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豊臣秀吉の出自について
NHK放送の「その時歴史が動いた」で、美濃攻略における秀吉の墨俣築城での活躍を取り上げた中で、秀吉の出生に日吉大社が関係しておりその為に幼名を日吉丸といった、との言及がありましたが、これが事実、というか定説なのでしょうか?(母が山中で生活するワタリの血を引く者で、その為に秀吉が土木技術に詳しかった、とも言っていた) 過去に呼んだ歴史小説では、尾張中村の水呑百姓の倅だと書いてあったと記憶しています。 どちらが有力なのでしょうか?(NHKの放送では、日吉大社説を断定しているような口ぶりでしたが)
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noname#2787
回答No.1
多くは尾張中村の出自説だと思います。名古屋市中村区に清正記念館というところがあり、そこの展示もそうでしたし…ただその根拠は「木下」姓の所以によっていて(参考URLがいわゆる一般論だと思います)秀吉の父親の出自が明らかになっていないため、秀吉の出自(多くの歴史上の人物は一代前の出自が明らかでないと途中での創作などの可能性が否定し切れないところがあります)が確定されていないのだと思います。また蜂須賀一党との関係が『遠縁に当たる』という説が強くあって(参考URLには書かれていません)そのあたりに、秀吉の母方の血筋の話が出てくる余地があるのかもしれません。
お礼
解答ありがとうございます。考えたらTV放送は日本テレビの「知ってるつもり」でした。(NHKさん、スイマセン) もし百姓出身説だとして、後の秀吉の政策、刀狩や検地を考えれば (秀吉は農民に対して、朝鮮征伐等の戦費を補うために重税を課していたらしい)、自分の元の仲間に対して大変厳しかった、と言えそうですね。天下を治めていくために仕方なかったのかもしれませんが。