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認識の可能性について教えてください。

私の内的な経験や考えと比べれば、それ以外のものはすべて私から遠く離れています。それらは、内的な経験や考えを通さなければ私のところへはやってきません。(内的な経験や考えって、なんですか) 例えば、「問い」心の内部は確実⇔心の外部(人はどうやって「知る」のか)は確実ではない。  「回答」野球で、ボールを打った時、「かなりいいあたりだ」という感触・感覚は確かだが、そのボールが、スタンドに入ったのを見たと言う視覚を確かめるのは難しい。  正しいと言うのは、一旦自分の中に取り入れないと確証できない。 確実なこと・・・~にみえる・~に思える・太陽が見える   確実じゃないこと・・・~であるなのか?・ほんとうにたいようはあるのか? 独我論・懐疑論・検証主義に当てはめて考えるといいのか?

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  • odd-art
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回答No.3

>幽霊が見えるので  ということなので、  むろん、世の中には、いわゆる霊的現象といわれるような不可思議なことが起きる場合もあります。  しかし、それは、実際に幽霊や霊魂が引き起こした現象などではなく、感応の作用によるものです。  感応について、わかりやすくお話すると、たとえば、私達が生活している空間には無数の電波が流れていますが、普段は、それらを私達の目や耳で認識することはありません。しかし、テレビやラジオ・無線機などを置いて、その電波に波長を合わせれば、そこから画像や音声が出てきます。  これと同じように、死後の生命は、自らが作った過去世の業因によって苦楽を感じつつ、この宇宙の中に渾然一体となって溶け込んでいます。が、ときとして、生きている人間の生命力が落ちて、死後の生命が感じている苦しみなどと波長が合ってしまった(感応した)場合に、人によっては、死者の言葉が聞こえたり姿が見えたりすることがあるのです。生命力が落ちたり、宿業が地獄の境涯になったりすると、感応されやすくなり、幽霊とかを見るようになります。(これを、心身に内在するものの影響と前回、記述させて戴きました。)  昔から、同じ場所にいながら、ある人には幽霊が見え、別の人には見えない、という違いが起きてくるのも、また、いわゆる心霊写真において、同じ所で複数の人がカメラのシャッターを切っていながら、ある人の写真にしか幽霊が映らないというのも、それは、そこに、幽霊や霊魂などという実体が存在していないからです(心霊写真の場合も、シャッターを切った人がたまたま死後の生命と感応し、それを自らの念の作用によってフィルムに映し出したものと考えられます)。

hamachihamaguri
質問者

お礼

幽霊が見えてよかったです。今まで、すごく見えることがネックになっていたんだけど、認識の可能性が、少し突っ込んで分かれるようになっただけでなく、私の気持ちも、楽になりました。私は、事故で、三途の川に行ったけど、帰ってきた後から、幽霊が見えるようになったのですが、人生の途中からで、すごくとまどっていました。ありがとうございました(^-^)

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  • chihoko
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回答No.5

●霊のはなしが出ましたので 霊についてすこし・・・。  眠っている時 夢をみますよね。この夢は脳のなかで映像や音や触覚などの  感覚情報を合成したり編集したりしている事だと考えられます。  この感覚情報の合成編集が顕在意識に現れることを幻覚といいます。  (ドラッグはこの幻覚を発生させます。)  おおくの心霊体験は この幻覚によるものです。  自分の体験が幻覚でないことを知る方法は その幻覚に自分の知り得ない  情報が含まれているか?ということを観察することです。  自分が知り得ない情報が含まれていてそれが真実ならば その心霊現象は  現実のものです。  しかし 残念ながら いまだ心霊現象がそうして証明された前例はありません。 ●個人的見解ですが 霊の必要性がみつからないのです。  あるからには かならず それがあるための根拠があるものなのです。  思念はあると認識しています。脳が活動するとき微弱の電流が流れるのは  既存の事実ですよね。電流が流れるということはそこに磁場も発生するわけで  空間を情報が伝わることは容易に考えられる訳です。  ただその思念を空間に留めることはテクノロジーで将来は可能でしょうが  しかし生物の進化の段階で思念を空間に留め置くことが  生命として勝ち抜くための必然性として感じられないわけです。  またどうやってその技術を身に付けるのか その手順が思いつきません。  思念が出るのは脳活動の副産物ですから分りますし。  思念が読めるのは 相手の考えを察知することに有用性があります。  でも思念が空間に留まる必要性は 思いあたらないなあ。  これからの科学の解明に期待をよせてはおります・・・。

  • ruo20
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回答No.4

つい最近、このような哲学のテストがあったので、ちょっと自分なりにいうと 認識というものは、目で見る視覚的なものと、三角形の内角の和は180度という けっして変わらない不変の事実がある。 だから、後者のような認識の可能性は確実であある(絶対主義、定言主義を引用すると書きやすい) で、前者は感覚的なもので、薔薇は赤くみえるのだが、その「赤」というものは 自分の視覚を通じたり、また光の屈折などによって赤いとみえるが その自分がみているの薔薇は本当に赤いのかということが認識でないと考える事できます(こちらは相対主義、懐疑主義な考えかたです) このような哲学的にものをかんえがる時な先人のことばや「~主義」「~論」をある程度かじってから考えると、うまくコトバにできたり、文章にできたりするような気がします。

hamachihamaguri
質問者

お礼

絶対主義とか、定言主義って、思いつきませんでした。哲学には、いろんな「~主義」「~論」がありますね。難しい・・・。でも、教えていただいて、少し、多角的な立場から考えられるようになりました。頑張って、コトバにできるようにします。ありがとうございました。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.2

質問の確信がよくつかめないのですが すこし認識の可能性について・・・。 ●会社人間は リストラ又は 会社が倒産した場合い  その後なにもできなくなってしまうことが よくあります。  これは その人が会社で歩んできたことの多くを自分という内部を通して  認識していなかったためです。会社というものを主体にして認識して  しまっているのです。 ●いかに会社人間であろうとも自分を主体に物事を認識している人間は  会社がなくなってもそれまでの経験を生かせるのです。 ●会社人間を例にとりましたが 実はなんにでもこのことはあてはまるのです。  学校 社会 国家 宗教 恋愛 ・・・ などなど。

hamachihamaguri
質問者

お礼

自分が挙げた例よりも、ずっとずっと分かりやすかったです。あんまり難しく考えると、かえって分からなくなるのですね。レポートが書けそうな気になってきました。本当にありがとうございます!

  • odd-art
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回答No.1

 「八識」ということで、  眼・耳・鼻・舌・身・意の六識に、第七・末那識と第八・阿頼耶識の二つを加えて八識といいます。  六識とは、眼耳鼻舌身意の六根が、色・声・香・味・触・法という外界の六境に縁して、その区別を覚知することをいう。六識が、外界の色心に縁して善悪好醜総別愛憎を了別するのに対して、第七の末那識は、常に自身の内にあって、意識の深層で活動されているとされ、第八の阿頼耶識は、七識のさらに奥にあって、善悪の業が蓄積される、とされています。  法相宗では、この第八識を心王として立てているが、天台宗では、第八識のさらに奥深に第九・阿摩羅識を立てて心王としている。  六根とは、生命の識別器官ですが、それが功徳により清浄になる、六根に備わる煩悩のけがれを払い落とされて清らかになり、ものごとを正しく判断できる英知が生まれることになる。  正しい信仰を知らない人は、この六根が無明の煩悩におおわれて、人生に対する判断に迷い、とりかえしのつかない誤ちを犯すことが多いのであります。  催眠術等で、見えない物なのに見えると催眠・暗示をかけると見えるようになるといいます。  これは六根の働きに異常をきたさしていることであり、六根に影響を及ぼしている何かがあるという証拠でしょ。  幽霊等も見える人と見えない人がいるのも、そういった心身に内在するものの影響があるということでしょう。  そういったものが目先を曇らせ誤まらさせているということであろうと思います。  如何でしょうか?

hamachihamaguri
質問者

お礼

言葉、一句一句が難しいので、最初はよく分からなかったけど、自分の体、もしくは、他人の体にかんして考えてみると分かるっていうことですよね?自分は、幽霊が見えるので、その辺りで考えてみます。ありがとうございました。

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