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どんなに正しそうな意見にも反論することはできますか?
哲学カテに初投稿です。よろしくお願いします。 デカルトはどこまでも疑って、ついに疑いえない真実 「我思う、ゆえに我あり」 を見出したそうです。 世の中の政治問題、または人間同士のトラブルや意見の相違などを聞いて、双方の意見を聞いていると、まっこうから対立する場合が多く、絶対に正しい意見、誰もが絶対に反論できない意見はなさそうに思います。 そこで、絶対に正しいと思われそうな意見にも、反論できることは可能ですか? たとえば、「人を殺してはいけない」は、絶対に正しいと思われそうな意見ですが、死刑制度では、「人によっては殺してもいい」と言っていることだと思います。 たとえ、「罪の無い人を殺してはいけない」だったとしても、「現代人のために地球環境悪化してしまったから、人口削減のために罪の無い人を殺すこと」、は100年後の人間にとってはいいことかもしれません。
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■私は「正論への反発」をテーマに、教えてgooで回答したいと思っています。 多数の人が口をそろえていう正論はどこか胡散臭さを感じて 必ず、ちがうだろうよと反論したくなるのです。 なぜそうするかというと、 (1)常識と違う見方のほうが面白い (2)そのほうが自分の理解が深まって勉強になる 例外は必ずあるはずです。 法律だって抜け落ちた部分はあるし、常識にはウソも罠もある。 5つも6つもレスがついた質問が同じ主旨の回答では、 とても多面的な観点の検証とはいいがたいです。 そこで、わざと裏側から意見をいうと、常識を心の支えに生きている人間 から思わぬ反撃を浴びることがあります。 ■反論と批判は別物です 馬鹿にされるようでは、まだ掘り下げや説得力が甘いのですね。 わざと裏口にまわって扉をみつけても開けてみせないといけない。 開けてみせないと、そんなの扉じゃない。といわれてしまう。 人は、自分が理解できないことは軽蔑して安心するものです。 ■またそういう裏口に仕掛けられた罠をちゃんと見破ってからでないと 浅知恵、猿知恵と罵られる可能性があります。 「セオリーの枠に縛られた」思考しかできない人は人生がつまらない だろうと思います。こうしかならない。こうに決まってる。 そうやって思考を抑圧すると自己の開放を求めてプライベートで 変態的な性癖に走らないとも限りません。 ■正論をむやみに否定してもはじまらないわけで、正論が発生した 時点と現時点との状況の変化とか、立場の違いというのがないか どうかチェックしてみます。 万物流転。諸行無常の世の中で、変わらぬことなど何一つない。 ■ブレーンストーミングは、異論・奇論を厭わずに、発想の幅をひろげるから 価値があります。この教えてgoo、OKwaveも、「他の回答を批判しない という」ルールが貴重です。 すべては仮説だと考えたほうがいいです。 いろんな仮説を提起できたほうが、物事の理解は深まるのだと思います。 ■すべての論理にはアプリオリな命題があってそれ自体は 正しいとしないと始まらない。そういう意味ですべては「仮説」 なのです。論理形態事態も、帰納的論理には例外を示すことで 反論できるし、演繹的論理には第一命題に疑義を唱えれば そこから反論を構築できます。 不完全なMECEを攻めたり、あら捜しをするのでなく、それ自体 が論理展開に無謬性をもたないと「反論」でなく「批判」です。 >たとえば、「人を殺してはいけない」は、絶対に正しいと思われそうな意見ですが、 万人共通のセオリーなど意味がないです。万人の人生をコントロールできない 以上そういえます。むしろ私にとっては正しいセオリーであっても カニバリズムが正論であった時代や正当防衛のシチュエーションでは正しくない。 「罪の無い人を殺してはいけない」というテーゼは誰が何を持って罪がないとするか という点で説明が曖昧です。 「無罪判決を受けた人を殺してはいけない」というのは否定できないですが、 「無罪判決を受けた人が本当に罪を犯していないか」 は私にはわからないです。ましてや被疑者になっていない人が罪のない人か どうかは、ケースバイケース。 「罪のないと思われるだろう人を無目的に殺してはいけないけど、 状況次第ではやむをえないケースもある。」 全員が助からない災害。など、罪のないひとりを助けたら全員が死ぬ可能性が 高いケース 経済的理由からの堕胎。母体をまもるための人口流産など。最も穢れのない赤ん坊を殺していますよね。 すべての正論には例外があります。
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- daremomina
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手段としての良し悪しと、目的としての善悪を考えるのはどうだろう。 殺人は善くないというのは、目的としての善悪に照らしあわされた倫理であり、殺人を法的に行使することができると言うのは、社会秩序を守るための手段として、採用されていることである。と見るのはどうでしょうか。 善のために悪をなすことや、善は手段を必要とするか、ということを考えたらいいと思います。 そして、 地球環境が良かろうが悪かろうが、善は普遍的だと思われること。 時代が変わっても、善は変わらないだろうと思われること。 を挙げておきます。 善の性質がどのようなものか、考える契機になればいいと思います。
- chirashizushi
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はい、できます。 林檎が木から落ちるのも見方を変えれば林檎に地球が(林檎以外が)吸い寄せられているのだと反論します(^_^)v
お礼
ありがとうございます、でも「リンゴと地球の距離が小さくなった」という表現なら、反論は出来ないと思います。 意見であったり、物理的現象であったり、数学的な命題であったり、教訓であったり、「論」には種類があるかもしれないですね。 特に健康に関する「論」は、コロコロ変わると思います。 「太陽を浴びるのは健康だ」→「皮膚がんになるのでやめたほうがいい」 「うさぎとびで体を鍛えろ」→「体を痛めてしまう」 「うがいしなさい」→「多少は不潔にして、免疫をつけたほうがいい場合もある」
- mogurayama
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こんばんは♪ ちょっと質問が難しいです。 デカルトの「コギト・・・」を 例に出された部分とこの質問がどのように つながるのちとわかりません。(T∇T) ウウウ <どんなに正しそうな意見にも反論することはできますか? No1さんの回答同様に、 反論(反対の事を論じる)することはできるでしょう。 A 人を殺してははいけない。 B 俺の神が殺してよいと言っているから良い。 C 俺は殺されるのはいやだが、他人が殺されるのは良い 自分の神や自己中心的な意識を持った反論なら なんでも反論できますね。
お礼
ありがとうございます。 僕は議論といったものが好きで、テレビの討論番組などをよく見ます。 たとえば自分ひとりだけの意見が多数意見の人を論破とか説得できるとおもしろいです。 たんなる言葉遊びの次元かも知れませんが、世の中に疑う余地の無い事実は、「我思う・・」だけのようなので、人がもっともらしく言う意見になんでも反論してみたいと思ったのです。 もし、どんな意見に反論することも可能だとしたら、「どんな意見に反論できる」という意見にも反論できるので、矛盾してしまう。 そこらへんどう考えたらいいのやら。。。 僕は、議論というものは、勝ち負けが無いのでむなしいものと思っています。 それよりも、たんなる、意見いいあいゲームみたいに思っています。 なので僕は、あえて反論をいう場合があります。 たとえば、この「回答」でお返事いただいたすべての人に対しても、反論できる、かもしれません。 「反論できる」といっていただいた貴殿に、「では、貴殿の意見に反論してみましょう」ともいえます。 ああ、わからなくなってきました。
- jun95
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たとえば、「人を殺してはいけない」は、反論できません。なぜなら、自分は殺されてもかまわないのなら、「殺人もよい」というような反論はできますが、そのように反論したとたん、私が、隠し持っていたピストルをぶち込むので、あなたは死んでしまいます。本人が死んでしまうと、殺されてみて、どう思うかについて語れないので、一種のパラドクスになるのです。 パラドクスについては、反論することが自己矛盾になります。
お礼
ありがとうございます。 僕は議論といったものが好きで、テレビの討論番組などをよく見ます。 たとえば自分ひとりだけの意見が多数意見の人を論破とか説得できるとおもしろいです。 たんなる言葉遊びの次元かも知れませんが、世の中に疑う余地の無い事実は、「我思う・・」だけのようなので、人がもっともらしく言う意見になんでも反論してみたいと思ったのです。 ただおっしゃいますように、自己矛盾があるかもしれないですね。 もし、どんな意見に反論することも可能だとしたら、「どんな意見に反論できる」という意見にも反論できるので、矛盾してしまう。 そこらへんどう考えたらいいのやら。。。
- mayu20
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できるのではないでしょうか? この世に絶対というものはないでしょうから、どんなに正しそうでもそれは人間が勝手に作り出した真理に過ぎないと思います。 時代が変われば、人間の考え方も変わる。 今正しいと思われていることは数年後には間違っているのかもしれない。 所詮は世の中全体の多数決に過ぎないのでは? 例えば「戦争万歳!」と誰もが言っていた時代は戦争は正しいことだったし、「戦争反対!」といい始めた現代では戦争は間違っている。 今、戦争賛成なんて日本人がいったらかなりのバッシングを受けますよね。 しかし、戦争によって潤う市場があるのはひとつの真実で、「道徳的」に間違っているけれど「ある国の経済」にとっては有益になりえるのかもしれない。 見方によって善悪は簡単に逆転するのではないでしょうか。 まあ、この「絶対はない」という意見にすら、反論の余地があるのかもしれないですが。(笑) あ、ちなみに私は戦争反対派ですので…。
お礼
ありがとうございます。 僕は議論といったものが好きで、テレビの討論番組などをよく見ます。 たとえば自分ひとりだけの意見が多数意見の人を論破とか説得できるとおもしろいです。 たんなる言葉遊びの次元かも知れませんが、世の中に疑う余地の無い事実は、「我思う・・」だけのようなので、人がもっともらしく言う意見になんでも反論してみたいと思ったのです。 ただおっしゃいますように、どんな意見に反論することも可能だとしたら、「どんな意見に反論できる」という意見にも反論できるので、矛盾してしまう。 そこらへんどう考えたらいいのやら。。。 ちなみに、僕は大学では数学を専攻していまして、数学の理論は誰もが異論を唱えられないように作られていそうですが、それはある仮定(公理)の上に組み立てられているだけですが、それでも「選択公理」というのを認めるか認めないかで、数学者の中でも意見が分かれるようです。
- les-min
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こんばんは。。 「意見」である限り、それは人の頭で考えたことですから、反論することは可能だと思います。ただ、反論できたとして、その反論が万人から支持されるかどうかは別問題だとも思いますが・・・ 議論の方法のある種の「禁じ手」として、自らは一切の主義主張を表明せず、ただひたすら相手の主張の矛盾を突いていき論破するという「帰謬論法」という方法があります。 自分にはとても、そこまでするエネルギーはありませんが、頭の回転の速い聡明で弁舌に長けた人物が帰謬論法を使うと、おそらく無敵でしょう。 個人的な心証で、自信ないですが。では。
お礼
ありがとうございます。 僕は議論といったものが好きで、テレビの討論番組などをよく見ます。 たとえば自分ひとりだけの意見が多数意見の人を論破とか説得できるとおもしろいです。 たんなる言葉遊びの次元かも知れませんが、世の中に疑う余地の無い事実は、「我思う・・」だけのようなので、人がもっともらしく言う意見になんでも反論してみたいと思ったのです。 ただ、どんな意見に反論することも可能だとしたら、「どんな意見に反論できる」という意見にも反論できるので、矛盾してしまう。 そこらへんどう考えたらいいのやら。。。
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お礼
ありがとうございます。 yamadanaokakashiさんの回答は、まさに共感を覚えます。 すべての文章に同意します。 僕も同じような性格です。 僕は、「研究とか創造」に憧れがあって、その手段として、わざと逆をすることがあります。 正論への反発もその一環です。 yamadanaokakashiさんの過去の投稿に、あえて反発してみたいと思いましたが、いま、適する投稿はなさそうでしたので、またあう日まで。