうだと思っています。問題提起されていることの入り口あたりでごめんなさい。
- koun888
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◆ 結論から言うと怒るというのは、自分の意見に従わせようとする行為のことで、知性派に多く見られます。 しかし「哲学的に言うと」という但し書きがあるので、まず「哲学」というものについての定義、即ち共通の認識が必要です。 ◆ 哲学というのは草食獣の心の規範とでも言いますか。或いは草食獣としての心構えの事とでも言いますか。(これについてはもう少し考察が必要です) 具体的に言いますと人間は神(草食獣の心)と悪魔(肉食獣の心)の共存する動物です。そのどちらが強いかで善人にもなるし悪人にもなる。従って草食獣の心、哲学を学ぶには草食獣の心構えが必要です。 人間社会は自由にさせておくと、肉食獣気質の強い人が必ず勝ちします。でも草食獣の心を持つ人はきれいに見えます。動物には「自分の子孫繁栄に役立つものは全て美しく見える」という本能があるからです。 ならば全員を美しく見えるようにすれば楽しいではないか。として神を造り宗教を造って天国を考え出しました。キリスト教の聖書にもある「ライオンと羊が一緒に草を食べる所が天国」なのだと。これが知性の産物です。従う心が弱い理性派には地獄を創って脅しました。 ◆ 哲学の使命はこの世にも天国を作る事です。元々が知性という草食獣の真似ですから、難しいことは何もない。草食獣の生き様を真似るだけで良いのです。 宗教と哲学が極めて近いのは、共に草食獣の姿を理想とするからです。 ソクラテスが「それでも男なの?」と、その生活力の無さを妻から非難され続けたのは、生活力は肉食獣のものだから。あなたも哲学の道を極めて完全に草食獣に徹したら、仙人になるほか無いでしょう。 釈迦もキリストも哲学者なので草食獣の姿を理想にしたはずです。しかしそれを周囲に伝導するには、肉食獣を認めることも必要です。 キリスト教の場合は周囲に肉食獣の心を持った人(肉食の民)が多かったので、こうした矛盾を沢山抱えることになりました。懺悔すれば許されるとか、罪はすべてキリストが背負ってくれるとかです。 佛教の場合は周囲に草食獣の心を理解する人(農民)が多かったので、大きな矛盾を内包せずに済みました。それでも肉食獣気分を含んだ大乗仏教が生まれ、諦めの宗教と言われながらも、現世利益を求める心は今も肥大を続けています。 ◆ 理性は自分のためを思う肉食獣の心で、知性は群のためを思う草食獣の心です。哲学者に理性はいらないし、ビジネスに知性は必ずしもいらない。悪徳商人とは知性の無い人のことなのです。 ◆ 怒る、と言う行為は命令形です。黙って従いなさいと。これは明らかに草食獣の姿です。草食獣社会は前者に従うだけの縦の社会。親と共存しその姿を真似続けることで、理性不要の縦社会が維持されます。 理性があると盲従できない。自由も権利も平等も群からはみ出る。こんな危険な遺伝子はとっくに草食獣から消えました。 逆に群のためを思う知性は強化されます。肉食獣からその日の人身御供に指名されたら、喜んで群のために喰われて見せる。この心が知性です。 肉食獣は決して縄張り牧場の羊は食い尽くさない。必ず群を護り維持してくれると信じて死んでいく。喰われても決して声を立てず喜んで死ぬ。これが草食獣の知性です。 ◆ 武士道は桜の花に美善義を見つけましたが、戦前の軍も知性を全面に押し立てました。兵の命は葉書一枚ほどの価値なのだと。国のために死ぬ知性を持ちなさいと。日本人がはかない桜の花を愛し続けるのは、知性の優れた民である証です。 しかしそれを良いことに、国民を勝ち組負け組に分けて少子化を奨励し続ける。今の政治は何を目指しているのでしょう。 ◎ もし大金持ちの哲学者が居たらそれは偽物です。ラクダと針の穴の話の関係です。 あなたがもし怒られたくなかったら、知性を目指す哲学者の道ではなくて、理性を目指すビジネスの道を選んでください。理性で生きた逮捕前の堀えもんを怒った人は少ないはずです。
お礼
考えてみたいと思います。ありがとうございます。
- chironero
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感情の抑止能力を超える事で、あらゆる状況下を選びません。
- torauma
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とまれ 停止せよ 止めなさい 黙れ 等の事を強制する意味ですよね。 犬では「怒る」のはリーダ犬の役割で、群れの進行方向(行く末)を決めるリーダ権侵害だぞ! まあ、後から付いてゆけば良い。 よそ見、わき見して、遊びすぎ良し。 あまり遅れたりしない程度に追えば「命が保ち易い」。 イスラエルのみならず、西欧人は、モーゼに率いられる民となります。 つまり独裁者の決定に従う、命運をこれに託す人々となります。 この辺は日本人の伝統習慣と違う様ですね。 大統領権限の様な権力の集中を嫌いますから。 哲学的にはこの辺が入り口になるかな?
お礼
何かに対して「怒る」つまり、「怒り」を感じるというのは、そのもの(事)が自分の「予測」又は「理想」に反した(結果になった)からだと思いま・・・なるほど^^ありがとうございます。