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両替商について

江戸時代の両替商の仕入先は銀座、銭座ですか?で両替料いくらか払って仕入れですか?

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回答No.1

「両替商」のは「本両替」と「銭両替」とがありました。 本両替は金貨・銀貨の交換を行う両替商で、幕府の公金も扱い、現在の銀行のように預金や為替の業務も行っていました。江戸の中心に、3~40軒ほどあったようです。 これに対し、銭両替は庶民相手に小額の貨幣の交換を行っており、「銭屋」とも呼ばれました。銭屋は江戸に600軒近くありました。このような銭屋は、他の商売との兼業でやっていることが多かったようです。 では、両替商がどのように資金を調達したかということですが、 (1)江戸時代初期に開店した鴻池両替店は、酒造・海運業で資本を蓄積すると同時に、それに伴って得た信用力を基盤に両替商へと参入した。江戸時代においては、銀100貫目の財産を有する者ですら富裕層とされていたが、鴻池両替店の創業初期の自己資本額は、銀20万貫以上にも及んでいたといいます。 (2)泉屋は、銅精錬・交易業を営んでいたが、両替商参入後は、足尾銅山の輸出代金の公金為替や銅交易業者の決済資金の為替送金など、泉屋の言わば付随業務として両替商業務を発展させたのです。 夫々が自らが稼ぎだした資金を目一杯活用しての商売だったということです。 両替には両替商用の「天秤(はかり)が使われました。 江戸時代の貨幣は幕府が鋳造権を持ち、小判(一両)に代表される金貨、「寛永通宝」(一文、四文)などの銅貨は一枚ごとの額面が定められていました。しかし、ナマコ型の丁銀や小粒の豆板銀という銀貨には額面がなく、重さもまちまちで、両者を組み合わせて何匁何分という単位で使用したのです。その重量を計測したのが天秤(てんびん)だったのです。 計量の基準となる分銅は五百目(187.5グラム)から一分(0.375グラム)まで19種類あり、製造は金座を預かる後藤家の専業とされていました。天秤につるされた片方の皿に分銅をのせ、他方の皿に銀貨(丁銀、豆板銀)を乗せて重量を量り、金額を確定するのです。 一般の棹秤(さおばかり)は幕府指定の「秤座」(江戸の守随家と京都の神家)が製作し時々、検査を受けねばならなかったが、両替用の天秤本体は特に規制がなかったようで、どのように重さを設定したのかは定かではありませんが、オモリの設定如何で差益を稼ぎ出すことは簡単だったと思われます。

mersess
質問者

お礼

どうも各両替商の解説などありがとうございます、参考にします。

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